(五)叫び

 水道橋は顎の骨が砕けて、入院することになったらしい。

 あの暴力事件の後、自分はてっきり警察に逮捕されるかと思っていたが、そうはならなかった。

 水道橋は警察を呼べと息巻いていたらしいが、事件の原因に瓢の自殺の件がある事を理由に、また蒸し返される事を恐れた社長が説得したらしい。自分はといえば、根津や社長らお偉方に取り囲まれて、水道橋に謝罪し、瓢の件について余計な事を言わないと約束するなら不問にすると言われた。

 自分はきっぱりと拒絶し、懲戒免職で結構だと申し出た。請求されても水道橋の治療費など払う気は無かった。むしろ、それを理由に奴が訴えてきたら、その時こそ事ここに至った経緯を民事の場であろうがすべて暴露してやるつもりだったが、さすがに面倒ごとは回避したいのか、水道橋からは結局何も請求されなかった。

 代わりに、自分は『ダブル・ブレード』のマスターアップを直前にして自己都合退職ということになった。しばらくは何もやる気が起きなかったが、それでも仕事をしていかなければ食べていけない。ゲーム業界でプランナーとしての職務経歴しかない自分は、結局この業界で再就職を志すしか無かった。だが、バカ正直に前の会社を辞めた理由を述べては不採用の連打を食らった。

 何とか知り合いのツテで、契約社員としてある会社で働くことになったが、そこは現場のディレクターが拝道さんの分類を借りるなら独裁制暴君タイプの人間で、スケールこそ小さいが水道橋と同じ類いの人間だった。そこで自分は無気力に、とまでは言わないが、ただ言われたことだけを淡々とこなしていった。泊まりでも何でも、言われるがままに仕様を作り、素材を発注し、実装し、そしてディレクターから文句を言わてまた仕様変更し、素材を発注し、実装し、また文句を言われるということを繰り返した。プロジェクトは実装が進んでもなかなかクライアントの期待に応えられるものにならず、自分もよくディレクターに罵倒された。その罵倒すら左から右へ流れるくらい無気力な日々だった。

 だが、ある時期に会社のテコ入れでそのディクレターは解任され、新しく外部の人が新任ディレクターとしてやってきた。その人は破子矢はしやさんというフリーのプランナーだったが、きちんと自分なりの仕事の進め方を型として持っており、まず自分のビジョンを概要として提示し、その実装化をスタッフに依頼するというやり方を取っていた。物腰は柔らかく、口調も丁寧な人だった。

 破子矢さんはまず現在のゲームの実装状態や仕様書を確認して、これは何のためにあるのか、これはどういう意図で実装されている要素なのか、疑問に思っていることを自分に確認してきた。それに自分は一切答えられない。ただ、言われたから仕様化して実装しましたとしか言えなかった。すると破子矢さんは言葉を選んでいるように考えこんだが、やがて自分の目を見て、言われたから実装しましたというのは最低な仕事の進め方ですと言った。

 何も言い返せない自分に対して、破子矢さんは諭すように言ってくれた。


 プランナーは、仕様を作るに当っては必ずその仕様の目的、理由、方法、結果を説明できなければならない。

 それは何を目的として実装するのか。

 それが必要な理由はどこにあるのか。

 どんな仕組みでその目的を実現するのか。

 それが入ればゲームはどうなるのか。

 そこまで考えて仕様を作らなければいけない。

 これらを自分はビジョンと名付けているが、このビジョンという裏付けが無ければ、デザイナーにもプログラマーにも説得力を以て仕事を依頼できない。

 もし彼らが言われるがまま仕事をしてくれても、それが意味のある実装でなかった場合、多くの時間と労力を無駄にさせてしまう。

 アイデアの思いつきは数秒で済んでも、実装はそうはいかない。時間がかかる。だから、ゲームの要素にはビジョンが必要で、それをロジックとして組み立てるのが仕様だ。勿論、何もかも完璧にして修正の余地が無い仕様書を作れ、というわけではない。そんなことは不可能だ。

 ただ、ビジョンという裏付けが無いと、他のスタッフに、あるいは上司に、ひいてはクライアントに、疑問を呈された時や修正要望を出された時に戦うことができない。

 修正内容に妥当性があればいいが、無いのであれば、自分のビジョンの方が正しいと信じるのならば、戦わなければならない。そのためにも、ビジョンはきちんと持たなければいけない……。


 自分は何も言い返せず、俯いて分かりましたとしか言えなかった。それからトイレの個室に籠もって頭を壁にもたれて声を殺して泣いた。

 そうだ、自分は水道橋と戦おうとしなかった。有名なゲームクリエイターだからと最初から腰が引けてしまっていた。いや、それ以前に破子矢さんが言われていたビジョンというものを明確に持たないまま、ただ思いつくままを仕様と称してプログラマーやデザイナーに負荷を強いてきたのだ。

 それが、水道橋という独裁制暴君タイプのディレクターを上に戴いた時、その弊害が最悪の形で現場に目に見える災厄として現れ、その煽りを一番受けたのが瓢だった。

 自分も彼が飛び降りるその背中を押す行為に、間接的に加担していたのだ。

 だが、どうすれば良かったというのか。水道橋に何を言っても、奴はただ俺に従えばいいのだという要約すればその一言につきる中身の無い発言を、大声と罵声の入り交じった形で浴びせてくるだけで聞く耳を持たず、他のスタッフは勿論、社内のリーダーである根津も、課長も部長も社長も、誰一人助けてはくれなかったではないか……。

 俺のせいではないと思いたいという気持ちと、水道橋や根津、ベルリンのお偉方に対する反感とがせめぎあって混ざり合い、感情をどう処理していいか当時は分からなかった。ただできたことは、破子矢さんのやり方をできるだけ盗もうと仕事に取り組みだしたことだ。水道橋が独裁制暴君タイプのディレクターなら、破子矢さんは共和制能吏タイプのディレクターで、彼は上から目線ではなく絶妙な距離感で自分にプランナーの仕事の基礎というものを示し、導いてくれた。もし自分に仕事の師匠がいるとしたら、それは間違いなく破子矢さんだ。彼に勧められて、プロジェクト管理や会議の進め方などについて、ビジネス本を読み漁って仕事へ反映して、自分なりの仕事の型を少しずつ作っていった。そうやって仕事をこなしていく中で、破子矢さんへの尊敬の念と同時に水道橋に対する憎しみが、『クリエイター』を自称するゲーム業界の人間に対する反感へと広がり出していた。


 プロジェクト終了後、自分は契約社員や派遣社員としてあちこちの会社を転々としたが、程度の差はあれ、『クリエイティブ』だの『ディレクション』だの『プロ意識』だのを武器にして自らビジョンを示さずに下のスタッフにとりあえず作らせ、それに対してダメ出しを繰り返すことで無理強いをさせる自称『ゲームクリエイター』、『ディレクター』はそこかしこにいた。きちんとしたビジョンを示し、自分できちんと陣頭指揮を執る、そう、座名さんの様なディレクターもいるにはいたが、彼らは圧倒的に少数派だ。あちこちの現場でプランナーとして働いているうちに、本当のクリエイターなどこの業界には滅多にいないと確信するようになった。

 何がクリエイターだ。自らビジョンを示し、その方向に向かって現場を動かすことができる本物の作り手が何人いるのか。連中のアイデアと称する思いつきを、必死で整合性をつけてルール化してまとめ、実装まで持っていっているのは名も無きプランナー、デザイナー、プログラマー、サウンドコンポーザーたちだ。なのにゲーム雑誌にクリエイターとして華々しく紹介されるのは思いつきをねじこんでくるだけのエセクリエイターばかりだ。

 そして『ダブル・ブレード』が発売された。自分も発売日に買ったが、同時発売されていた完全攻略本が、自分のその後のプランナーとしてのスタンスを決定的なものにした様に思う。それは、『クリエイターズ・インタビュー』と称されたページにあった。水道橋が『ダブル・ブレード』のディレクターとして、プロジェクトの発足から開発中の苦労話まで、まるですべて自分が取り仕切って作ったかのようにインタビューに答えていた。根津は水道橋に取り入って立ち回っていたせいか、インタビューへの同席を許されていた。インタビューそのものは、瓢が飛び降りる前に収録されていたものだが、自分はそのインタビューページを読んでいるうちに、またあのドス黒い塊が胃の中に立ち上ってくるのを感じていた。そして読み終えてから、そのページをびりびりに切り裂いた。破いたページをマンションのベランダから外に放り投げて叫んだ。


 お前らが一体『ダブル・ブレード』の何を作った!

 何がクリエイターだ!

 そんなにイメージ通りにしたいなら手を動かせ!

 何様のつもりだ! てめえ一人でゲームが作れるのか!

 クリエイターなぞ死ね! 全員死ね! 瓢に謝れ!


 叫んでから酒を浴びるように飲んだ。泣きながら飲んだ。

 それから自分は、開発現場で『クリエイティブ』だの『プロ意識』だのを口にした人間に徹底的に噛みついた。それを口にする人間に、自ら手を動かしてプロジェクトに貢献しようというやつはほとんどいない。どれだけの覚悟でその言葉を口にしているのか、まずお前がやってみせろと言ってワークフローを提示し、この工程の中でお前はどこでどのようにそのクリエイティブさとやらを発揮するつもりなのか答えてみせろと迫って反抗した。自尊心と自己顕示欲だけが肥大化した水道橋と同類の輩は業界のどこにもいて、その連中に対してざまあみろと言ってやりたいというゆがんだ黒い衝動を肚に抱えて仕事をしてきた。

 自然、煙たがられて同じ現場には長くおられず、数年の間色々な現場を転々とすることになった。悪評も明確な事実として立ち始め、派遣先すら見つからない時期が続き、もうこの業界から足を洗おうかと思っていた。その時に声をかけてくれたのが潮見さんだった。潮見さんは手が空いているならオストマルクに来てくれないかと誘ってくれた。有名なゲームクリエイターである紺塔生雄のいる会社だから、自分には絶対合わないと思うと言って最初はお断りしたのだが、もう一度考えてくれないかと再考の機会をくれた。その時に、人づてに潮見さんはベルリン退社後、自分が働き口に困らないように裏で色々と手を回してくれていた事を知った。恩義があると感じた自分は、これが最後だと思ってオストマルクに契約社員として入社した。だが、結局あちこちで他人との衝突が絶えず、結局雑用が仕事の中心となった……。

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