第47話 受け継がれる思い 4


 和式便器とはしゃがんだ状態、所謂うんこ座りの体勢で排便するためにある物である。前方には半球をさらに二つに割ったような覆いがあり全体の形としてはスリッパに似ている。穴は細長い楕円のような形で更に一段深い穴があり排便した後に水を流せばそこに流れ込んでいくのである。

 この深い穴だが前にあるのか後ろにあるのか僕の記憶は定かではない。多くは前にあったはずだが後ろにあった物にも見覚えがある。とは言え和式で用を足すのは苦手で和式か洋式かを選べるなら洋式を選んでいたので和式での排泄経験は多くない。だからはっきりと穴は前にあると確信が持てなかった。

 悩みに悩んだ結果、僕は発想を変えることにした。何も元の世界の和式便器を完璧に再現する必要なんてないのである。今置かれた状況に都合の良いものを作れば良いのだ。

 最終的には穴は後ろにした。これはクソバーでのトイレ経験が物を言った。クソバーの仕組みは排泄した物を外に掘っておいた穴に落とすだけという簡単なものである。この時排泄物は滑り台のような構造の板を滑っていくのだがその方向は排泄する人間の背面と同じである。和式トイレで言えば後ろに穴があるような物だ。それと同じ様にしたのである。

 穴が後ろにあるのは水を流すにも都合が良かった。前に穴のある和式便器に水を流すとその水は後ろから出てくる。だが配管らしき物は前にある。水を流すレバーも前にある。という事は水は便器の中を通って後ろから流れ出すのである。この仕組みはとても複雑だ。陶器の中に水路を作るわけである。現代日本の技術なら作れるだろうがこの世界の製陶技術では難しいだろう。僕が猫六さんに作ってもらいたいのは単に耐水性が高く見た目が美しい便器だ。内側に水を通す通路をまで作ってもらおうとは思っていない。そんな複雑なことはしなくても前から後ろに水が流れれば良いのである。

 もう一つ考えなければならないのは水である。ビフィスではビフィド山から流れる豊富な水を生活用水として利用している。だが上水設備はただ水を流す溝を作ってそこに流す程度の単純な物だ。僕はその上水経路を新設し水を流せる様にしようと考えている。配管に使えそうなパイプは確保してある。それを便器に繋げれば良いのだ。問題は流す先である。下水道はあったのでそこに流すのだがそこまでが問題なのである。和式洋式のいずれにしても便器の穴には常に水が溜まっている。これは臭気が上がって来ないためにあるのだが僕はなぜそうなっているかを知らない。エアリィにも聞いてみたのだが彼女の脳内データベースにも関連する用語が幾つか出てくるもののさっぱり分からなかった。これが分からないと水洗トイレを作ったところで上がってきた臭気によって快適なトイレとはならないだろう。

 この問題を文字通り洗い流せる方法は川の流れを変える事だった。つまりトイレそのものを川にすれば良いのだ。絶えず水を流しっぱなしの状態にして臭気が上がってこないようにする。下水道の中も水が流れっぱなしの状態になれば臭気も汚物も留まる事はない。それだけの水量はある。川の流れる経路を変えるだけなのだ。

 となれば便器の形は必然的に普通の和式便器とは違ってくる。求められるのは水が流れやすい形で排泄した時におつりが来ないような形だ。という事で前から後ろに傾斜した底を持ち普通の和式便器よりも深い物となった。穴の先はラッパ型にして太めのパイプに流れ込むようにする。そのパイプを下水道に繋げれば川谷式水洗トイレの完成だ。

 これを絵にしてみたのだが中々上手く描けなかった。この世界の紙は手が届かない程高額でもないが気軽に捨てられる程安くもない。それに筆記具はペンが主流でシャーペンどころか鉛筆もない。なので硬めの炭を鉛筆代わりに、売れ残りのパンを消しゴム代わりにして高い紙に絵心のない僕が緊張しながら描いたところなんとも形容し難い設計図が完成した。

 そんなわけで猫六さんに一つ一つ説明しながらの作業となった。



 僕らがまず手を付けたのはモックアップだ。なんでも陶器というのは焼くと何割か縮むそうでまずは目指す形そのものを作ろうと猫六さんから提案されたのである。

「幅はこれくらいで良いか?」

 手始めに板の上に粘土を薄く伸ばし便器の枠を作る。ここに穴を開け金隠しを付けてと作っていくのである。

「ええ。このくらいで、大丈夫です」

 僕はそのまだ柔らかい粘土の板の上に跨る。広すぎては足が疲れるし狭いと外しやすくなる。適度な幅が必要なのだ。

「形はこれで良いか?」

「はい、次は穴ですね」

「おう。ちょっと待ってな」

 猫六さんは木のヘラを器用に使い縁を残して粘土を切り取っていく。

「こんなんでどうだ?」

「大丈夫です」

「次は金隠し…か?金隠しってなんだ?」

「それはですね…」

 図では伝わらないので身振り手振りで伝える。

「こういう丸い感じで、厚みはこの縁と同じくらいで、中は、ええっと、奥の方にはパイプを繋げるので穴を開けるんですが、それだとその辺りは平らにしないといけない、ですね」

「分かったような、分からんような。とにかく盛ってみるか」

 猫六さんはさっき切り取った粘土を捏ね細く棒状にして縁の部分に乗せていく。

「この辺りからだな?」

 金隠しの始まる位置を確認するとどんどん棒状の粘土を重ねていき形を整える。もうなんとなくそれらしい形になってきた

「丸く…だな?高さはどれくらいだ?」

「高さはこれくらいです」

 実際金隠しがどのくらいの位置まであったか定かではないが感覚で伝える。金隠しとは言えそこにナニを収めて使うのではない。考えてみればなんで金隠しなんて言うんだろう。女性用だって和式なら同じ形なのに。だが金隠しのない和式便器なんてあり得ない。

「そのパイプの付く辺りはこの辺か?」

「いえ、もうちょっと上の方です。だからこの辺りは丸くはならないですね。あと上の所は平らだと有り難いです」

「なるほどなぁ。こんな感じか?」

 猫六さんの腕は確かで僕の曖昧な説明でもイメージ通りの形を作ってくれる。金隠しは通常の物とは違い真ん中に分厚い板が突き刺さったような形になった。この板の所にパイプを刺しそこから水を流すのだ。

「これ内側はどうするんだ?」

「中はこの厚みで外側と同じ様に…、あ、ここの所は下に向かってなだらかな感じで」

「分かった」

 猫六さんの使う道具は木ベラ以外にも色々あった。ペンみたいな形をしたヘラとか粗いスポンジのような物とか、今は棒の先に金属の輪っかの付いた物で金隠しの内側を削っている。

「こんなところか?ちょっと見てくれや」

 金隠しの中を除くと丁度パイプが繋がる所からなだらかにカーブが出来ているのが分かる。

「ええ。大丈夫です。下と合わせてみて微調整はいるでしょうけど」

「ああ。分かった。ちょっと跨ってみてくれや」

 僕は猫六さんに言われるままその上に跨る。

「ちょうど良いです。まさしく、和式便器です」

「そうか」

 そっけなく短く答えた猫六さんだったがその表情は嬉しそうに見えた。



「うちの窯は代々これを作ってきたんだ」

 下の部分を作る前に休憩をと茶を飲んでいると猫六さんはあの器を持ってそう言った。

「でもな、儂の祖父さんの代で一度廃れちまったんだ」

 以前ここの前で出会った老人もそんな事を言っていた。

「一度廃れた技術ってのはそう簡単に取り戻せるもんじゃない。儂と親父とで現物を見て古い資料を調べて、なんとか同じ物を作れるところまで漕ぎ着けた」

 猫六さんの手にする器は僕の持って来たものとは別の物だがその形は殆ど同じ物だった。

「なんで廃れたんですか?」

「そりゃこんなもん売れねえからさ」

 猫六さんはそう言って笑う。

「何に使うかも分からない、何かに使うには中途半端、そんなもん作り続けて何になるんだってな。祖父さんがそう思ったのも無理ないさ」

「だったらなんで」と僕が言いかける前に猫六さんは続けた。

「儂の曾祖父さんがな、儂がまだ小さい頃だったけどな、よく言ってたんだ」

 猫六さんはどこか遠くを見ているような目をして

「この技を守り、伝えよ。いつか『その時』がくるまで」

と言った。

「アレはこれみたいな色をしてたんだろう?」

「ええ。白くて、縁の分厚いところも便器っぽいです」

「まさかそんな物を作る技術だったとはな。通りで検討もつかんわけだ」

 猫六さんは楽しげに笑う。そりゃそうだ。陶器は料理を盛り付けるためにあるのだ。この世界ではそういう使われ方しかしていない。しかも高級品の部類である。イーレの世界だとその見た目の綺麗さから王冠に使われているらしいが陶器の水に強く腐食しないという特性は食器にこそ相応しい。そしてその特性は水洗便器にも丁度良いのだ。

「しかし陶器を糞のために使うとはなぁ。お前さんの世界はどうなっとるんだ」

「どうって言われても…」

 陶製の便器なんて僕が生まれる前から当たり前に存在した。僕は元の世界でいつこんな便器が誕生したのかは知らない。

「まぁ良いさ。儂が生きてるうちに『その時』が来たんならこんなに有り難い話はない。今までやってきた事が無駄じゃないって分かっただけでもな」

 これは無駄なことかも知れない、そう思いながらも続けてきたのはどんな気持ちなんだろう。きっと僕なら投げ出してしまう。一年二年ならまだしもこの老人はその生涯の殆どをこの事のために費やして来たのだ。

「一つ言っとくが」

 再び作業に戻ろうと腰を上げた猫六さんはそう口を開く。

「何もこれだけをやってきたわけじゃないからな。孫じゃないが他所の窯の手伝いだってしてるぞ。最近は歳のせいで引退したけどな。何せこれだけじゃ食っていけないからな」

 猫六さんはそう言って笑いながら作業場に向かったのだった。



 最初から上の部分と下の部分は分けて作る、そう話し合って決めた。なにせ形が複雑なのだ。それ単体で自立するわけでもないので皿や壺を作るようにはいかない。そんなわけで下部は天地を逆にして形を作り、ある程度粘土が固まったところでひっくり返して中を削っていこうという事になった。

 すでに固まり始めた上部の下に木を置きそこに接地面に沿って炭でなぞり型を取る。その型の上に金隠しを作る時にやったように棒状の粘土を盛っていく。これは手びねりと言うそうで僕もなんとなく聞き覚えがあった。要は底のない妙な形をした壺を作る要領なのだ。しかし母親の陶芸趣味のせいで得た知識がこんなところで活きるとは思わなかった。

 上部と違い下部は見える面とは逆向きなのでどういう形になっているのか把握するのが難しかった。それでも感覚を頼りにして猫六さんと形を作っていく。

「後は固まらないと難しいな。しかし実際どう作っていくべきか…、下から作って、台に乗せて、その上に…、いや、上は上で作って後から乗せるか」

 ある程度形が出来たところで猫六さんはぶつぶつ言いながら考え込んでいる。そう、これはまだモックアップの段階だ。実際に作るとなると同じ様にはいかない。

「おい、ちょっと水を…」

 言いながら立ち上がった猫六さんはバランスをくずしその場に崩れる。

「大丈夫ですか⁉」

「…いや、大丈夫だ。ちょっと立ちくらみがしただけだ。それよりも水を持ってきてくくれ」

「水って飲み水です?」

「ああ。店の方の瓶に入ってる。そこから汲んできてくれ」

 言われて急いで店の方に向かう。ここは店と作業場と窯が隣接している。そして店の奥はちょっとした休憩スペースになっていて流しと瓶が置いてある。この瓶の水は井戸から汲んできた物で飲料水と食器を洗うのにも利用される。もちろんそこから汲んで、だが。

「おう、すまんな」

 手頃なコップや湯呑がなく仕方なく常用している感のあった例の茶碗に水を入れて持って行くと猫六さんは一息に飲み干した。

「いやぁ、歳は取りたくないもんだ…」

 ため息と共に絞り出した言葉はなんだか切なそうだった。

「あまり無理しないで下さい」

「分かってるさ。…でも、止められん」

 ニヤリと笑って猫六さんは作業に戻る。下部の表面を水で濡らしたスポンジ(植物の実を加工したものだそうでヘチマに似ているがそれよりは柔らかそうに見える)を使って慣らしながら再び口を開く。

「そりゃムキにもなるさ。なんてったって何代も受け継いできた技術が漸く役に立つんだ」

 猫六さんの背中は歳を取った老人のそれだ。だがその動き一つ一つが力強く見えた。まるで執念に突き動かされているようだった。僕はとても止める気にはなれなかった。

 ある程度乾いたところで下部をひっくり返して木で組んだ台に乗せて水平になるように調節する。そしてそこに上部を乗せて形を見る。

「どうだ?位置は悪くないようだが」

「ええ。バッチリです」

「なら後は中を均すだけだな」

 再び上部を下ろし板の上に乗せる。壊れないように丁寧に。僕は可能な限り手伝う事にした。先程ふらついた猫六さんを見て負担を減らそうと思ったからだ。元気の良い言動や作業する様子を見ていると忘れがちなるが猫六さんは老人なのだ。耄碌していないのが不思議なくらいに。

 ふとそんな人に何を頼んでいるかと疑問に思う。本当に頼んで良かったのだろうか。

「お前さんとこうしてると孫と仕事してるような気になってくるな」

「そう言えばお孫さんいるんですよね?」

「ああ、いるよ。あいつが手伝ってくれれば苦労はしないんだがな」

 そう言って猫六さんは静かに笑った。その顔はどこか寂しそうだった。

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