(四)拳

 ひさごの実家から戻ってから数日後、社員全員が集められ、社長から改めて彼の自殺についての説明があった。

 結論から言うと、瓢の自殺は仕事がうまくいっておらず、そのストレスに加えて失恋によるショックによるものらしい、会社としても遺憾の思いだが個人の事情には立ち入れない、社員の皆もショックだろうが、会社として今後もバックアップしていくつもりなので仕事に注力してほしい……。

 何だそれはと思った。二〇〇六年当時ではパワーハラスメントという言葉は自分にはまだなじみが無かったが、警察の事情聴取では、瓢の自殺の原因は、明らかなオーバーワークと水道橋による人格否定が原因だと思うと自分は述べていた。だが、何をどううまく取り繕ったのか、会社にも水道橋にも非は無いという事になったらしい。

 過剰労働時間については、ウチは裁量労働制度で本人に任せていた、確かに納期間際なのでオーバーワーク気味だったがそれは彼だけでは無い……。それが会社の言い分だった。

 自殺に至るまでに、医者にかかって鬱病等の診断を受け通院していたなど、業務における過度な心理的・身体的な負荷が継続し、正常な判断ができない状態であった場合を除き、基本的に自殺は労災の対象にはならないらしい。結局、瓢の労働状況と自殺との因果関係を立証するには至らず、また瓢のご両親も会社を訴える気はないとのことだった。社長の説明の後、『ダブル』のチーム全員が別室に呼ばれて、水道橋による演説が始まった。

 瓢君の件については先ほど社長から説明があった通りだ、彼は優秀なプログラマーだっただけに大きな戦力ダウンで自分も残念だ、だが彼はきちんと追加分の仕様は実装し終わっていた、これこそがプロだ、クリエイティブな物作りとはメンタルの強さも要求される、これからも厳しいことを言うことがあるかもしれないが、それはひとえにクオリティを上げたいからだ、そこは理解しておいてほしい……。

 聞きながら、これは自己弁護という名の生きた見本だと思った。虫酸が走る、という表現があるが、当時の自分の感情にこれほど当てはまる言葉はないと思った。その時芽生えた感情は胸の中にドス黒くて熱い塊の様なものを生み、それはずっと自分の胃の当たりに燻り続けて消えることはなかった。水道橋は自己正当化を表面化させた笑顔で、さああともう一踏ん張りよろしく! とパンと手を叩いた。皆適当にパラパラと自席へ戻っていった。自分は最後まで残って、水道橋が自己弁護の中で吐いたキーワードを反芻していた。


 プロ……。

 クリエイティブな物作り……。

 メンタルの強さ……。

 厳しいことを言う……。


 もし、自分の仕事を最後までやり遂げることこそがプロであるならば、自分で方向性も示せないものを他人に作らせて変更指示だけを出す人間のことを何と呼べばいいのだろうかと自分は思った。

 クリエイター? プロデューサー? ディレクター? プランナー? それとも監修者か? 

 どれでもないだろう、一体水道橋は何者だろうかという疑問が湧いた。

 一人自問自答を続けていたところへ、水道橋が話しかけてきた。彼は、瓢にオーバーワークをかけすぎたのではないかと自分に向かって言った。自分はディレクターなのだからスタッフ一人一人の作業負荷まで見ていられない、そこは君が管理してあげないといけなかったのではないかという趣旨の事を遠回しに口にした。この男は一体何を言っているのか、意味が分からなかった。

 だが、発言を頭の中で噛み砕くと、要は自分が瓢に無理をさせたせいで彼が自殺したのではないかと言いたいらしい。他に誰も人がいない会議室で、自分は胸の中のドス黒い塊がより一層熱くなっていく感触を味わい、何も言い返さずにただ水道橋の目を見つめた。水道橋は一瞬たじろいだように目を逸らして、まあ終わったことだしと薄ら笑いを浮かべて会議室を出て行った。

 水道橋は自己正当化の次は自己の立場の修復に努めだした。スタッフに無理矢理話しかけては笑顔で褒めたり、冗談を言うことが多くなり、罵声は鳴りを潜めたが、それはものの数日の事で、彼は瞬く間に暴君として圧政を敷き始めた。誰かが自分の隣の席、つまり瓢の席に花を飾ってくれていたのだが、数日で別のプログラマを移動させてきて片付けさせてしまった。そして、あの時が来た。


『ダブル』は無事にオールインを経たが、さらに水道橋の修正要望に無理に対応している様な状態だった。

『より良くするため』という水道橋の要望に、デバッグと並行して対応しながら彼の思いつきを実装する。流石にリスクの高いものは水道橋もとりやめの判断を下し始めたが、しょうがないから勘弁してやると言わんばかりの態度だった。

 そして、新しくバトル担当になったプログラマーの席でまた幾つか修正指示を口頭で出したが、その一部がちょっと期間的にリスクがあることをプログラマーが遠回しに言った。水道橋は頷いて、「しょうがないな、今作ではあきらめるかあ」とおどけて言った。

 それから「ああ、あいつの手が早ければなあ」、と同じ調子で言った。『あいつ』が誰を指すのかは言うまでも無いだろう。手が早い、というのは仕事が早いという意味の言い回しだ。瓢の仕事が遅れたせいで、自分の要望が実装できなくなったと、そう言いたいらしかった。流石に誰も何も言わず、気まずい空気が流れ、水道橋はバツの悪そうな顔を浮かべて、それをごまかすように次の修正指示を出し始めた。

 その時に自分の胸に燻っていたドス黒い気持ちが熱くたぎるのを感じた。瓢の顔が浮かんだ。共に画面を見ながら笑い合って、自分のミスを笑って許してくれて、無理な相談や要望にも苦笑を浮かべながらやるよと言ってくれて、若江を見ては赤くなっていた顔、そして追い詰められた表情がよぎり、最後に見た瓢のうつろな目とやつれた表情、それに瓢の実家の彼の部屋の光景がフラッシュバックして、自分をゆっくりと立ち上がらせた。

 そして傍で腕組みしたまま思いつきの修正点を口頭で述べている水道橋の顎を、殴りつけた。怒りに任せてではない。激情にかられてでもない。自らの意思で水道橋を殴った。これは恥を承知で言うが、自分は昔から日本拳法をやっており、大学卒業までに二段位を取った。その渾身のストレートで水道橋の顎を打ち抜いた。

 こいつは怪物だ。人を食い物にする化け物だ。自分の手を動かすことなく、人を死に追いやるまで働かせてその成果だけを吸い取る化け物だ。そして何よりもゆがんだ自己正当化と自己顕示欲のために言ってはならぬことを口にした。これ以上こんな奴をのさばらせてはおけない。

 顎を打ち砕いた手応えがあった。水道橋は仰け反りながらうつ伏せに倒れ込み、顎を手で抑えてうめいていた。悲鳴と叫声がオフィスに響いたが自分は意に介さず、水道橋に向かって瓢に謝れと言いながら、ゆっくりと奴に歩み寄っていった。根津が走り寄ってきてやめろ、落ち着けと言ってきたので、止められるものならお前が止めてみせろと言いながら、今度は奴の方に向かって歩みよると、奴の足が即座に震えだしたのが分かった。待て、俺が悪かったという声も震えていた。こいつは何が悪かったと言っているつもりなのか、この程度の人間に自分は遠慮していたのか、この程度の連中を相手に戦うこともしないで、自分は瓢を死に追いやったのか。そう思うと、無性に悔しくて自分に対しても腹が立って、その腹いせを根津にぶちこむべくまた自分の拳を握りしめた。

 その時に他のスタッフ数人に後ろから羽交い締めにされ、取り押さえられた。その中の一人に潮見さんもいて、お願いだから止めて、警察沙汰になってしまうと言われたが自分は意に介さなかった。後の事は記憶が判然としないが、救急車が来て水道橋を乗せて病院へ向かったようだった。自分は落ち着いたところでやっと解放され、警察を呼ぶなら好きにしてくださいと言って自席に座った。その日は結局、監視付きでそのままオフィスに泊まることになった。懲戒免職だろうが、世話になった人への挨拶メールは早めに打っておこうとキーボードを叩き始めた時、手に激痛が走った。拳が水道橋を殴った時に砕けていたらしい。医者にも行かず放置したせいか、今でも右手は真っ直ぐ開くことができない。


 新能は、これが自分が起こした暴力事件だと言ってお猪口を置くと、甲を上にして右手を広げ、カウンターの上に置いたが、その手はまるでマウスを掴んでいるかのように湾曲したままだった。雪乃はその手に自分の掌を重ねると、親指でそっと新能の手の甲を撫でた。自分でも驚くくらい無意識の行為だったが、新能は驚きも拒絶もせず、雪乃の手を受け入れている。


「……新能さんが暴力事件を起こしたことがあるというお話は聞いていたんです」

「今話した通り、事実だ。疑いようが無いくらい明確に」


 新能の行為を暴力と称するのなら、自分の仕事を他人に振って過度なオーバーワークを強いた上、人格まで否定するような罵倒を繰り返して人を奴隷の様に扱う行為は何と称するのだろうと雪乃は思った。いつの間にかお銚子は三本が空になっていたが、新能も雪乃も酔っている気配は無かった。寄せ鍋はいつの間にか空になっていて、大将が笑顔で締めのおじや用だと言って、ご飯を二椀と、四本目のお銚子を置いてくれた。


「強いな、早見さんは」


 そう言って、新能は雪乃のお猪口にまた酒を注いでくれた。

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