第七章 過去
(一)二人酒
雪乃が新能の胸で泣いている間、彼はただ黙って優しく頭を撫で続けてくれた。
やがて、雪乃がやや落ち着きを取り戻して頭を胸から離すと、彼女の背に手をそっと回して、近くの休憩スペースへと促して座らせてくれた。自販機でミネラル・ウォーターを二本買うと、蓋を開けてから一本を雪乃の手に握らせてくれる。
「もしかして紺塔とやりあった?」
「はい……やってしまいました」
「それで?」
「『ソード』から外すと言われました」
「バカな野郎だ。それでしんどくなるのは現場なのにな」
「代わりに田無さんに仕切らせるって」
「役に立つかよあのイエスマンが。もっとも、まあ」
新能は酒をあおるように水を飲んでから続けた。
「『ソード』はもう早見さんが形を整えてまとまった落としどころまで持ってきたからな。残りの調整とデバッグ対応なら、あのイエスマンでも何とかできるだろうよ」
新能はわざと皮肉っぽい口調で、吐き捨てるように言った。
「まとまって……いますか?」
「ああ、もうきちんとゲームになって、遊べる。触っていて面白い」
雪乃はまだ涙が滲む真っ赤な目のまま、クスッと笑った。何よりも嬉しい。新能の言葉は、そのまま暖かみを持って彼女の胸に染み渡っていくようで、油断すればまた泣いてしまいそうだった。
「そういえば」
「はい……?」
「飲みに行く約束、まだ果たしてなかったな。今夜は大丈夫?」
どきりとした。
「えっ、あっ、はい! 喜んで……!」
新能は頷いて、夜九時ごろにある駅で待ち合わせしようと、携帯の番号を交換してくれた。それじゃあまた後でと言って席を立つ新能の胸が濡れているのを見て雪乃は焦った。鼻水までべっとりと付いてしまっている。
「あっ、ご、ごめんなさい、その……」
雪乃の視線が自分の胸に注がれたのを察すると、新能はすぐに乾くといって片手を上げつつ背を向けて歩き去った。
共用の流し台で顔を洗ってから、雪乃はそっとオフィスへと戻った。オフィスは静かだったが、雪乃が入室すると、各セクションリーダーが彼女の元へと集まって心配してくれた。
「ごめん、早見さんばかり矢面に立たせて……」
雪乃は首を振った。
「いいんです。言いたかったことをはっきり言って、何だかスッキリしちゃった」
おどけたフリでぺろっと舌を出す。だが、面と向かって上司に文句を言うのは相当にエネルギーを使うものなのだと雪乃は痛感した。今後の職場での立ち位置にも関わるのだから、誰もがドラマや漫画の主人公の様に、自分が思っていることをストレートにぶつけることなど容易にできはしないのだ。
残りの作業や進行方法をセクションリーダーと詰めた後、心配そうな市ヶ谷にも必要な資料の場所を伝えておいた。市ヶ谷は、新能の影響で自立したプランナーとしての自覚が芽生えつつある。田無を上司としても、『ソード』なら彼以上にうまく現場を取り回してくれるだろう。きっと誰よりも心労を抱えたであろう市ヶ谷には、このタイトルで一番報われて欲しい。
引き継ぎの準備を終えると、雪乃はそっと、という体で退社し、新能と待ちあわせをしている駅へと急いだ。待ち合わせ場所では彼はもう待っていてくれて、行きつけの店があるからそこでいいかと尋ねた。
「ここから五分くらいのとこ」
「はい」
「食べられないものはある?」
「ないです」
新能と並んで歩きだす。店に着くまで二人とも何も話さなかったのに、その沈黙の時間が、雪乃にはごく自然なもののように感じられた。
路地裏にその店はあった。『ほおずき』と看板がかかっている。居酒屋の様だが見た目はずいぶん古く、もっと言えばボロい。
「ここ。店はぼろいし汚いけど、大将の腕はいいから」
暖簾をくぐって中に入ると、威勢のいい声が響いた。
「らっしゃーい、新ちゃんじゃなーい」
男性用割烹着姿の、三十代くらいの男が笑顔で出迎えた。雪乃が新能に促されて中に入ると、大将という男は雪乃を見て目を見張った。
「アレ? アレレ? えらい美人さんじゃないですかやだー、新ちゃんの彼女?」
「会社の同僚」
「へーっ、珍しいやん、新ちゃんが会社の人を連れてくるなんて。カウンターでええ?」
「ああ」
大将は二人をカウンターへと案内してくれた。店はこじんまりとしていて、六人程度が座れるカウンターと、靴を抜いで上がれる座敷に小さなテーブルが三つほどある。店内は蛍光灯ではなく白熱灯で照らされ、どこかノスタルジックさを感じさせた。大将が中日ドラゴンズとセレッソ大阪のファンなのか、両チームのポスターやカレンダーがそこかしこに張ってある。雪乃もプロ野球好きで東京ヤクルトスワローズのファンということもあり、少し親近感が湧く。確かに新しさも清潔感も無いが、汚いとは感じなかった。空気が柔らかいと雪乃は思った。
二人並んでカウンターに座り、とりあえず生ビールを注文する。新能は好きなものを注文してくれと言ってメニューを渡してくれたが、自身はメニューも見ずに二、三品を頼んだ。雪乃もとりあえず同じものを頼んでから、そっとジョッキを合わせた。つきだしは魚の煮物だったが、口に入れた瞬間暖かな旨味が広がる。
「おいしい」
「良かった。大将、彼女、おいしいってさ」
「アラ。アララララー。こんな美人さんに褒められたらサービスせえへんわけにはいきませんやん」
関西弁の大将は陽気に料理を作り始める。ちまちま、もぐもぐ、という体で二人ともつきだしをつついてはビールを飲んでいたが、やがて新能が口を開いた。
「で、何があった?」
雪乃はかいつまんで今日起きたことを話した。それが終わる頃にタイミング良く最初の料理がカウンターの前に置かれる。
「はいよー、ジャンボ焼き鳥塩味お待ちー」
新能が雪乃の分の焼き鳥の皿も取って、前に置いてくれる。雪乃は軽く頭を下げて、目の前の巨大な焼き鳥にかぶりついた。新能は、自分の悪い行動など真似しなくてよかったのにと言ってから、譲れないところだったのかと尋ねた。雪乃は肉汁が溢れ出る焼き鳥の旨みを堪能しながら頷いた。口にした一切れを飲み込む。
「無理な要望に対する反発もありましたけど、それを実装してしまったらゲームの質を下げてしまうと思いました。でも……」
雪乃はビールを飲み干す。
「最初はそのまま対応しようかと思ってたんです。内容的には大した手間では無さそうだったし、もう反対するのも面倒になって。でも紺塔さんがまたオフィスに来て、別の修正指示を出してきた時に新能さんの言葉が浮かんで、それで思い直しました」
「俺の言葉?」
「いつだったか、オフィスで聞いたんです。大阪出向の前に」
「そのころは同じチームじゃ無かったと思うが」
「はい、別チームで仕事をしている新能さんが言ったのを聞いたんです。言われたから実装しましたなんて、最低な仕事の進め方だ、って」
お代わりのビールに口をつけて新能は表情を変えずに言った。
「あれは、昔俺が言われた言葉だったりする」
「そうなんですか……」
雪乃も両手でジョッキを持ってビールをこくん、と一口飲み込んだ。
「座名さんから聞きました。新能さん、『ダブル・ブレード』を開発されたんですよね」
新たに大将が出してくれた鳥のレバー刺しをつまんでいた新能の箸がぴたりと止まる。間を置いてから新能は口を開いた。
「主にバトルな」
「私、大学時代に『ダブル・ブレード』をプレイして、この業界に入ろうと思ったんです」
「それはそれは……」
言葉とは裏腹に、新能の表情は硬さを増している。雪乃はジョッキを置いて背筋を伸ばした。
「座名さんから、『ダブル・ブレード』の開発は大変みたいだったと伺っています。何があったか、教えていただけないでしょうか」
頭を下げる。新能は何も言わずにレバーの刺身を数切れ口に放り込み、ビールで流し込んでから雪乃の頭を指先で優しく叩いて上げさせた。
「長くなる」
「構いません」
「大将、熱燗二合、お猪口は二つ。あと、寄せ鍋」
「はいよーっ」
新能は、ぐーっと一気にビールを飲み干してジョッキを机の上に置くと、雪乃から目線を逸らして静かに語り始めた。
「『ダブル・ブレード』で、俺は同僚を一人、自殺に追い込んだ」
雪乃は息を飲む。大将がせわしなく仕事をする音とテレビが控えめに発する音だけが二人を包んでいた。
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