第44話 迷宮綺譚 2
「きょうはいーれたんといっぱいなかよくしました。さいきんげんきがないのでもっとげんきになってほしいです」
「は?」
私には酔った時の記憶がない。そして酔っている時にはイーレにとんでもない事をしているのだという。当人に酔った時の様子を聞くのはなんだか恐ろしくて私は酔った私に日記を付けるように促した。一応素面の時にこうしようと思ったことは酔った時にも覚えているらしくこうして実行してくれたのだがなんだが妙な事が書かれていた。
「何よ、これ…」
ここビフィド周辺で使われている文字はセイジとエアリィの住んでいた世界とほぼ同じらしい。私は読むことくらいは出来るが普段使用する文字はオーメルで使われている物だ。だからこれをエアリィはともかくイーレにもセイジにも読めないのは救いだった。もし見られたらと思うと辛いものがある。
「なんだこれは、幼児退行でもしてるのか、私は…」
セイジやエアリィ、それとイーレの世界でも飲酒に対しては年齢制限が掛けられている。つまるところ身体的に未成熟な状態での飲酒は健康に悪いという配慮があってのものである。だが私の世界ではそんな決まりはない。私達の体は飲酒による悪影響が出ないように作られているからだ。それに飲酒はごく一部の物好きな人間だけの趣味だった。飲酒行為自体一般的ではなく私自身試したことすらなかった。飲むようになったのはこの世界に来てからの事だ。だから自分が飲んでおかしな事になるなんて想像すら出来なかった。ひょっとしたら私には飲酒適正がないのかも知れない。
「…酒は飲まないほうが良いのかしら」
それは正直嫌だった。理性ではなく体が酒を欲しがるのだ。理屈じゃない。酒を飲まない生活なんて考えられない。
「でも、妙な事になってるし」
そう、飲んでおかしな事になっているのが問題なのだ。それさえ解決してしまえば止める必要なんて無い。
「…。」
もう一度日記に目を通す。明らかに異常である。それにここに書いてある事だけじゃ酔った自分の状況は分からない。
イーレやエアリィに聞くのはやはり躊躇われた。なんと言うか、怖い。ひょっとしたら飲酒だけじゃなくここでの生活すら捨てざるを得なくなる気がする。そうなったらトイレのある生活を放棄しなければいけなくなる。今は無いけれど。
「そうだ」
ふと名案が浮かぶ。
私は何もここでしか酒を飲んでいるわけじゃない。街にある色々な場所で酒を飲んでいる。セイジに連れられて様々な店で酒を飲んだ。だったら酔った私の事を見ている人がいるのは間違いない。その人達に聞けば良いのだ。酔った私の姿を。私は自分が酔ったらどうなるかを知らなければならないのだ。
「イーレ、私今日は外で食べるから」
一度家に戻りイーレにそう伝えておく。
「何かあったのか?」
イーレは頭の上にブチを乗せたまま首を傾げて言う。
「ええ、ちょっとね」
「そうか、分かった。あまり人に迷惑を掛けるんじゃないぞ」
イーレの忠告を肝に命じ家を出て酒場に向かう。
数時間前、街に出て色々な店に行った。飲んだ憶えのある店にだ。
「う~ん、色んな人が来るからなぁ。細かいところまでは」
「ちょっと覚えてないねぇ」
「どんな様子だったかって?なんか幸せそうに笑ってたと思うけど」
結局のところ酔った私の事ははっきりとは分からない。ただどこに行っても私を知らない人はいなかった。私の様子が特徴的であった事は間違いない。
「だったら見ててやるから今晩飲んでみな」
最後に立ち寄った酒場で事情を話すとそこの店主からそう言われた。その酒場は以前セイジが泊まっていた宿の一階にある酒場で私達はよく訪れていた。常連と言っても差し支えないくらいには来ていて当然店主とも彼の奥さんである女将さんとも顔なじみだ。
「良いの?」
「今更何言ってんだ。ここで何度も飲んでるじゃねぇか。まぁ姉ちゃん一人でってのは見たこと無いけどな」
「確かに」
言われて気付く。ここで飲む時はいつも誰かと一緒だった。その時はたいてい賑やかにしているそうだ。
「俺と、それからカミさんも見ててやるから。なぁ、良いだろ?」
店主はテーブルを拭く女将さんに言う。
「ああ、良いよ。今日はそんなに混まないだろうしねぇ」
「じゃあ、今夜、来るわ」
そんなわけで私は酒場に向かっているのだ。
酒場に着いてカウンター席に座りぶどう酒の注がれたカップに口を付ける。私の記憶はそこで終わっている。
翌朝目が覚めた私はいつも使っている部屋にいた。無事に、帰って来ていたようだ。
日記を見る。
「きょうはたくさんのんで、たくさんのひととおはなしをしてたのしかったです。」
もう何も言う気が起きなかった。
「おう!元気か?嬢ちゃん!」
「あらあら、まぁ!また来てくれたのね!」
酒場に行った私は店主と女将さんからなぜか歓迎を受けた。
「イーレちゃんは今日も元気だったかい?」
「え、ええ」
「私達も応援してるから頑張ってね!」
結局飲んでいる私の様子については何も分からなかった。そしてなぜかアウメが時計の隣に飾られている。色は赤の混じった黄色だった。
一度くらいじゃこんなものだろう、そう思った私はしばらく一人で酒場に通うことにした。
日中は日中でイーレと下水道の調査に出掛けた。ビフィス魔法使い隊の仕事は相変わらず暇である。実に良いことである。
「この辺りも大丈夫そうだな。どこも壊れてない」
「にゃあ」
イーレがブチを飼い始めてからブチはいつもイーレの頭の上に乗っている。
「ホントに仲良いわね」
「ああ。可愛いだろう?」
「にゃ~あ」
ブチはイーレに従順だった。と言ってもイーレが何かさせるわけでなく大人しく頭に乗っているだけだが。
「ずっと乗ってるの?」
「そうでもないぞ。日に一回はふらりとどっかに出掛けてる。帰ってくると必ず汚れてるから毎日のお風呂は欠かせないけどな」
「にゃあ?」
「毎回お湯を沸かしてるの?大変じゃない?」
「まぁな。でも仕方がない」
「にゃあ…」
ただにゃあと言っているだけなのにブチの鳴き声は変化する。やはり人の言葉が分かるのだろうか。
「そうだ。風呂屋に連れてったら?私達も毎日行くんだし」
一応屋敷にも小さな風呂場はあるのだが湯を張るのには手間がかかるので使っていない。
「そうか。その手があるか。ブチも風呂屋に行くか?」
イーレは頭の上に乗ったブチに声を掛ける。
「にゃあ!」
ブチは威勢よく鳴く。
「やっぱり言葉が分かるのね」
「ああ。そうだな」
「にゃあ」
思わず笑ってしまう。実に微笑ましい光景だ。
ただ、なんと言うか、少しだけ寂しい感じはした。
その翌日。私はやはり自室で目を覚ました。昨夜も酒場に行った。動物には帰巣本能という物があるらしいが私がここにいるのはそういう本能的な物に導かれているのかも知れない。
日記を見る。
「もすにゃんはとってもかわいいです」
何か妙な事が書いてあった。だがその意見には賛同出来た。
そして今日も酒場に行く。飲むためではなく自分の様子を知るためにだ。その道中
「おう!ティレットの姉ちゃん!」
と中年の男性に声を掛けられる。見覚えはあった。確か肉屋さんだ。その後ろにももう一人男性がいた。その人は乾物屋さんだ。乾物屋さんは陸クラゲの干物なんかを取り扱っている。
奇妙なのは二人共大きな袋を担いでいる事だった。そしてその袋は何が入っているのかは知らないが中で何かが蠢いているのが分かる。
「仕事のついでに捕ってきたよ!」
「こんだけいれば充分だろう!」
「捕ってくるって、何を?」
二人の言っている事の意味が分からなかった。
「何って、これさ」
肉屋さんが袋の口を開ける。
「にやああああああああああ!」
中からモスにゃんが飛び出してくる。それも一匹や二匹ではない。もう何匹いるんだか分からないくらいに。
「ちょっと何なのよ!これ!」
出て来たモスにゃんは捕らえられ袋に閉じ込められて気が立っているのか私の周りをぐるぐると飛び回る。乾物屋さんも袋の口を開けたのでモスにゃんの大群が私に集って来る。気が立っていてもモスにゃんはモスにゃんらしく異世界人である私に食っ付いてくる。頭、首、腕、足、背中、私はすっかりモスにゃん塗れだ。
「何ってモスにゃんだよ。ほら、ティレットちゃん昨日欲しがってたろ?」
「南の森にモスにゃんが集まってる所があってな。そこで捕ってきたんだ」
二人によると昨日の夜私は酒場でブチの事を話したそうだ。私も飼いたいとかなんとか言ったらしい。それなら、と二人は捕ってきてくれたらしい。
「だからってこの量はないでしょ!」
「それは災難だったな」
「にゃあ」
イーレは笑いながら言う。下水道の暗い通路を歩きながら私はさっきあったことをイーレに話していた。
「まぁすぐにどこかに行っちゃったけどね」
あの後、モスにゃんは思う存分私にスリスリして気付けばみんな居なくなってしまった。
「一匹も残らなかったのか?」
「ええ。何十匹もいたのにね」
せめて一匹くらい懐いては欲しかったのだが。
「にゃあ」
「やっぱりブチは特別みたいね」
「ああ。ブチはブチだ」
「にゃあ」
ブチの鳴き声はどこか嬉しそうだ。
「ところでそのモスにゃんは南の森で捕ってきたって言ってたんだな?」
「ええ、そうよ。それがどうかした?」
「いや…」
イーレは何か考えているようだった。
「実はブチが飛んで行く方向も南なんだ」
「そうなの?」
「にゃあ?」
「ああ、ひょっとしたらブチもそのモスにゃん達と同じ所に行っているのかもな」
イーレがそう言うと
「にゃあ」
ブチはそう鳴いた。ブチは言葉が分かるみたいだったが私達にはブチが何を言っているのかは分からなかった。
「さいきんなんとなくさみしいです」
「…ふむ、ん?」
翌朝もいつものように自室で目を覚まし日記を見る。昨夜も酒場に行った。
「どうやら私は寂しいらしい」
確かにセイジがいなくてこの屋敷はどこか静かに感じる。だが特に寂しさを自覚しては居なかった。
「ティレット、起きてる?入るよ?」
「ええ、どうぞ」
エアリィだった。
「おはよう、ティレット。早速だけど昨夜の事覚えてる?」
「それ、分かってて聞いてない?」
「これは失礼。実は昨日私とイーレも酒場に行ったんだけどさ」
そう言われて私は驚いた。
「え?そうなの?」
「そう。私達に寂しい食事をさせて一人で何やってるのか気になってね。場所は洋子さんに調べてもらった」
「へ?あ…、そう、なんだ…。ごめんなさい」
「別に謝って貰うような事じゃないんだけどさ。取り敢えず今日の予定を伝えておこうかと思ってね」
「予定?」
「そう、予定。今夜はうちでパーリィ!だから」
「は?」
要約すると、私は昨日も酒場に行って飲んだ、イーレとエアリィと洋子さんが来た、酒場に居た水筒屋さんとプーさんというセイジの仕事仲間と意気投合、そして寂しいなら俺たちが賑やかにしてやるぜ!って話になったらしい。それで今夜はプーさんが人を集めてきてここでパーティをするのだと言う。
「そんなわけで下水道探索はお休みしてそのパーティの準備を手伝うように」
「なんで私が」
「口答えしない。だいたいはティレットが原因なんだから」
そんなわけで朝食を終えた私達は早速買い出しに出掛ける事になった。
翌朝、目覚めた私には当然のことながら昨夜の記憶はない。食材集めに苦労したとか、庭先にテーブルを出したりとか、メイド服を着せられて給仕させられた事とか、プーさんが方々に声を掛けた挙げ句取り敢えず見覚えのある街の人達は全員集合した事とか、さらに市長や団長や元警備隊隊長まで駆けつけた事とか、賑やかになるどころかまるで祭りのような状態になったところまでは覚えている。市長の音頭で乾杯をしたところから覚えていない。
「きょうはとっても、とってもたのしかったです!」
日記にはそう書いてあった。
「そりゃそうだろうな…」
目覚めると私はメイド服のままだった。この服を着て飲んでそのまま寝入ったのだろう。軽く頭痛がするのは気のせいだろうか。
「はぁ…」
頭痛のせいではなく結局酔った時の自分の事が分からないことに頭を抱えため息を吐く。
「もう、観念するしかないみたいね…」
「昨夜の事?そりゃ大賑わいだったよ。うるさいって文句を言いに来た人まで巻き込んで酒盛り始めちゃうし。ティレットも楽しそうだったよ」
「大変だったけど私は楽しかったぞ。女将さんから新しい料理も教わったしな。今度作るから試食してくれよ。お前の事は分からないな。団長さんと飲んでた所は見たが」
「にゃあ」
「昨日は手伝って頂いてありがとうございました。ティレットさんと給仕するのはとても楽しかったですよ」
一通り聞いて回る。
「はぁ…」
やはり自分の様子ははっきりとは分からない。
それでも、まぁ、昨日は大成功と言って差し支えないようだった。
「あんなに盛り上がったのはティレットのおかげだよ。もっと胸を張りなさい」
エアリィはそう言った。
「昨日は平和だったなぁ。いつもああだったらお前が飲んでいようと構わないんだが」
そう言うのはイーレだった。
「私は良いと思いますよ。飲んでるティレットさんは本当に幸せそうです」
洋子さんはそう言ってくれた。
「にゃあ」
ブチはいつものようにそう鳴いた。
「結局、分からず仕舞いか…」
翌朝。昨夜は酒場には行かなかった。だから家の中で飲んでいたらしい。
日記にはこう書いてあった。
「せいじがしんぱいです。ちゃんとげんきでいるでしょうか」
それを読んでふとセイジの事が気になった。
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