第5話 搾便器。



「やあ、清治。頑張ってるね」

 何も考えずツルハシを穴の形をしてきた地面に打ち付けているとエアリィが現れた。後ろには洋子さんもいる。

「まあな。そっちはどうだ?」

 エアリィはこの世界で賢者として活躍している。

「あー、とっても、タイヘンだーねー」

 エアリィは心底疲れた顔で言う。徹夜でもしたのだろうか。


 賢者の仕事は異世界から来た人間の残した文書の解読である。

 異世界人は様々な文化や知識をこの世界にもたらした。例えば時計である。この世界の文明レベルはそんなに高くはない。車はもちろん電気なんかもない。だからテレビ、パソコン、冷蔵庫、洗濯機、エアコンも当然ない。だが時計はあった。何を動力にしてどんな仕組みで動いているのか分からないがここにある時計は正確に時を報せてくれる。これは異世界人のもたらした技術だという。

 そして時に異世界人は文書の形でその知識を残すことがある。その知識を活かすためにはそれを正確に理解することが必要でエアリィは賢者としてそれを仕事としているのである。つい二ヶ月ほど前にも異世界から来て戦士となった人物の残した書物が発見されたとかでエアリィの元に来た。その内容は解読するまでもないらしいがこの書物についての報告書を書くのが面倒らしくこうして毎日格闘しているのだという。


「そうか、よくわからんがお疲れ」

 そんなわけで異世界人とこの世界の住人をつなぐ賢者の仕事は非常に重要とされそれに相応しい待遇を以って報いられる。それがこの豪邸だ。最初に訪れた時は自身への待遇との違いに激しく憤りを感じたがエアリィの仕事を見ていると万が一にも賢者に間違われなくて良かったとホッとしたのである。

「はいどーも」

「で、どうかしたのか?気分転換か?」

 ずっと室内に籠もっていると気が滅入ってくる事もあるだろう。適度な休憩は必要だ。

「いや、ちょっとね」

「ん?」

「いやほら、察して察して。こんな事女の子に言わすなよ」

 僕は少し考えてエアリィが外に出てきた理由に思い至る。

 トイレである。

 小の方こそ室内で済まされるが(エアリィは普段手頃な大きさの酒瓶を尿瓶代わりに使っている。これを片付けるのは洋子さんだ)大の方となるとそうもいかない。おまるじゃ駄目なのかと聞いてみたらそれは抵抗があるらしい。

「分かったら作業に集中してくれたまえ。あと出来るだけ大きな音を立ててね」

「はいはい」

 言われなくても女の子の排泄する音に聞き耳を立てる趣味はない。

 僕はちらりと洋子さんを見る。

 洋子さんもこちらの視線に気付く。

 彼女は何も言わない。

 僕も何も言わない。


 僕はエアリィと僕らの住む豪邸の脇にある茂みに向かう二人を余所に穴掘りを再開した。



 搾便器とは未来の日本のトイレである。

 日本のトイレは太平洋戦争後飛躍的に進化した。

 和式のボットン便所だったものが今や洋式水洗で温水洗浄便座が当たり前になった程である。立派な物になると便座の蓋は自動で開いたり洗浄によって濡れた肛門を乾燥させたりもする。

 ここまでたかたが七十年だ。

 進化の速度は異常な程に速い。

 そして僕らの時代から三百年後、日本のトイレは搾便器へと至ったのである。搾便器とはそもそも介護用に作られたものらしい。股間に装着した装置の中では出された汚物を吸引し陰部や肛門の洗浄まで完全自動で行う。この搾便器により介護する側の負担は大きく減った。そして人間はこれを介護向けだけでなく一般向けの物も作り出したのである。


 搾便器の形状は伸縮式の筒型で大体大きめのペットボトルのようなサイズだそうだ。これをトイレ内に設置された便器にセットして使う。搾便器そのものは毎回綺麗に洗浄されるがそれでも人と兼用するのは気分の良いものではない。だから搾便器は各個人専用の物を使う。さらに家庭用と携帯用まである。携帯用を持ち運ぶ際には専用ポーチに入れて持ち運ぶ事になるのたがこのポーチは一種のお洒落ポイントとして個性をアピールする手段となった。まるでスマホとスマホケースのような物である。


 さて、これらはすべてエアリィから聞いた話だ。

 つまりエアリィは僕のいた時代から三百年後の未来の日本から来た日本人である。

 三百年の間に僕の住んでいた日本の首都東京は大きく様変わりした。都庁は新宿ではなく多摩地方に移転し都市の都市らしい所は全て多摩の方に移ってしまったという。僕は八王子からちょっと離れた所に住んでいたがその辺りはもう若者にとっての憧れの場所、あらゆる文化の先端として発展しているそうだ。

 逆に新宿辺りは僕らの時代からさほど遠くない未来に地盤沈下や海面上昇によって一度壊滅してしまった(この辺りは歴史の教科書に載っていたそうだ)。さらに後に復興するものの一度災害に見舞われた地として敢えて住もうとする者は少なく、そのおかげで賃料が安いからとエアリィはその辺りで暮らしていたそうだ。

 ちなみにエアリィという名前だがエアリィは生粋の日本人である。漢字で書くと空利依。今で言うところのキラキラネームだ。名前については流行り廃りを繰り返しているようでエアリィが名付けられた頃にはもう何度目か分からないキラキラネームの流行期だったそうな。そしてエアリィの暮らしていた時代には鶴子とか亀代といった名前が流行っている。世の中変われば変わるものである。

 ちなみに名字は普段は使用されなくなっているそうだ。名字を名乗るのは政治家くらいで結婚する時に初めて自分の名字を知るなんて事は珍しくもないらしい。今から考えるとちょっと信じられない話である。


 話が逸れたがそんな日本で使われている搾便器の最大の長所は便意をコントロール出来る事にある。

 搾便器から出る低周波は肛門と直腸を刺激し装着から一分以内に排便が行われる。また搾便器は直腸内の便の量を測定しそれらが直ちに排泄されるように自動で低周波を調節する。排便後にあるなんとなくまだ腹に残っているような残糞感とは無縁になったのだ。

 こうして三百年後の日本人は突発的な便意に悩まされる事はなくなったのである。



 こんなトイレ習慣だったエアリィがこの世界に来て排便困難になるのは至極当たり前の話である。もし手元に浣腸があるならそのパッケージを見てほしい。浣腸の箱には常用するなと注意書きがあるのだ。常用することでそれなしでは便意が訪れなくなり、自然な排便が困難になるためだ。搾便器だって同じ事である。


 問題は搾便器が無いことだけではない。野糞をしなければならない事だ。清潔なトイレで用を足していた人間にとって、周りに仕切りもない、腰を掛ける場所もない、さらに周りには臭気が漂う環境での野糞に抵抗がないはずがない。

 さらにエアリィは妙な視線を感じていたのである。なにせ周りには背の高い草が生い茂っているだけなのだから排便中を覗かれる可能性はないとは言えない。僕なんかは男の排便を覗いて何が楽しいのかと思って気にもしてなかったがエアリィは年頃の女の子なのである。結果エアリィは便秘に悩まされる事になる。

 そしてエアリィは同じ異世界人なら同じように悩んでいるだろうと大葉ミントを取ってこいという依頼を異世界人限定で出した。役場からの仕事の依頼、ゲームによくあるクエストみたいなものを受けて生計を立てていた僕はその依頼を受けエアリィの便秘の解消に協力することにしたのである。

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