第四章 野糞のすゝめ

第16話 賢者の仕事



 私がこの世界に来てもう何年経つだろう。

 慌ただしさの中でろくに日記一つ付けなかった事が悔やまれる。

 戦士としての人生は楽しく充実したものだった。命を預け合う事の出来る戦友、惜しみなく賞賛を与えてくれる人々。

 それに元の世界では諦めていた結婚も出来た。帰る家を守っていてくれる女房と娘と息子はかけがえのない宝だ。家族のために剣を振るう事に私は誇りと喜びを感じていた。

 だが不満がないわけではない。

 トイレだ。

 トイレがない生活というのはなんとも寂しい物だった。特に私は浄化槽の検査員というトイレに関わる仕事をしていたがためにこれが無いのは辛いものであった。その仕事を始めたのはただの偶然だ。

 それでも勉強し資格を取ったり慣れぬ仕事を覚えたりと色々と努力はした。今そんな努力が全くの無駄となった生活をしている。

 人間という物は使わない知識は日々忘れゆく物である。それがなんだか無性に寂しい。日記一つ付けられない無精者ではあるがかつて得た知識をせめて紙の上に残しておこうと思う。

 全てを忘れてしまう前に。




「エアリィ様、お茶を煎れました。少し休憩なさって下さい」

「ああ、うん。ありがとう」

「仕事の方はいかがですか?」

「順調だよ。あと少しで終わる」

 賢者としての日々は忙しかった。それでも充実感は感じている。元の世界では得られなかった物だ。それはこの今は亡き戦士もそれは同じだったようだ。

「やっぱりこの手記はそう価値になるものではないね。少なくともこの世界で活用するには文明レベルが違いすぎる」

 この戦場に散ったという戦士が遺した手記には浄化槽と呼ばれる物に関する知識が記されていた。使われている文字から彼は日本人だったと推測出来る。

 もっとも、日本語を使いその用法や地名がほとんど変わらない私達のいた世界とは別の世界があるのならそう断定は出来ない。なにせこのティレナイと言う世界、特にこのビフィド山を中心としたビフィド地方では日本語と殆ど変わらない言語が使われているのだからそんな世界がもう二つ三つとあっても不思議じゃ無い。

 それでもこの手記を遺した人物が日本人だと思えるのは日本語の使い方がここの物では無い特徴があるからである。それといくつか散見された年号から彼が生きていたのは清治のいた時代に非常に近い事も分かった。手記の冒頭の記述からこれを記した動機も明確だ。

 彼は過去の記憶が薄れ行く事に耐えられなかったのだ。だからこれはただ知識を書き留めていた物にすぎない。


 賢者の役割は異世界人の知識をこの地に住む人間が使えるように、謂わば翻訳するような物である。時にはこうして使い物にならない事もあるがそれでも知識の一つとして保管はされる。それが学術協会である。この手記の内容は私がまとめそこに行く事になる。原本である手記自体は形見として遺族の元に帰るだろう。

「洋子さんは戦士ってどんな人なのか知ってる?」

「ええ、その手記を遺された方の事は存じませんが戦士とは卓越した戦闘能力を有した方だと聞いております」

「洋子さんよりも強い?」

「はい。なんでもある戦士は選定の儀でカバシシを一瞬のうちに膾切りにしたそうです」

「カバシシってあのでっかいのでしょ?…それホント?」

「私も聞いただけですのでおそらく尾ひれはひれが付いたものでしょう。ですが戦士が戦場で活躍しているのは本当の事です」

 この世界に来た異世界人は戦士、賢者、魔法使い、勇者に分けられる。

 イーレとティレットのような魔法使いを目にしているから、なら戦士は?と思ったのだ。戦士は戦士であの二人並みにとんでもない存在なんだろう。

 だが、ならばこそ疑問が残る。

「じゃあさ、なんでこの人は死んじゃったの?」



 気付いたら私はこの世界にいた。

 石造りの神殿とか瓦すらない木で出来た家とかを見る限りとんでもない所にいるなと思った。そして歓迎会に連れて行かれ選定の儀で賢者だとか言われてこの豪邸に連れて来られて、そして洋子さんに出会ったのである。

「初めましてエアリィ様」

 そう言って深々とお辞儀をするいかにもといった姿のメイドに私は面食らった。

「あ、その、初めまして」

 妙な気分だった。だいたい私は一般庶民だ。メイドさんに様付けされるような身分じゃない。

「私がエアリィ様の身の回りのお世話をさせて頂きますメイドでございます。どうぞ何なりとご命令下さい」

 私は一つ疑問に思った事を口にする。

「それじゃあ、貴女の名前を教えて下さい」

 まさかメイドがメイドという名前という事はないだろうと。そこまで自己紹介しておきながら名乗らないのは妙だった。

「申し訳ございません。私に名前はございません」

「え?なんで?」

 名字を使わなくなるとかそんなレベルの話じゃない。名前がなくてどうして生きていられるんだ。

「私には名を付けてくれる人が居ませんでしたので」

 能面のようだった彼女の顔が少し悲しげになった。

「じゃあなんて呼べば良いんですか?」

「エアリィ様のお好きなようにお呼び下さい。それから私には敬語など使わなくても結構です」

 好きに呼べ、か。

 私は名前にコンプレックスを抱いている。空利依(これでエアリィと読む)なんて私が産まれた当時ですら古臭かった。

 だから今流行りの名前でなくてもせめて普通の名前が良かった。

「なら私が貴女の名前を付けま、いや、付けよう?ちょっと待ってね」

 今流行りの名前は亀とか鶴とか縁起の良いのと子や美の組み合わせだ。でも一位とか二位はなんとなく悔しい。だから五位以下十位以内で。

「そう、洋子。洋子ってのはどう?」

 彼女は面食らっている。そりゃそうだ。

「ヨウコとはどんな字を書くのでしょうか」

「こう」

 私は側にあった紙と万年筆のようなペンに苦戦しながら、洋子、と書いた。この世界でも漢字が使われているのは知っていた。彼方此方で見かけてたからだ。

「確認させてください。この洋の字にはどんな意味があるんですか?」

「う〜ん、太平洋の洋、大西洋の洋だと海とか、広いとか大きいとか。子の方は女の子の子だね。あ、子じゃ失礼か」

「いえ、本当にいいんでしょうか」

「いや、好きに呼んで良いんでしょ?あ、呼ぶと名付けるのは違うのか。貴女はこの名前じゃ嫌かな」

「そんな事は、ございません。とても、とても嬉しゅうございます」

「じゃあ、貴女の名前は洋子さん!これからよろしくね、洋子さん!」

「はい、エアリィ様。生涯お側を離れません」

 何か妙な事を言われたような気がしたが洋子さんはとても晴々とした笑顔を見せてくれてそれがなんだか嬉しかった。

 洋子さんのお陰で突如として始まった異世界ライフに何ら戸惑う事はなかった。仕事も順調。衣食住、食だけは洋子さんが料理苦手だったのでどこかで買ってきた物だったが不自由する事はなかった。だがただ一つだけ困った事がある。そう、トイレが無かったのだ。


「本当によろしいのですか?」

「何が?」

「見ず知らずの方にそんな事を相談なさるなんて」

「そうは言っても洋子さんには分からないでしょ?この悩みは」

「それはそうですが」

 この世界に来て私は便秘がちになった。

 元の世界では搾便器という非常に便利で快適なトイレライフを提供してくれる素晴らしい物があったので私は便秘になんてなった事はなかった。なにせ便意をコントロールしてくれるのだ。出したい時に出せる。これは使っている人なら誰でもだ。

 だから便秘と言うのは即病院レベルの重篤な疾患を指す物だった。

「だから同じ異世界人ならさトイレがなくて困ってると思うんだよ。それをどう解決したか参考になるかも知れないじゃん」

 そんなわけで私はそういう制度があると聞いていたので異世界人限定で一つの依頼を出した。依頼の内容は大葉ミントを二十枚採ってくるという物だ。

「それはそうですが」

 洋子さんが言いかけると鐘が鳴る。誰かが門に来たのである。

「少し見て参ります」

 洋子さんはそう言うと瞬く間に部屋からいなくなる。

「そう、忍者だ」

 私はその光景を表す上手い例えが見つからなかったのだがここでようやく思い出した。何かの映画で見た忍者があんな動きをしていた気がする。

「エアリィ様、お客様です」

「お、異世界人?」

「ええ、おそらくは」

「何か歯切れが悪いね」

「いえ、それが男性なのですが」

 洋子さんが何かを気にしているのは分かった。

「ふむ。まず会ってみよう。あとはそれから考える」

 その客と言うのが清治だった。

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