第3話 千鯉さんとスーツの男

 寒い。千鯉さんは、寝着を脱いでさっと肌襦袢を着る。今日は駅を三つ乗り継いだ場所にある、フォトショップに出かける予定だった。店長が道端で見かけた千鯉さんに声をかけたのがきっかけで、たまに着物の相談に乗っている。


 初めて店を訪れ、一通り話が終わった後、店長が礼金を渡そうとしてきた。だが、ただ好きな事を話しているだけの時間を、お金で換算してもらうのは違う気がした。味気ないと。そう言うと店長はしばらく考え、店から遠くない和菓子屋の季節のおすすめ菓子と焙煎したてのコーヒーならどうだと言ってきた。


 千鯉さんは、その時の事を思い出したのか少し笑った。お太鼓がきれいにできているかを姿見で確認した。今日は白の地色に赤く細い線で今年の干支の犬が2匹走っている姿が描かれている小紋の袷に、黒色に虹のような七色の小さなドットが入った名古屋帯を合わせた。姿見には、よし、と心の中で自分にOKを出した千鯉さんの笑顔。千鯉さんは玄関でお草履を探す。あのお草履はこの辺にと、寒さと期待を抱いた細い指が靴箱の扉を開けた。


 朱色の、ただ朱色の光沢の少ないお草履を千鯉さんは足を合わせた。今日の着物の八掛(はっかけ)も朱色だった。歩いている時の自分の足元を想像してうっとりする。八掛とお草履の相性は千鯉さんのこだわりの一つである。歩いていると、八掛がちらちらと見える。それがお草履と相まってその日の雰囲気を決める。


 八掛とは袷の着物の裾の裏につける布である。前後の身頃の裾裏に4枚、衽の裏に二枚、襟先の裏側に二枚つけ、合計八枚掛けることから、八掛と言われる。他に裾回しとも言い表す。本来は裾につけていたものだが、袖口にも同じ裏布が用いられるようになった。着物の表地が傷まないように保護するものであると同時に、裾捌き(すそさばき)がよくなるようにつけられている。歩いたり座ったりするときに他者の目に写る事も多く、裾や袖口の色のアクセントにもなる。同系色や、反対色を選んだりと好みで選べ、隠れたおしゃれと言える。


 駅について切符を買おうとした千鯉さんは、ビーズが刺繍された楕円の黒いカバンから長財布を出した。するとハンカチがその長財布に引っかかって落ちた。拾おうとした時、どうぞとスーツを着た男性が拾って渡してくれた。その男性はすぐに改札を通り抜けた。ありがとうございますが一人ぼっちで、駅のざわめきに消えた。


 千鯉さんは電車から降り、 歩いてフォトショップに入った。店長はいつも明るく出迎えてくれる。無事終わった成人式の話を聞いた。千鯉さんは1年の中でもとりわけ成人式が好きだった。色・形様々な振袖達。若者たちの生い立ちと、これからの人生への拍手喝さいが詰まっているような気がするのである。


 今日の和菓子はピンクのうさぎのような形のういろうに、金箔が乗せてあった。それを口に運びながら、卒業・入学シーズンに向けた着物の話をした。コーヒーの香りに包まれながら、千鯉さんは去年の写真を見て、店長とアイデアを出し合った。


 夕方になった。夕方と言っても、もうかなり暗い。千鯉さんは自分の最寄駅で電車を降り、改札を抜けた。すると、目の前で黄緑色のペットボトルが落ちた。千鯉さんはそれを拾い上げる。ありがとうございますと、振り返った男は、数時間前にハンカチを拾ってくれたスーツの男だった。


「あっ、あなたは」

「私の方こそハンカチをありがとうございました」

「いえ」

「このペットボトルカバーかわいいですね。カエルかな」

「こんなの僕なんかが持ってても全然似合わないでしょ」

「そんなことないです。手作りでしょう」

「わかりますよね。。。本当はあげたい人がいたんです」


 と、いきなり千鯉さんの目の前で男が落ち込んだ。男が落ち込むのは構わないが、ここは改札口に近すぎる。他の利用客の邪魔になってはいけない。そう思った千鯉さんは、


「よかったら、夕食付き合ってくれませんか?」

「え!?今からですか?」

「あなたの話を聞きたいので」


 千鯉さんは男を引き連れて、駅前の居酒屋に入った。お互いにお酒を頼み、軽くつまめるものを頼み、またお酒を頼み。そんな事を繰り返していると、男はとめどなく階段を下るような話をし始めた。


「僕は好きな人がいるんです。同い年で、でも男同士で。彼とは半同棲状態で、良い時は一緒に僕のマンションで一緒に暮らすんですけど、喧嘩してそれぞれ自分の住処で別れて暮らしての繰り返し」

「相手が異性でもすることは変わらないでしょ」

「まあそうなんですけど。僕はずっと彼といたくてたまらないのに、その気持ちをもろに出すと拒絶されてしまう」

「お相手さんは照れ隠しなのでは?」

「だと最初は思ってたんです。だけど、最近会社の女性社員と楽しそうに話しているのを見かけてしまって。やっぱり異性の方がいいのかなって」

「聞いたんですか?」

「そんなこと聞けないですよ。それに女性の方が良いと言われて、ショックを受けてしまう自分を容易に想像できてしまう」


 そう言って男はまた一口酒をあおった。千鯉さんは男の横顔を見て思う。肌は白く、髪は栗毛で軽くウェーブがかかっている。全体的に細身で、すっきりとした目鼻立ち。並行二重と伏し目がちなまつげが印象的で、引き付けられる。この男の方も、周りの女が放っておかないのではと。


「あなたにいいものをあげます」

「何ですか?」

「じゃ、この店から出ましょう」


 そう言って千鯉さんは立ち上がりお会計を済ませて店を出る。男は慌てて千鯉さんについて行く。夜の駅前をゆっくりと離れていく。ざわめきが遠のいていく。千鯉さんは、道を外れて公園に入っていく。


 公園には外灯が三つあったが、決して明るいとは言えなかった。夏と違い虫も数えるほどしかおらず寂しさが寒さを呼ぶ。千鯉さんはブランコに足をすすめる。そしてスーツの男に言う。


「ここに座ってください」

「ブランコなんて何年振りか」


 そう言いながら男はブランコに腰を落とした。千鯉さんは男の後ろに立った。男は大の大人が二人でブランコ遊びだなんて、アルコールのなせる業だなと思ったのだろうか、笑いをこぼした。すると千鯉さんは男を後ろから背中押すのではなく、その白い手は、ズボンのジッパーを簡単にはずし、男性の象徴とも言える部分に伸びていた。


 男はさすがに困惑した。公園で、ブランコで、着物姿の女性に、後ろから。お酒を飲んでいるしさすがに無理だと思っていたが、体はどうやら違ったらしい。恥ずかしさでどこを向いて良いのかわからない。


「僕は女性の人とは、そのっ、くっ」

「そういうのは気にしないで」


 千鯉さんの手は男の血流を容易にうながした。手の中のそれは男の拒絶とは正反対で開花を待つ薔薇のような百合のような。


「やめて、くださぃ」

「その顔いいわ」

「何言ってるんですか、はぅっ。。」


 千鯉さんの左手は男の胸を弦楽器を奏でるように動いていた。そして男の耳元でささやく。


「あなたのその顔だけで私絶頂できるわ。だから自信持って」


 男は何を言われているのか理解不能だった。ただ外だとか、ブランコに乗っているだとか、そういうことは関係なく、果てる時を迎えた。一体男は何をもらったんだろうか。電灯の一つが点いては消えて、儚く生きていたものの影を写した。


 *

 千鯉さんは男の唇にキスをする。誠に素直なキスだった。男は言った。


「ハンカチを拾った時思ったんです。あなたの着物の裾と、草履の朱色が、あいつの唇にそっくりだなって」


 千鯉さんはいい子ねと言わんばかりに微笑んだ。目の前にある小さな赤い実が、出会うべき両手の上に落ちて強く優しく包まれますようにと。着物の犬たちがブランコの周りを駆けていく夜であった。

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