(三)瓢

 そのころになって、水道橋はやっとベルリンに常駐するに至った。

 自分はベルリンが作ったものに対してディレクションを行うのが仕事なので、そのベルリンの作るものがクライアントの基準を満たしていないのは自分のせいではないが、このままでは流石にまずいと思うので直接現場に居てやる。

 水道橋はそういう論法でベルリンに席を作らせた。やり取りが直接になったので最初はやれやれとスタッフは胸をなで下ろしたのだが、現場に常駐するようになった水道橋は最悪のディレクターと言ってよかった。ものの数日で、水道橋は気に入らない事やスタッフのミスがあると、声を荒げて大声で罵倒するようになった。特にまだ『絆』を反映したバトルというものの形が定まらないバトルに対する風当たりは強く、自分も瓢も毎日あれはどうなっている、これはどうなっていると怒鳴られて胃が痛い毎日だった。

 だが何よりも自分が、水道橋の言われるままに彼の思いつきを瓢に伝えては実装対応してもらっていた。いや、させていたのだ。当時の自分は確固たる仕事の型を作れていたとは言い難く、また自分のアイデアに自信もなかった。ただディレクターの要望をこなす事が仕事だと考えていた。そんな自分の適当な仕事ぶりに文句も言わず、瓢は常に、じゃあどうしようか、どうしたらうまく形にできるだろうかと一緒に考えてくれて、二人で毎日会社に泊まりで居るのが当たり前のハードワークを続けてくれた。


 そんな日々の中でも、瓢が若江に恋しているという事実は、自分でなくても周囲の人間なら気がついていたことだろう。奥手な瓢が会社で自分からしどろもどろながら話しかける唯一の女性が若江だった。その様子を陰であざ笑っている人間もいたが、好きな女性にあげるためのお菓子を握りしめ、仕事の邪魔にならないよう話しかけるタイミングを計っているような健気な恋心をどうして笑うことができるのか、自分には理解できなかった。

 同じチーム、同じオフィスで仕事をしながら、若江にはやはりどこか憎めなくさせる愛嬌があって、水道橋の罵倒は彼女に向けられることはなかった。自分や瓢は相変わらずよく罵られ、中にはそれは理不尽だろうと感じるものもあったが、水道橋の権威の前に自分は何も言い返すことができなかった。

 自分が何の疑問も持たずに水道橋の要望を不十分なままで仕様化して、それを瓢が必死になってパッチを当てるように修正を繰り返したバトルに関するプログラムは複雑奇怪なスパゲティ状態の様相を呈し、バグの原因によくなっていた。そのたびに水道橋から大声でスキルが低いだの、プロ意識に欠けるだのと罵られるのは瓢だった。好きな女性の前で罵倒される、ということはとても辛い日々であることは想像に難くない。瓢はよく我慢したと思う。それに加えて、バトルは更に水道橋の思いつきで様々に仕様変遷を遂げていき、自分は必死で彼のアイデアを仕様化してはデザイン素材を発注し、新しいルールを瓢に丸投げして実装してもらっていた。


 開発から二年近くが経過しようというころ、ベータ版がようやくクライアントから承認された。つまりやっと『絆』の反映されたバトル、最終的な『ダブル・ブレード』の形が定まったが、それは自分の考えたアイデアを仕様化したものだった。それに水道橋は自身の色をさらに付け加えたくなったのだろう、デバッグ期間中に、ご丁寧にクライアントの許可まで取って、バトルに新たな要素を加えるよう彼は指示してきた。

 それはリスクが高すぎる内容だったので、瓢と自分は水道橋に勘弁してくれるよう頼みに言ったが、例によって「職務怠慢だ」とか「間に合わせるのがプロだろう」という論法で罵倒され、対応せざるをえなかった。それらを必死で実装中に、ついに瓢が体調を崩し帰宅したのだが、それから三日会社を休んだ。それまで数ヶ月、ほぼ休みも何もない毎日で、週末にやっと一日だけ家に帰って翌日また着替えを持ってきて仕事、という状態で作業をしてくれていたので無理もない。だが、水道橋のアイデアの実装は遅れ、もう間に合わないかもしれないというタイミングになっていた。やっと、身体を引きずる様にして出勤してきた瓢を水道橋は呼びつけ、皆の前で大声で罵った。


「お前、自己管理ができていないだろ!」

「これはお前の職務怠慢だぞ! 俺が新人だったころのきつさはこんなもんじゃなかったぞ!」 

「そんなことでプロといえるのか! どこが自分でだめだと思うのか今この場で言ってみろ!」

「絶対間に合わせろ、休んだ分きっちり間に合わせろ!」


 プロジェクトがこの状況にあっても休日出勤など滅多にしない水道橋から、およそあらゆる種類の暴言を浴びせられ、ついに瓢はうなだれたまま涙を流していた。誰も水道橋を止められなかった。せめて自分が止めさせるべきだったのだ。それはないだろう、今までどれだけ無茶な仕事をやらせ、どれほど無理を重ねさせてきたかも省みずにその言いぐさはないと、水道橋と戦うべきだったのだ。


 だが、自分もまた水道橋の剣幕が怖くて瓢をかばえなかった。プロジェクトリーダーの根津は言うまでもなく、リードプログラマーも、課長も部長も、誰も止めようとしなかった。およそ三十分間、瓢は皆の前で罵倒され続けた。唯一の救いは、若江が一週間ほど前に出向を終えて会社を離れていたので、その様子を見られずに済んだことだった。

 水道橋の罵声から解放された瓢に、自分は大丈夫かと声をかけた。瓢は首を振って自分が悪いのだから仕方ない、迷惑をかけて悪かったと泣いた目をこすった。オフィスは静まり返っていて、入り口の扉の向こうの喫煙所から、水道橋が誰かと雑談をしているのか高笑いをしている声が響いていた。それから二日泊まり込んで何とか水道橋のくそみたいな要望を二人で何とか形にして、あとはデータ作成と調整という段階まできたところで、自分は一旦帰宅させてもらった。瓢が、明日の朝までには調整環境を作っておくから、その間に帰宅して休んでくれと言ってくれたからだ。正直一週間会社に居続けていたので、ありがたく帰宅させてもらった。翌日、普段よりも数時間早く家を出て、朝七時に会社の最寄り駅に着いた自分は、コンビニで瓢への差し入れを買ってから会社へ向かった。

 コンビニに寄ってから会社へ行くと、必然的に会社の入っているビルの裏側、非常階段のある側から入口へ向かうことになる。その日も自分は非常階段側の道路を歩いていた。会社の入っているビルが目に入ってから、道路の上に人が倒れているのが見えた。周辺には飲み屋が多いので、深夜や早朝では、こういう酔いつぶれた人が道路に寝ている光景はたまに見かけていたからああまたかと思ったが、すぐに胸を刃物で刺されたような衝撃と悪寒が走った。食事中に悪いが、倒れている人の周囲に血と肉片が飛び散っていた。声を上げて駆け寄った。遠目からでも瓢だと分かったからだ。

 抱き起こして声をかけたが、返事は無くその身体はもう冷たく硬直していた。それからパトカーと救急車が来るまでの間、あまり細かいことは覚えていない。泣いていたことだけは覚えている。

 後から聞いた話では、自分は瓢を抱き抱えたまま錯乱して泣きわめいて、その騒ぎに気がついた近所の人が惨状を見て、救急車を呼んでくれたらしい。救急の人らにどかされ、警官から事情を聞かれた自分は、会社の同僚ですと答えた。その後、連絡を受けた会社の社長やお偉方が血相を変えて会社にやってきて、警察によって実況見分が成されたようだ。救急隊員によりその場で瓢の死亡が確認されると、瓢の遺体は病院ではなく警察に収容された。

 ベルリンのオフィスは七階にあって、その非常階段から瓢は飛び降りた。非常階段には靴がそろえてあって、彼の机の上には遺書があったらしい。自分は血と肉で汚れた服を着替えさせられてから、第一発見者として警察で事情聴取を受けていたのでその時のオフィスは見ていない。遺書といっても仕様書をプリンアウトしたものの裏に、「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」とだけボールペンで書かれてあったとのことだ。水道橋も当然呼ばれて事情を聞かれたようだが、彼が何を話したのか自分は知らない。その日はさすがに業務にならず、一部の人間を除いて従業員は帰宅させられた。

 警察の調査でも、状況から見て自殺に間違いないだろうと言う事になり、瓢のご両親が兵庫から呼ばれ、警察署で本人確認後にすぐに遺体は引き渡されたらしい。自殺が職場で行われたということで、翌日から始まった警察の調査も会社にまで及び、出勤記録やそれまでの瓢の仕事の状況も調べられ、自分も含めて関係者は全員事情聴取を受けた。

 その後、社長が全員を集めて状況を説明したが、自殺には間違いないが、詳しいことは調査中と歯切れ悪そうに言っただけだった。『ダブル』のクライアントも事情は理解してくれたが、納期は延びなかった。

 自分は普段通りに業務が始まった会社の光景に、違和感と心の中に穴が空いた様な空虚な気持ちの双方を感じながら、瓢から送信された最後のメールを確認した。その内容はいつも通りの報告内容だった。

 水道橋の要望を仕様化したものの調整環境はすべて整っていて、この仕様を実装しました、リビジョンいくつ以降で確認してください、調整環境を説明したテキストファイルはここにあります、以上、よろしくお願いいたします――。

 ただその後に、『もう疲れました』の一行があった。それを見て自分はまた涙が溢れてきた。何度も何度もその一行を眺め続けた。

 どうしてあの時俺は帰ってしまったのか、どうして瓢があそこまで追い詰められていることを分かっていながら何もしなかったのか。後悔ばかりが喉もとに見えない棘になって刺さっている様で、息が苦しかった。


 瓢のお通夜は勿論、お葬式にも自分は出席できなかった。社長から、瓢のご両親が会社の人の参列を拒否したと聞かされていたからだが、後にそれは嘘だと分かった。仕事の遅れを取り戻すために『ダブル』のスタッフには参加を許さなかったのだ。社長を始め、会社の首脳陣はこっそりと参列したようだが、水道橋は参列せずに会社に居た。さすがに居心地が悪そうにはしていたものの、水道橋は虚勢を張るように普段通りの態度をとり続けたが、その勢いは明らかに失速していた。

 自分は悩みに悩んだが、結局数日後に兵庫県にある瓢の実家を尋ねてお線香を上げさせてもらった。彼の年老いたご両親は、彼に似て温和で、憔悴した姿ではあったが暖かく自分を迎え入れてくれた。その場ではとても彼が追いつめられた課程を話し出せる空気ではなく、ご両親もそのことには触れなかった。ただ息子の普段の仕事ぶりを尋ねられた。自分は瓢がそれまでに開発を担当した二つのゲームの新品をご両親に贈り、彼は仕事に対してどこまでも真摯で誠実であり続け、とても助けられましたと本音を伝えた。

 ご両親はそのゲームソフトを愛おしむように何度も何度も掌で撫でた。あの子は昔からピコピコが好きで、私らにはようわからんのですけど、まあ楽しくやれてる趣味ならええことやと好きにさせてきたんですとだけ言って、彼がまだ実家に居たころに使っていた部屋に案内してくれた。

 瓢の部屋は二階にあって、六畳間の和室には机やパソコン、それにスチール棚と本棚があった。プログラム関係や数学に関する本、古いゲーム雑誌やパソコン雑誌、そしてゲームソフトとハードが、棚に丁寧に並べられていた。彼が幼少のころに買ってもらったハードは勿論、生まれる前に発売されていた古いハードまであった。ゲームソフトはパソコンゲームから家庭用のものまで、ありとあらゆる機種のものがきちんと整理、収納されていて、数はコレクターというほどには及ばないが、その整然とした佇まいは圧巻というほか無かった。壁にも好きなゲームのキャラクターのポスターや雑誌の切り抜きが張られ、机の上には好きなゲームに登場するキャラクターのフィギュアも飾られていて、故人が使っていた空間に不思議な暖かみを感じさせた。

 これだけの、膨大なゲームに対する好きだという情熱とエネルギーを抱えたまま彼は死んだのだ。熱意も技術も申し分なく、これからのゲーム業界でまた実績を積んで、将来はどうなっていたのか。『ダブル』の開発初期では大変ながら互いに笑って画面に対して色々と突っ込んだやりとりをしては笑い合った時の、彼の柔らかな笑顔を思い出し、自分は膝が震えてその場にへたり込んだ。ご両親に申し訳ございませんでしたと土下座をしてから、自分は逃げるように瓢の家を後にした。


 新能は、語りながらお銚子を一本空にしていたが、今夜はなぜだか飲んでも酔えないなと言ってまた酒を煽った。雪乃は自分もお酒を飲むと、新能のお猪口にそっと酒を注いだ。それから大将が用意してくれた寄せ鍋に、新能の分を取り分けて渡してから、右手でそっと目元をこすった。

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