第74話 文字を知りたくて
「うん、上手く書けてますね」
「本当か?」
セイジの洗濯物を届けたついでにフィカに私が書いた字を見てもらう。
「ええ。でも凄いですね。前は殆ど書けなかったのに」
「早く、覚えたいからな。そうだ、この字はこれで合っているのか?」
私には「め」と「ぬ」の違いがよく分からなかった。実際に紙に書いてフィカに見せる。紙は便利だ。こうして文字を書けるし持ち運びも簡単だ。石板や木片に書くよりも余程簡単だ。
「はい。こっちが『め』でこっちが『ぬ』です。合ってます」
「そうか、良かった。しかし紙をこんな事に使って平気なのか?」
紙は高価だ。こんな風に文字を書く練習に使える物ではない。
「大丈夫ですよ。これは安い紙ですから。ビブリオって紙の生産地でもあるんですよ。ほら、周りに大きな森があるじゃないですか」
紙は木から作られるのだという。そしてその木はビブリオを囲むようにある森にいくらでもある。
「この紙は間伐材から作られてるんですよ。木だってちゃんとお世話してあげないと育たないんですよね。その時に出た枝とかを利用して紙が作られるんです。一石二鳥ですね」
フィカはどこか誇らしげに見えた。
「もちろん全部上質な紙になれば良いんですけどやっぱりそういう訳にもいかなくて、こういう紙も結構出来ちゃうんです。そういうのって遠くまで運んでもお金にならないんですよね。だからどんどん使っちゃっていいですよ。むしろ余ってるくらいです!」
最初に出会った印象とは随分違って、フィカもこんな元気な顔をするんだと知って何となく嬉しくなる。
「フィカはこの街が好きなんだな」
「はい! だって凄い所じゃないですか! ここにはこの世界と私達の知らない別の世界の知識たくさん詰まってるんです! ここは人間の財産です! だから私も、そんな仕事の役に立ちたい、って思うんですけど…」
「何か問題があるのか?」
「司書の仕事ってここに収められた書物の整理と管理なんです。でもそれをするにはどこに何があるかって知らなきゃいけないんです。でも、兎に角、多くて…」
初めて書庫を見た時を思い出す。大きな部屋に無数の書物が並んでいた。そんな部屋が幾つもある。その全てを、知るなんて途方もない事だ。
「千里の道も一歩から──ってみんなには言われてるんですけど、どうしても気は焦っちゃって」
「うん」
私も同じだ。早くセイジと同じ文字を使えるようになりたい。でもそこに至るのはきっととても時間が掛かる事なんだろう。
そうなりたいと思ってもその先は長い。だからと言って気長にその時を待っては居られない。
「フィカ。ちょっと手伝って頂戴」
「あ、はーい! 今行きます! イーレさん、ごめんなさい。私そろそろ行かないと」
見習いの身とは言えそれなりに仕事はあるのだとフィカは言った。
「そうか。すまないな。時間を取らせて」
「いいえ、とんでもない。そうだ、もう平仮名は書ける様になったみたいなので次はこちらを」
フィカが差し出した二枚の紙には私が今まで覚えた字よりもカクカクとした文字が並んでいた。
「これは片仮名って言います。平仮名とは別の形をしてますが読みは同じです。こっちの平仮名のと同じ様に並んでますので分かると思います」
片仮名という物の書かれた紙と前に貰っていた平仮名が書かれた紙を見比べて見ると確かに文字数は同じで所々欠けた部分も同じだった。よく見ると似たような字もある。
「これも練習したら良いんだな?」
「はい。平仮名よりは簡単だと思いますよ。これが書けるようになったら次はカンジですね」
「カンジ?」
「ええ。例えばこんなのです」
フィカは開いた書物に書かれた字の一つを指差す。
「ああ、この難しそうなのはカンジと言うのか。これはなんて読む字なんだ?」
「これは『変』ですね」
カンジは分からなくてもヘンと聞けば意味は分かる。酔っ払ったティレットの状態を表すに相応しい言葉だ。
「変と言えば…、こんな字もあるんですよ」
フィカは紙に一つの字を書いた。
「これが『恋』です。下の部分が変わると意味が全然違う文字になるってすごいですよね。ちなみにこの下の部分だけで『心』って読みます。変の方は分かりませんけど」
フィカはそこまで言うと呼ばれた事を忘れてた事に気付いて慌てて部屋を飛び出して行った。
カンジは分からなくても「恋」の意味くらいは分かった。
仲の良い男女の関係を表す言葉だ。
私はそれ以上考えるのを止めて字の練習に取り掛かる。
「ア」から順番に紙に書き写す。
フィカの言った通り平仮名を書くよりも簡単だった。
私は無心に紙に片仮名を書いていく。
無心に、何も考えないように、意識しながら。
「恋」という文字が頭から離れない。
フィカの書いた文字と開いたままになっていた書物に書かれた「変」を紙に書き写してみる。
変、恋。変、恋。変、恋。
そして「心」。
変恋、変変、恋恋、心、心。ヘン。コイ。へん、ココロ。こころ。
覚えたての字を使って紙を文字でいっぱいにする。
その紙の一部が「恋心」になっているのを見つける。
恋とは男女の仲を表す言葉だ。
私とセイジは仲が良いと言えるのだろうか。少なくとも仲間である事に違いはない。仮に仲が良かったとして、それが必ずしも恋仲とは限らない。
確かに私はセイジが好きだ。
でも、それは、きっと、仲間としての「好き」なのだ。
「あ…」
ふと我に返って「変」と「恋」と「心」で真っ黒になった紙を見る。
「…何をやってるんだ。私は」
これが上質な紙でなくて良かった。これなら遠慮なく捨てられる。持ち帰って竃の火に焚べてしまおう。間違っても誰かに見られたりしないように。
だったら、なぜセイジの使っている文字を覚えようとしているのか。
不意に頭の中に浮かんだ問いを誤魔化すことは簡単だった。
それ以上に真っ先に浮かんだ答えがあった。
「仲間の助けになりたいって思う事に間違いなんて、ない」
私は文字の練習を切り上げ机の上を片付けてビフィスに帰る事にした。
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