第3話 トイレのない世界



 唐突な話だが僕は今、異世界にいる。

 この世界の名前はティレナイ。

 どんな世界かを簡単に言うならばここはトイレのない世界である。


 最初はトイレと言う名称を使っていないだけだと思った。なぜだか分からないが日本語が通じるからといって世界が違うのだからトイレの事をトイレと呼ばなくても不思議はない。日本に限ってもトイレを表す言葉はたくさんある。便所、トイレット、化粧室、厠(僕の名字、川谷はカワタニと読む。決してカワヤと読むのではない)、手水場、お手洗い、御不浄所。だがそれらを思いつく限り口に出してみても一つとして通じなかった。

 仕方なく排便する所だと説明して帰ってきたのは

「その辺の茂みですりゃあいい」

との素っ気ない答えだった。

 だがこれだけならこの世界にトイレがないとは言い切れない。

 僕がこの世界で最初に出会った町の名はビフィドというのだが、この町は見るからにど田舎でだからこそここにトイレが整備されていないだけ、またはトイレ文化と言うものがここに伝わっていないだけという可能性は残っていた。

 だがビフィドから牛馬という牛なのか馬なのかよくわからない動物の引く馬車のような乗り物で一時間程かかる街ビフィスに着いて僕の期待は裏切られたのである。


 ビフィスは大きく長い街道の中継地として栄えていてビフィドとは比べ物にならない程の都会であった。流石に僕の暮らしていた現代日本の首都、東京には劣るがそれでも人の多さは東京の雑踏を連想させた。

 だがここにもトイレはなかった。無愛想な宿屋のおじさんに聞いてみてもトイレに類するものはなく、そんなものは聞いたこともないという。ならどこで用を足すのかと尋ねれば無言で窓の外の茂みを指さしたのである。

 ビフィスは街道を行き交う商人たちが多く訪れる街でもあるので様々な人にトイレはないかと聞いてみたが、結局トイレらしきものはこの世界のどこにもないようであった。その辺の茂みこそがトイレというわけである。

 要するにトイレに行きたかったら野糞をしろという事である。当然困った。僕は野糞なんてしたこともない。それどころか和式トイレにすら抵抗があるくらい洋式に慣れさせられているのだ。

 まずしゃがむのが辛い。足が疲れてしまってゆっくり用を足すななんて出来ない。それにズボンを脱ぐのが面倒くさい。玄人ともなれば膝までズボンとパンツを下ろしそのまま屈むだけで用を足せるらしいがこれが出来ない。そんな事をしようものなら大のついでに出た小でズボンとパンツが汚れてしまうではないか。だからズボンは脱ぎドアに付いている引っ掛けに吊るし(この引っ掛けはこのためにあると思っている)パンツは片足だけ脱ぎ片方に寄せておく。この際にいちいち靴を脱ぎ履き直さなければならない。これを足元に絶対に落ちたくない穴のあるなかでやるのは中々大変だと思う。ちょっとバランスを崩して穴に足を突っ込んでしまったらと思うと恐ろしい。

 と、ここまでは和式トイレ、しかも水洗での話である。この世界では野糞であり足元にはそこかしこに人々の営みの痕跡が残っているのである。誰も人の物を踏みたいなどとは思わないだろう。

 それに何より臭い。いくらこの世界の生物、特に微生物がこの環境に適応し排泄物の分解が早いとは言っても多くの人が用を足す以上限界はある。いつ行ったって糞は残っているのだ。

 正直最初は逃げ出したいくらい嫌だった。

 元の世界に帰りたいと切望した。



 ツルハシを振り下ろし土を起こす。

 起こしたら再び振りかぶり地面に振り下ろす。


 単純作業の繰り返しだが自分でも思った以上にこういう事は向いているらしい。この世界での生活に慣れて気付いた事だ。

 それは例え野糞といえど三ヶ月もしたら慣れるようである。

 人は生きる以上物を食べなければならず食べる以上当然糞は出る。多少の我慢は出来るかも知れないが出さない訳にはいかないのだ。だから慣れるしかなかったのである。

 だがこれは何も僕の適応能力だけの結果ではなくこの世界にある二つの習慣が助けとなった。一つは排便の際ズボンを頭上の木に吊るしておく習慣だ。これまた当たり前ではあるが用を足す時は一人で静かに行う物である。

 人は間違っても

「やあポール!今日も元気そうだね」

「マイクもね。そう言えばこの前言ってた釣り竿だけど」

「ついに貸してくれる気になったかい?」

「ああ。ただし条件がある」

「無理な注文はしないでくれよ」

「君なら簡単に出来るさ」

「その条件ってのはなんだい?」

「池の主を釣り上げる事さ」

「はっはっは!そんなの朝飯前さ!」

なんていう会話をうんこしながらする気にはならない物である。

 それはこの世界の人々も同じなようで先客のいる所には近づかなくても良いように頭上にズボンを吊るしておくのである。ズボンがぶら下がっていたら人がいる、という事でその場所を避けて別の場所に陣取る事になる。

 ちなみにこの世界では女性はほぼ全員スカートを履いている。たまにはズボンや女性物のハーフパンツを履いている人もいる。ズボンの上にスカートを履いている人もいる。当然女性と言えど野糞をすることに変わりはなく彼女達もまた排便時には男と同じ様に履いているものを吊るすのである。

 さて、人間に限らず動物というものは排便中には当然無防備な状態になるものだ。もし排便しているのが女性ならこれは暴漢からすれば絶好のチャンスとなる。だがそんな事をするような輩は極悪非道な外道とみなされ街やコミュニティから徹底的な排除を受ける。土地によっては袋叩きの上、海に放り込まれるとか。そんな卑怯な事をするやつに人権も生存権もないのである。だからこそ女性は女性が用を足している事をスカートや女性用の履物でアピールし男性に近寄らないよう警告する。男性側としては疑惑すらかけられるのを恐れそのような場所には近付かないよう気を付けるのである。

 この習慣によって和式ではズボンを全部脱ぐ派の僕としては市民権を得たような気分になり堂々とすることが出来たのである。

 さて、僕を野糞に慣れさせてくれたもう一つの習慣がこの大葉ミントである。

 名前の通りミントのような清涼感を持った大きな葉である。この葉っぱでどうするのかというと用を足した後に尻を拭うのに使うのである。拭いた後には爽やかな清涼感が肛門に残り実に清々しい。そよ風でも吹こうものなら得も言われぬ快感が…いや別に変な趣味に目覚めたわけではない。それに普通のトイレットペーパーに比べて丈夫である。ちょっとやそっとで破れそうにはない。そのくせ実に柔らかく肛門を拭くのにこれ以上に相応しいものはないだろう。しかもこの大葉ミントはその辺の茂みにたくさん生えている。つまり微生物によって分解された糞が栄養源となっているのだ。まったく素晴らしい循環である。この大葉ミントによって温水洗浄機付き便座で用を足せなかった後の尻穴の不快感を大きく減らすことが出来たのである。仮に元の世界に帰れるのならこの葉と種を持って帰りたいくらいだ。僕はそれくらいこの大葉ミントを気に入っている。


 こうしてこの世界でのトイレ習慣に対する抵抗感を減らすことが出来たので僕はそんなに困らずに済んだのである。



「イーレ、今日の晩ごはんはなんだい?」

「そうだな。肉屋にあるものでと考えてたんだが、エアリィは何か食べたいものあるか?」

「いや、イーレの作る物だったらなんだって良いよ。ホント一緒に住んでくれて助かるよ」

「私も感謝しております。貴女のおかげでエアリィ様に満足な食事をしていただける。」

「そう畏まって言われると照れくさいな。趣味でやってるようなものなのに」

「照れない照れない。実際美味しいし」

 僕がツルハシを振り下ろしている横で少女達は他愛もない話をしている。

「ティレットは何か食べたいものある?」

「んーーー、イーレたん!」

「こら抱きつくな黒魔術師!私は食べ物じゃない!」

「あーあ、また始まっちゃった。」

「まったく仕方ない人ですね。ほらティレットさん、お気を確かに」

「んんん、えへへへへ」


 だが彼女たちは僕とは違っていた。


 イーレもエアリィもティレットもこの世界の住人ではなく僕と同じようにこことは別の世界から来た異世界人である。

 そしてこの世界にトイレがない事に慣れることはなくトイレがない事に困っていたのだ。


 もう何度目になるか分からないが再びツルハシを振り下ろす。

 日暮れまで後二時間。


 穴は大して掘れていない。完成までまだまだ先は長そうである。

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