第63話 キスと精霊と汚れた湖


 もう日は沈みかけている。ここに着いてからずっとこうしている。ただ湖を目の前に座っている。

 どうすればいい?

 ランスから来た青年は言った。このままでも良いと。豊漁になってありがたいと。だが綺麗な湖がなくなって寂しくもあるのだと。

 どうする?

 もちろん、湖は元の綺麗な湖に戻さなければならない。

 どうやって?

 ろ過だ。この湖から汚泥を掬い取ってしまえばいい。

 どうやって?

 手段なら何かあるはずだ。この世界には異世界人がいっぱい来ている。中にはこんな汚れた湖から汚泥を濾し取ってしまう方法を知っている人も来ているかも知れない。僕のいた世界にそんな技術はない。やろうと思えば出来ない事もないだろうがそんな技術を僕は知らない。だがエアリィなら僕のいた時代から三百年も後の日本から来たのだ。知っているかも知れない。ティレットのいた世界なんてうんこをアウメという綺麗な物質に作り変える技術が当たり前に存在しているのだ。そんな世界の技術ならこの湖を綺麗にする手だってあるはずだ。

 どうしたい?

 この湖を綺麗にしたい。いや、しなければならない。水洗トイレを使い続けてなおこの湖がこんな事にならなくて済む方法を見つけなければならない。だからこんな事をしている場合じゃない。

「セイジ」

 自問自答を何度も繰り返していた僕を呼ぶ声がした。振り向くとそこにイーレがいた。



「あ、いや、その…」

 セイジと口づけをすれば湖を綺麗にする。精霊様から提案をされてそれをセイジに伝えようと口を開く。

「…どうした?」

「ふぇっ!いや、えーっと」

 ただ言われたまま伝えればいい。それはきっとセイジにとって良い話だ。

「セ、セイジは!この湖を、どう、したい、んだ?」

 ただ伝えるだけ。なのに私は緊張して上手くしゃべる事すらままならない。

「…元の綺麗な姿に戻したい」

「そ、そうか」

 セイジの答えなんて分かり切っている。綺麗な湖が汚くなってそれで落ち込んでいるのだ。そう考えないわけがない。

「あ、あの!」

「イーレ、ちょっと落ち着いてくれ。どうしたんだ、さっきから」

「いや、そう、だな」

「ほら、深呼吸して」

 言われた通りに鼻と口で深く息を吸い込む

「ん⁉」

 湖の周囲には異様な臭いが漂っている。私はそれを深く吸い込んだのだ。臭い。あまりにも臭くて咳き込む。

「大丈夫か?」

「あ、ああ、大丈夫だ。でも、取り敢えず、落ち着いた」

「そうか。それで?何か用があったんじゃないのか?」

 セイジに促されて一呼吸して決心して口を開く。

「その、精霊様がな、この湖を綺麗にしてくれるって言っている」

「…良いのか?」

「あ、ああ。セイジがそれで楽になるなら」

「そうか…」

「そ、それでな。実はそれには条件があるんだが」

「なんだ?」

 私はもう一度息を吸う。

「わ、私と、その──」

 言え。ここまで来たら言ってしまえ!

「く、口づけを、する事が条件、なんだけど…」

 言った。言ってしまった。もしこの条件をセイジが飲んだら私はセイジと口づけをする事になるんだ。…今更そんな事に思い至ってどうするんだ!私は!

「…僕と?」

「へ?そ、そうだぞ?」

「…キス、って事だよな?」

 キス?セイジは口づけの事をキスと言うのか。

「イーレはしたことがあるのか?」

 想像してなかった問いかけに私は面食らう。

「口づけを?いや!まだ、誰ともした事はない、んだが…」

 元の世界では私の年頃になると結婚するのは珍しいことではなかった。だが私は全くそういう事に縁はなかった。

「ならダメだ。出来ない」

 セイジは静かにそう言った。



「そ、そうか。そうだな。口づけなんて、簡単にするもんじゃないもんな」

「すまない」

「私こそ、変な事を言ってすまなかった…」

 イーレはそう言って駆け出していった。

 湖を綺麗にする代償がキス?しかもまだキスをしたことがないイーレと?

 僕は一体何をやっているんだ!自分の仕出かした事のためにキスをしたことがない女の子に初めてを捧げさせるだと?そんな事を出来るわけがないだろう!これは僕自身の不始末だ。僕自身が解決しなきゃならない。そのためにイーレの初めてを奪うなんて真似なんて出来ない!イーレにそんな事を言わせるなんて僕はなんて情けないんだ!

「あーあ、良くない。良くないですよ今のは。川谷清治君?」

「エアリィ、見てたのか」

「見てたし、聞いてた。あれじゃイーレは間違いなく傷ついたね」

「…ならどうしろって言うんだ。湖を綺麗にするための条件がキス?しかも初めての?そんな事させられるわけないだろう!」

「あー、実に童貞ちっくな発想だね。そう言えば清治も初なの?」

「僕の事はいい!イーレにはそんな事させられない!」

「でもさ、それはイーレには伝わってないよ。これは間違いない。断言する」

 イーレが傷ついた?どういう事だ?

「分かってないって顔してるね。まぁいいや。取り敢えず確保しといたから後はちゃんと話してくれたまえ。今清治が私に言った事と清治が今考えてる事、全部」

「あ、ああ。分かった」



 走る。ただ、走る。走って走って、そして立ち止まる。

 予想外だった。断られるなんて思っていなかった。

 びっくりした。口づけなんて湖が綺麗になるためのただの手段だ。湖が綺麗になるんだからそれで良いじゃないかと。セイジは私の提案を受け入れると思っていた。

 まさか断られるなんて。私はセイジによく思われていないのだろうか。

 いや、そもそも私はセイジと口づけをしたかったのか?私はセイジの事が好きだったのか?

「イーレさん」

 声を掛けられてその声のした方を見る。洋子さんだ。その後ろにブチを肩に乗せたティレットが座っている。

「エアリィ様からイーレさんを引き留めて置くように言われております」

「そうか…」

 洋子さんはいつもと同じような佇まいで立っている。

「私は、セイジに嫌われて…、いるのだろうか?」

「それはありえません」

「どうしてそう思うんだ?」

「私の勘です」

「勘じゃ分からないだろう」

「いいえ、分かります。私の勘は鋭いんです」

 そう言って洋子さんは笑う。

「とにかくイーレさんにはここに留まっていて頂きます。場合によっては力尽くでも」


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