映画レビュー

@setsuna227

『響-hibiki-』レビュー ―凡人の叫び、価値観の衝突、納得のいかなさ―

※ネタバレ注意


 この映画について、140字ではおさまらない気持ちが生まれたので、こちらの方に感想を書いていこうと思います。

『響-hibiki-』にはそれだけの良さと、納得のいかなさがあったからです。


 まずは良さについて。本作品のストーリーの軸は二つあったと僕は考えています。

 一つは天才と凡人という二項対立によって生まれる物語です。主人公の鮎喰響は天才小説家で、彼女の書いた物語は祖父江凛夏や山本春平といった作家たちに挫折を与えます。凛夏には芥川賞にノミネートという結果で、山本には芥川賞受賞という結果で。こちらの軸にあった話は非常によくできていて、心の底から好きです。凛夏への追い込み方は周到で、だからこそお父さんの祖父江秋人に『四季降る塔』は面白い小説の棚に置くと言われるシーンが映えていました。同時に響の小説にたいする見方だけが絶対のものではないことを示しているのも秀逸でした。僕は自分を凡人だと自覚しているので、よけいに彼らの物語に心を打たれたんだと思います。ほんとうに、よかった。

 もう一つの軸は響という人間の価値観と、他の価値観の衝突によって生まれる物語です。響の生き方を見た僕たちはどう感じるのか。これはこの映画の大事な部分と言っても過言ではないと思います。賛否や好き嫌いがわかれる点、ただの勧善懲悪ではなく、響自身が正しいと思うことをする姿勢は、ときに"やりすぎだ"と感じるところもあります。根っこにあるのは自分の価値観に沿った行動をしているという純粋さであり、ひるがえせばエゴイズムでもある。自分を曲げないとか、自分らしくとか、そういう言葉に伴うまがまがしさが、映像として切り取られていて、差し出された僕たちは、いやおうなしに自分の価値観と照らし合わせるわけです。僕がこの軸でほんとうに素晴らしいと思っている点はそこです。物語の登場人物が響の価値観に触れ、衝突するように、映画を視聴している僕たちの価値観とも衝突させる構図になっているのがすごくよかった。


 自分は、自分の正しさで生きているのか。そう考えた結果、この映画にたいする僕なりの意見を残したいと思いました。だから納得のいかない点もせきららに書いていきます。そうでないと映画『響-hibiki-』としっかり向き合ったことにはならないと個人的に思ったからです。


 なにに納得がいかなかったといえば、物語の終わり、エンドロールが流れる前のシーンです。映画のラスト、鮎喰響は線路の上で山本春平と会話をおこない――そこの会話シーンはほんとうに良い!――電車がやってきても線路内で自分の意見を述べ続け、電車に轢かれそうになります。しかし響が電車に轢かれることはなく、「私は死なないわよ。まだ傑作を書いた覚えはない」と言って、超然とそこに立っています。

 そのシーンを見たとき、なるほど、と思いました。直木賞芥川賞受賞式のとき、響は「私は書きたいことがある限り書き続ける。そうやって生きていきたい」というようなことを話していたので、そのセリフには私はこれからも小説を書いていくし、自分を曲げるつもりはないという意思を感じました。

 この次に僕が話題に挙げたい終わり方がやってきます。映画『響-hibiki-』は、電車の運行を妨げた罪で、響が警察に連行されるところで終わります。パトカーのなかで、響は担当編集の花井ふみに連絡し、100万部刷りが決定した『お伽の庭』の印税についてたずね、損害賠償金についてはなんとかなりそうという会話と、新しい物語が浮かんだという話をします。そして、エンドロールが流れる。

 そのとき、僕は、「え、ここで終わるのか?」と思いました。爽快感はなく、絶望もない、アンチカタルシスのような終わり方。主題歌が終わったあと、当然、後日談のようなものがあるのだと信じたのですが、映画はそこで終了します。

 胸中に残ったのは、響のまっすぐな生き様と、もがく凡人たちの叫びと、納得のいかなさ。

 映画館から出て、家に着くまでの時間、僕はずっとどうしてこのような終わり方を『響-hibiki-』チームが選んだのか考えていました。平手友梨奈のファンである僕は、『響-hibiki-』に関しては熱心にインタビュー記事を追っていて、そこで月川監督の映画にたいして真摯に向き合っている気持ちを知っていたので、ラストを無意味にほっぽり出すような人ではないと思っていたからこそ、そこに込められた意味性を読み解きたかった。

 そして次のような思いが込められているのではないかと思いました。つまりこのラストには、響という人物の肯定と響の行いの否定が一緒に描かれている。作中、ふみは響にたいして、何度も自制するように(主に暴力行為)と注意していますが、響の行動理由については理解を示しています。たしかに、響が暴力をおこなうときにはなにかしらの理由がありました。しかしこの電車の件に関しては、一方的に響が電車運行に迷惑をかけている、というのが今までとは違う点です。ラストシーンで警察が出てくるのは、響という存在をなんでもありの人物にしないためだと思います。一線を越えれば当たり前のようにお咎めがある、これが響の行いの否定になっているわけです。

 けれども彼女という存在は肯定されています。自分のした落とし前は、自分でつける。響のこの価値観の通り、損害賠償は彼女が稼ぐ印税によって支払われるので、価値観の正当性は保たれています。そして響に新しい小説を書くことを宣言させたというのは、彼女の願う「私は書きたいことがある限り書き続ける。そうやって生きていきたい」という道を肯定したことになり、鮎喰響という人物を肯定したことになる。きっとそれは、映画『響-hibiki-』を観て、鮎喰響の生き方に心を動かされた人の肯定でもある。そういった意味ではこのシーンは重要な意味があると思います。


 でも、どんなに意味を考えても、やっぱりここが物語のラストであることに納得できませんでした。

 映画は約一時間四〇分あったみたいですが、ずっとスクリーンに集中してました。終わったとき、「もう終わり? 短くないか」と思うほど、この物語に没頭できていました。だからこそ、アンチカタルシスであることがもったいない。あとワンエピソードあったらと思わざるを得ません。

 以上が映画『響-hibiki-』を見ての感想でした。


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