第八章 別離

(一)イベント班

 二人で飲んだあの日からほどなく、七月末に新能荒也は株式会社オストマルクを退職した。雪乃は黙って見送るしかなかった。座名に拝道がいるように、新能の傍で仕事がしたいと思ったが、それは雪乃にとってはどこまでも公私混同に過ぎないと自分で理解していた。だから新能は一緒にいない方がいいと言ってくれたのだ。自分も一からまたやりなおそう、本物のゲームクリエイターに、現場を動かせるディレクターになるのだ。そのために学び、経験しなければならないことは多い。


 紺塔は、雪乃をデバッガーに回せと言っていたが、現実問題として現場はプランナーの数が圧倒的に不足していた。新能まで退職した今、一人のプランナーをデバッガーやテストプレイ専任で置いておくなどという贅沢な正社員の使い方が出来るわけも無く、雪乃は『ソード』から北浜の『武器道メモリアル弐』チームへと改めて配属された。

 ゲームのイベント班に、スクリプターとして参加することになった雪乃を、北浜は笑顔でチームに紹介してくれた。席もチームのあるフロアへと移動してきたのだが、オフィスは以前見たままで、どこかピリピリとした空気が立ちこめているのが分かる。笑顔で話すのは北浜と特定のスタッフ数人で、後のスタッフは緊張と疲労の色が表情に浮かんでいた。そして、北浜が自席で開発中のゲームをプレイし始めると、より一層オフィスに緊張が走りだした。やがて北浜が突然に大声を出す。


「これ、『苦多良木京太郎くたらぎきょうたろう』の担当者誰? ちょっと来いよ」


 怒気の成分を含ませている声の出し方だった。慌てて雪乃と同期のプランナーである稲毛寛太が北浜の席へ駆け寄る。顔が青ざめていた。


「これ見てみろよ、何でこのモーションが繋がっていないんだよ」


 稲毛がすいません、外注さんの作業が押してまして、修正依頼はかけてるんですが間に合いませんでしたと頭を下げると、北浜はコントローラーを机にたたきつけて怒鳴った。


「ここだけじゃねえんだよ! 外注のモーションなんだから、発注したお前がちゃんと期限内に間に合う様管理しろっつってるだろ! こんなの、クオリティ以前の問題!」


 北浜は顎で画面を指してまた怒鳴った。


「俺は今日、次のROMに入れる予定にした新キャラのチェックするって今週頭に言ったよな? 何でそこでちゃんとした形でキャラクターが実装されていないわけ? 俺なんか間違ったこと言ってるか?」


 畳みかけるようにきつい口調で責められ、稲毛はすいませんと頭を下げるだけだった。北浜は次にチェックできる日を連絡しろといって顎で稲毛を下がらせた。次に別キャラクターを担当したプランナーを呼んだが、今度は彼を誉めた。


「いいよいいよこれ、こういうの求めてるんだよ! 偉いよ、ちゃんと俺の言ったことを分かってるじゃん」


 雪乃の胸に、明らかに不快感が生じた。言っていることは正しくても、北浜の立ち振る舞いは、以前と変わらないどころかより独裁色が濃くなっている。誰もが彼に怒られないようにビクビクしているのがありありと見て取れる。職場として空気が悪い。

 だが、チーム入りしたばかりの自分が表層的なモノの見方だけでこれが悪いと決めつけない方がいいかもしれないと思い直し、まずは自分の仕事に集中することにした。雪乃はまず、イベント班のリーダーである椎名真理しいなまりに現状と作業内容を確認させてもらおうと思ったのが、椎名はここではなく会議室でと雪乃に耳打ちしてきた。


 椎名は二十代後半の、派遣社員として働いているプランナーということだった。この業界にありがちな太め体型で、真面目そうな面差しに、仕事中だけ身に着けているというモニタからのブルーライトをある程度カットするというパソコン用眼鏡をかけていた。


「ちょっとオフィスの空気がピリピリしてるもので、こちらの方がいいかと思います。あらためて、始めまして早見さん」

「はい、早見雪乃です、よろしくお願いします」

「早速なんですが、『武器道』のイベント作成作業、実はうまく進んでいないんです」

「そうなんですか」


 椎名は元々イベントスクリプト担当者として派遣され、オストマルクの正社員の新人プランナーと共に二人で作業していたのだが、その新人が辞めてしまい、しばらく一人で作業をしていたのだという。そういえば、市ヶ谷と同期のプランナーは四人ほどいたが、残っているのは彼とあと一人だけのはずだと雪乃は思った。オストマルクにはイベントやシナリオの作業が得意な蓮沼佐衣子がいるが、今は別プロジェクトに入っていてとても他のプロジェクトまで見る余裕は無いはずだった。


「私もイベントスクリプトを組むことやイベント全体の資料管理自体は得意なんですが、正直言ってその、作業の段取りを音頭を取ってやるのとか苦手で……」

「辞めたプランナーの子がそこを仕切っていたんですね?」

「はい、でも、そのプランナーさんもイベントスクリプトを組むこと自体ほぼ初めてな上、いきなりリーダーとして放られて右往左往していました。だから、作業の流れもよく把握できていなくて怒られていましたし、イベントスクリプトを組むのだけでも精一杯なのに、イベント班の管理作業もあって……。気の毒だとは思ったんですが私も自分の作業が多くて」


 新人のイベントスクリプト作業が遅い分、椎名の作業量が多くなったため、あまりフォローに回れなかったのだという。雪乃はため息をついた。新人一人にいきなりイベント班を仕切れと放置して、北浜や他のスタッフはフォローも何もしていなかったのか。市ヶ谷が『ソード』で追い込まれた時と同じだ。新人が退職を決意するまでの心理状況が容易に想像できた。

 椎名はその後、一人でイベントを担当し続けているのだが、新人が作っていったイベントが、発生条件をきちんと管理していなかったせいでゲームを通しで遊ぶとイベントの進行がぐちゃぐちゃになってしまう事と、作成したイベントのクオリティが、椎名が作ったものと比べて大きく劣っており、そこを北浜に責められて修正する作業に追われているのだという。


「スタッフの追加を三ヶ月前からお願いしてたんですが、やっと早見さんが入ってくださって……」


 オールインまであと一ヶ月。シナリオはすべて外注ライターの手で完成しているのに、それをゲームに落とし込むイベントは全七章のうち五章までしか入っていない。雪乃は、これまでの経験やバルバロッサでの開発進行経験から、作業の段取りが流れとしてできているかを椎名にヒアリングしながら確認したが、やはり曖昧な状態になっていた。

 新規に必要なイベントスクリプトのコマンドやモーションといった素材を、必要になってからデザインやプログラマに発注しているため、担当者に遊びの時間が発生している。次はイベント作成の実務作業を教えてもらったが、作成から実機で確認するまでに手間がかかる仕組みになっていた。椎名によると、実機確認の手間は確かにかかるのだが、自分からは修正依頼を言い出しにくかったのだと言った。雪乃は意を決した。残りの作業期間、オールインだけではなく、その後のバグ対応期間のこともある。この環境をそのままにしておくのは時間が勿体ない。


 雪乃はとりあえず段取りを明確にすることと、調整環境の改善に乗り出した。すぐにスクリプト作業をするよりも、まずその作業に集中できる環境作りを始めなければならない。段取りを自分で考え、ある程度書面に取りまとめた。シナリオはもうある。残り二章で、それからこれまでに作ったイベントを修正するためにどれだけの特殊な処理や素材が必要になるかを一日かけて自分たちで割り出してまとめた。

 翌日にイベント担当のプログラマーである岩槻実いわつきみのるとデザインセクションのモーション担当者である松戸七美まつどななみと打ち合わせをして、今後の作業の進め方と必要になると思われる特殊処理やデザイン素材をすり合せ、二人から了承を得た。調整環境の改善については岩槻が渋い顔をしたが、今ここで対応しておいてもらえると、これからの作業進度が速くなるし、ヒューマンエラーの可能性を大きく減らせることを雪乃が訴えると了承してくれた。また、イベント班全体としてコミュニケーションを取ろうという意欲が皆弱いと感じたため、イベント班として毎朝朝礼という形で作業上の問題がないか、確認を行うことにした。チーム内の情報のやり取りは、メールの他チャットツールで行われていたが、参加人数が多すぎて破綻していたので、イベント班用のチャンネルを作成してイベントに関するやり取りはここで行うようにした。

 これらは、これまでのタイトルやバルバロッサでの開発経験は勿論、新能に勧められたビジネス関係の本を読み始めて自分に合うと感じものは積極的に、しかし慎重に仕事に取り入れ始めた結果だった。段取りに関するもの、プロジェクト進行に関するもの、会議に関するもの、書類の作り方に関するもの……。ゲーム業界にそのまま使えるというわけではないが、充分参考になるものが多いと雪乃は感じた。

 効果はほどなく現れ、イベント作成から実装までの流れがイベント班全員で共有できているので、次に誰がどんな作業をするのかが読みやすく、また問題や相談したい点も、朝礼やチャットで気軽に行える空気になってきた。雪乃は自分の担当のイベントスクリプトも組み始めたが、特に3Dモデルを利用したイベントのクオリティは、椎名にはとてもかなわないと思った。椎名はカメラワークや間の取り方が絶妙で、雪乃が作ったものと比べても数段クオリティが上だ。雪乃は椎名と相談して、イベント全体の作業進行管理や、イベントそのものを作り込む前までの骨組み作業を請負い、彼女にはイベントの質そのものを上げてもらう作業に注力してもらうことにした。

 椎名は得意分野だけあって生き生きと作業をしてくれるようになった。雪乃は新人が中途半端な状態で残してしまったイベントのフラグ管理を修正しながら、新たなイベントの骨組みを作っては椎名に渡していく。プログラマーの岩槻もイベントを確認するまでの手間を軽減してくれた後は、どれだけの作業量があるかの見通しが立ったので、追加作業やバグ対応にも素早く積極的に対応してくれるようになった。イベントの実装速度は目に見えない部分では確実に早まり、士気は高まっていった。


 だが、ある金曜日の午後、また大型テレビで実装チェックを行っていた北浜が、大声を上げた。


「椎名さん、ちょっと来てください」


 流石に派遣社員を呼び捨てにはしていないが、声には叱責を予感させる成分が含まれていることを雪乃は感じた。椎名がおどおどしながら北浜の傍によると、北浜は詰問調で確認したいんですがと続けた。


「今週中に、第六章が入る予定でしたが、途中までしか入ってないですよね? 何故ですか?」

「あ、あ、あのう、そのう、前の、出藻でもさんが、作られた、作業分で、問題点が、修正を」

「全然分からない」


 北浜はぽいとコントローラを机に放り投げた。


「出藻が辞めてあなたが人が足りない足りない間に合わないと言うから、早見を投入したんですよ? アサインして一週間経つのに、新規イベントが予定の半分も実装されていないのはどういうことですか? 実装されたものもまだ骨組みが終わっただけの状態に等しい。どういうことですか?」

「す、す、すいません、あの、イベントの修正を」

「結論だけ先に言ってくれないですか?」


 雪乃は立ち上がった。北浜と椎名の前にツカツカと歩み寄る。


「北浜さん、すいません。予定よりも実装が遅れているのは、前任者が作成したイベントのフラグ管理で大きな問題があったため、それを修正中なのと、残りの作業洗い出しと作業の流れそのものをプログラマー、デザイナーとすり合せて改善していたためです」

「ふむ」


 北浜は椅子に座ったまま両腕を組んだ。


「新規実装のイベントが骨組み状態のままなのは?」

「作業の効率化とクオリティアップのため、私が先に骨組みを組み、作り込みを椎名さんにやってもらうようワークフローを変更したためです。今回の新規実装分はいずれもまだ骨組み段階で、前任の出藻さんが作り残したイベントのクオリティアップ作業が終了次第、新規実装分のイベントの作り込みに入っていただく予定です。具体的には来週末までです」

「本来は与えられた期間でクオリティ込みで作り込むのがプロだと思うけど」


 その一言は、雪乃をカチンとさせた。大体今週はクライアント側の都合でROM出しが無いということを確認したので、骨組み状態でも作業を実装し、イベントそのものは最後まで貫通するようにしたのだ。ろくなフォローもないまま野放しで作業をさせておいて、責任だけはプロという錦の御旗を掲げて押しつける。そこには、相手の立場や事ここに至ったまでの経緯や心情をおもんばかる様子が見受けられない。北浜は、以前からこんな人だっただろうか。


「……申し訳ありません。私もアサインされたばかりで、やっと周辺事情を把握できたところです。これからスピードアップに努めます」


 反論する気をぐっと抑える。北浜にも立場というものはある。そこは配慮しなければならない。戦うべき時には戦わなければならないが、それは今ではないように雪乃には思われた。


「わかった。もう下がっていいです。来週には製品クオリティで第六章の実装をよろしく」


 雪乃は黙って頭を下げ、涙ぐんでいる様子の椎名をそっと促して自席へ戻った。北浜とは恋人同士だ。だが、あの新能と飲んだ夜から、二人だけで会ってはいなかった。たまにメールのやり取りはするのだが、それは北浜が会いたいと望み、雪乃がそれを多忙を理由に断るという内容が大半だった。

 雪乃は、新能への恋心を自覚した今、例え叶わない恋だとしても、このまま北浜との交際を続けるわけにはいかないと思っている。同時に、今別れ話を告げれば、北浜の心にいらぬ波風を立てて仕事に悪影響を与えてしまわないかと懸念した。愛情が無くなったわけではないから、北浜にただ己の感情を一方的にぶつけるのは憚られる。だが、いつかはきちんと自分の気持ちを伝えなければならない。同時に、新能に心を奪われたものとは別に、北浜に対してある種の感情が芽生えつつある。それを言語化することを意識して避けながら、硬い表情でチェックを続ける北浜を、雪乃は心の中でため息をつきながら見つめた。

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