第62話 精霊と汚れた湖
「セイジ!」
その姿を見つけそばに降りて声を掛ける。だが返事はなかった。
「おい、セイジ。どうしたんだ一体?」
辺りには臭気が漂う。だがかつてこの世界に作ったクソバーの臭いとはまた違う別の臭いだ。
「くさーい」
「…にゃあ」
酔っていても臭いは感じられるようでティレットとそれにブチも顔をしかめている。
「…イーレか?」
「ああ、セイジが突然ここに走って行ったと聞いたから気になって来たんだ。それにしてもこれはどういう事なんだ?ランス湖ってもっと綺麗な湖だったはずだ」
湖を見る。かつての清浄な湖の面影はもう僅かも残されていない。ただ泥水のような、いやそれ以上に汚い水が溜まっている。
「…僕のせいだ」
「え?」
あまりにも弱々しく呟いたのでその声がよく聞き取れなかった。
「こうなったのは、僕のせいだ。僕がトイレなんて作ったから…」
「なんだ?どういう事だ?」
セイジは返事をせずただ項垂れていた。
「フエイヨウカ?」
「そう、富栄養化。要するに下水に含まれる栄養分が増えすぎてそれを栄養とするプランクトンとか藻とかが大量発生してこうなってるんよ」
私は少し遅れてランス湖に着いたエアリィと湖を見て回っている。そして酷く汚れてしまった湖がどうしてこうなってしまったのかエアリィが説明してくれる。だが私には知らない言葉が含まれていて戸惑った。
「ぷらん…?それはなんだ?」
「プランクトンね。要するに物凄く小さな生き物。これを魚が食べたりするんだけどあんまり多過ぎても困った事になるのね。ほら、あそこ。死んだ魚が浮いてるでしょ?酸欠でなのかエラに詰まってなのかは分からないけど」
エアリィの指した所には確かに魚が浮いていた。
「あれがまた腐って沈んで栄養分になってプランクトンが増える。悪循環だね」
それはそこだけじゃなかった。相当歩いて湖の周りを歩いて見てきたがあちらこちらで魚が浮き湖の水は濁り水面の所々に緑色が広がっていた。こんな湖を前にセイジは座り項垂れている。声を掛けても「僕のせいだ…」と繰り返すばかりだった。とにかく状況を知るためにこうして見て回っているのである。
「この臭いは?」
「それは下水のせいだよね。何せ排泄物が流れて来てるんだから」
異様なのは見た目だけではなかった。湖の周囲には酷い臭いが立ち込めていた。この臭いを嫌がったティレットとブチは湖から離れどこかに行ってしまったほどである。
「それだけじゃなくて汚水の成分が分解されたりした時の臭いも混ざってるんだろうね」
「分解?」
「そう。ほら、イーレの世界のクソバー、だっけ?それも同じ事が起こってるんよ?」
「クソバーはこんな臭いはしないぞ」
クソバーは大きな穴に排泄物を溜め自然に還そうという物だ。いっぱいになれば土と種を被せそれはやがて土となり大地に還る。それは確かに排泄物が集まっているのだから臭い。かつてこの世界に作ったクソバーだって臭かったがこんな臭いはしなかった。ここで臭うのはそれとはまた別の臭いだ。
「私も専門家じゃないから分からないけどまた違う反応が起きてるんかもね。まぁとにかくこれが下水のせいなのは間違いないね」
改めて湖を見る。どの位置から見ても湖の水は濁り辺りには異臭が漂っていた。
「な?言ったとおりだったろ?」
すでに日は傾きかけた頃、今朝役場で会ったランスから来た青年が湖に来た。ランスに帰る途中に立ち寄ったのだと言う。
「海は、どうなってるんですか?」
「汚れかい?ここまでではないな。まぁ川のそばなんてのは大概濁ってるもんだけどな。海ってのは」
青年はこの湖を見ても平気そうに見えた。
「しっかしこれもビフィドの神様の恵みなんだろうな」
「どういう事です?」
「ほれ、ビフィードの話聞いたことない?いや、海までこんなんだったら魚も酸欠起こして死んでしまって漁どころじゃなくなるんだが、この湖の養分を適度に流してくれるおかげで豊漁になってるわけさ。もし川の水量が少なければこれはここに溜まって終わりだし逆にもっと急流だったらこれが湾内に溜まって海までこうなっちまう」
青年はふむ、と一つ頷いて続ける。
「このちょうど良い塩梅こそまさにビフィードの恩恵なのさ」
青年の言い方は酷く楽観的に思えた。
「ひょっとして責任感じてる?役場でキミの事聞いたよ。これトイレってのを作ったせいなんかい?」
「…はい」
反論のしようなんてない。
「まぁ気にする事ないさ。豊漁なのは事実だしな。人手の方も市長さんが前向きに検討してくれるって言ってくれたしな」
「…このままでも、良いと?」
「いや、もっと悪化して海まで糞まみれにされちゃたまんねえけどな!」
青年は笑って言う。
「でも糞って言っても自然に還るわけだろ?それがたまたまこんな形になってその糞を栄養にして魚の餌が出来るわけだ。それも自然に還るって奴じゃないの。おかげで豊漁なんだ。漁師としては大漁こそ喜びよ!」
「でも、湖がこんなになって平気なんですか?」
「ん?…あー」
青年は少し言い淀む。
「それなぁ。実を言うとな、嫁さんにプロポーズしたのここなんだよ。ちょうどキミが座ってるとこ、いや、もうちっと向こうかな」
「プロポーズ…」
「いやぁ、若気の至りって言うか勢いっつーか、まぁ綺麗な所でロマンチックに決めたかったわけよ。で、ここを選んだんだ。そん時は綺麗だったからな。だから──」
青年は頭を指で掻きながら言う。
「ちょっと寂しい事は寂しいわな。思い出の地が変わり果てるってのは。まぁ、でも思い出じゃ飯は食えねえしな。今繁盛してんならそれでいいさ!」
そう言って笑って、青年はランスに帰って行った。
「結局、これはどうすれば綺麗になるんだ?」
「さあ?いっそティレットに全部吹っ飛ばさせるとか?こう、湖ごと消滅させる勢いでさ」
湖を眺めてみたがどこから見ても同じで私達はセイジの所に戻ろうと歩く。
「それでもまた流れてくるんだぞ?」
「したらまたドーン!と…、ってダメか」
歩きながらどうすればこの湖が元の美しさを取り戻すか考えていた。
「それじゃあ湖が綺麗どころの話じゃないな」
「じゃあイーレならどう?精霊の力でさ」
これを綺麗にするために精霊様の力を借りる、その発想はなかった。
「あ、でも精霊って神聖な存在なんだっけ?なら人間の排泄物の処理なんてさせられないか」
「それはそうだが」
もし、他に手段がなくて、解決策が無くてセイジが困っているなら、私は精霊様にお願いする事になるかも知れない。セイジがあんな風に落ち込み続けるのは嫌だ。精霊様ならこの湖を綺麗にする事なんて簡単なはずだ。
「まぁ私だって人間の尻拭いをそんな神秘的な存在にさせるなんてちょっとどうよって思うけどさ」
「え?」
「ん?どした?」
「いや、って、え⁉」
突然精霊様の声が聞こえる。声というよりも頭に直接精霊様の言葉が伝わってくると言った方が正しい。
「ん?ん?ん?」
「いや、すまない。精霊様が…、ふぇっ⁉」
精霊様の声を確認し反芻する。
「なんだ、なんだ?イーレ顔真っ赤だよ」
「…あぅ。いや、実は、精霊様がな」
「ふむ」
「私と、セイジが、その、くっ!口づけをしたら、湖を綺麗にしてくれる、って」
「ほう?」
自分でも分かるくらいに顔が紅潮している。セイジと、口づけ?私が?なんで?
でも、それで湖が綺麗になって、セイジが楽になるのなら…。
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