第64話 キスと精霊と…


 セイジの所に、歩く。

 もう一度彼と話をするために。

 エアリィは言った、大丈夫だからと。

 洋子さんは言った、私がセイジに嫌われている事なんてありえないと。

 ティレットとブチは何も言わなかった。

 怖い。

 本心を聞くのが怖い。

 でも大丈夫だ。エアリィもそう言ってくれた。信じろ。

 足取りは重い。セイジに口づけを拒絶された事がこんなにも辛いことだなんて思わなかった。それでも一歩、一歩、足を前に出す。

「イーレ?」

 セイジの所まではまだ距離がある。それでも彼は近づく私に気付いている。さっきなんて側で声を掛けるまで気付かなかったのに。

 私は立ってこちらを向いているセイジに向かって黙って歩く。

 なんだかとても怖かった。



「さっきは、ごめん」

「…いや」

 僕の側に歩いてきてくれるイーレに近付いてまず謝った。エアリィが言ったようにイーレは傷付いているようでその面持ちは静かだ。

「あの、さっきの事だけどな」

「うん」

「やっぱりキスは出来ない」

「…そうか」

「イーレにそんな事はさせられない」

 イーレは顔を上げる。

「どういう事だ?」

「イーレは初めてなんだろ?だからだ。初めてのキスは何かの条件とかじゃなくてもっと純粋に好きだからとかそういう理由でするべきだ、と思う」

 この考え方が正しいのか分からない。そんな事に拘るなんてそれこそ僕が童貞だからだろう。でもイーレにはそんな不純な動機で初めてをして欲しくない。ましてそれが僕の不始末のためなら尚更だ。

「…そうか」

 イーレは一つ深呼吸する。

「セイジは私の事を考えて断ったんだな?」

「…ああ」

 イーレはため息を一つ吐いた。



 ホッとした。嫌われてなんていない。セイジは私にそんな事をさせたくなかっただけだ。

「…良かった。私はセイジに嫌われてるのかと思った」

「そんな事あるわけないじゃないか!」

 セイジが突然強い口調で言うので私はまたびっくりする。なんだか今日はセイジに驚かされてばかりいる。

「そうなのか?」

 私は少し意地悪くなって聞く。こうなったらセイジが私の事をどう思っているのか聞き出してやろうと。

「当たり前だろ。イーレは大事な仲間だ。今までだってそうだったしこれからもそうだ」

 仲間、か。そう言われるのは嫌じゃなかった。

「いつもご飯作ってくれるし美味しいし、レンサにだって何度連れて行って貰ったか分からない。本当に助かっているんだ。イーレがいなかったら今みたいなトイレなんて作れなかった」

 そうか。考えてみたらこの湖の惨状に私は一枚噛んでいるのか。もしトイレ作りが遅々として進まずにいたら早々に諦めていたのかもしれない。そうなっていたらこんな風にはなっていなかっただろう。

「なら、私のせいでもあるんだな。この湖は」

「それは違う!これは僕のせいだ。僕が考えなしに水洗トイレを作ったから!」

 セイジの顔はなんだか悲痛に見えた。

「そうだ、僕がもっと考えていたら、最初からこの光景を想定していたらこんな事にはならなかった。第一僕は知ってるんだ。こうなるって事を。公害とか水質汚染なんて教科書にだって乗ってるんだ。それを知っていながら楽観的に考えていたからこうなったんだ」

「公害?水質汚染?それはなんだ?」

「この湖みたいに色んな物を垂れ流しにしたせいで酷い事になるって事だ。流した物に毒が混ざっててそれを食べて育った魚を食べた人間が病気になったりしたんだ。ここにはそんな有害物質は流れて来てはいないが今だって魚は死んでるし生態系に影響を与えてしまっている」

 時折知らない言葉が混ざる。セイジは知っていて私は知らない言葉。

「つまり分かっていながら何の対策も取らなかった僕の責任だ。イーレの責任なんかない。巻き込んだ僕が悪いんだ」

 そう言われるのは辛かった。さっき程ではないが、お前は関係ないから引っ込んでいろと言われたような物だ。

 そしてそう言うセイジの顔はとても辛そうだ。私にはそれが一番辛かった。

「セイジ…」

 だから言葉を掛けようとした瞬間異変が起きた。



 突然吹いた突風は強く思わずよろけてしまう。

 足下は湖の側とは言え長時間座っていても尻は濡れていない。なのに突風に抗おうと踏ん張った所は泥濘んでいて足を滑らす。

 立っていられなくなった僕はイーレに倒れ込んだ。



 突然の風に煽られて私はよろけて後ずさる。なぜか足下は泥濘ぬかるんでいて転んでしまう。セイジも同じだった。セイジは私に覆い被さるような格好で倒れ込んだ。


 その瞬間私の唇がセイジの頬に当たった。



「…すまない。大丈夫か?」

 体を浮かしイーレの顔を見る。真っ赤になって手で口を抑えている。

「怪我したのか?」

 イーレは首を振る。そして俯く。

 何が起きたのか分からない。

 とにかく起き上がりイーレに手を差し出す。その手はそっと握られる。


 だから僕にも見えた。喜色満面といった顔をした水色の精霊の姿が。精霊は何やら興奮した様子で両手でサムズアップして僕らを見ている。水色の精霊だけではなかった。他の色をした精霊、恐らく風と火と土の精霊もその後ろでニヤニヤとしているのが分かる。

 そこで気付く。さっきの突風はきっと精霊のイタズラだと。



「え?」

 精霊様の言葉が頭に入ってくる。合格だ、と。そして精霊様達は楽しげに湖の上を舞い始める。

 そして気付く。私達は条件を満たしたのだと。



 まるで何かのアトラクションでも見ているようだった。精霊が湖の上をクルクルと踊るように回り始めたかと思ったら湖から光が迸る。何本もの色とりどりの光の束が汚く濁った湖から立ち上る。

 とっくに夕暮れ時は過ぎて夜になっている。だからその光が迸る光景は美しいとしか形容しようがなかった。



 精霊様はしばらく湖の上、光の間を縫うように舞い踊る。そして光が消えると湖の水は綺麗になっていた。セイジにもそれが分かったのかその湖に走って行く。そして水の精霊様が私の側に飛んで来て耳元に口を寄せて言う。

「なっ⁉」

 お幸せに、と。



 光が収まったと同時に辺りの臭気は消え失せていた。湖からは濁りも汚れも消えていた。僕はその水を確かめるために湖の側まで走る。

 辺りはすでに暗くなり明かりは満月が近くなった月だけだ。その光が湖の底に届くほど水は綺麗になっていた。両手で水を掬ってみる。まるでミネラルウォーターのように透明で綺麗だった。何度も掬っては見て、掬っては見てを繰り返す。どこで掬っても水は綺麗だ。

「おい!セイジ!!何をしているんだ!」

 僕は掬ったその水を飲む。清水、いや聖水とすら思える程の水だった。僕は湖に飛び込みその湖の中を見る。一切汚れがない。美しい湖だ。

「おい、そこはさっきまであんなに汚れてたんだぞ。平気なのか?」

「ああ、大丈夫だ…」

 湖から上がって水浸しになりながら答える。

「ここの水は綺麗だ」

 世界一綺麗とすら言っていい。それほどまでに綺麗だった。

「そうか。何事かと思ったぞ」

「イーレ、ありがとう。これもイーレと精霊のおかげだ」

「私は何も!してないぞ…」

 再び湖を見る。広い湖はどこまでも綺麗で波打つ度に月明かりを反射してキラキラと光っている。

「この湖を──」

 僕は決意する。

「もう二度とあんな風に汚さない。その手段を探してみせる」

 僕は誰に聞かせるわけでもなくそう呟いた。

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