(二)変化

 クライアントであるヴィルヘルミナから「やっと形になり始めて、良くなる芽があるのでリリースを延長して作りこむ」方針がヴィルヘルミナとオストマルクの間で合意を見て、正式に契約が延長されると、チームはにわかに活気づいてきた。

 雪乃は市ヶ谷に作成した仕様は必ず担当スタッフと打ち合わせをするように指示をして、自分も必ず立ち会った。それに加えて自分の担当分の仕様書も作成、打ち合わせをして、実装報告のあったものは実機で確認をして、いつまでも実装報告がないものは、現状を各スタッフに確認に行った。かと思えば、マネージャーから進捗報告書を出せと今更な要求が来るのでそれにも対応した。ありとあらゆる確認や質問、要求はすべて雪乃の所に回ってきて、文字通り目の回る忙しさだった。

 市ヶ谷には、成果がはっきりと目に出やすいUI関係の仕様作成と、データ作成関係等、量産に関わる作業を振って、それ以外は自身が引き受けた。市ヶ谷はやっと仕事に対する意欲を取り戻した様で熱心に仕事を進めてくれるが、雪乃にアドバイスや確認を求めてくることも多く、自分自身の作業ができるのは定時を回ってからの事がほとんどだった。それでも直近の目標に向けて、ゲームをいつまでにこういう状態にしたいとチームに提示し、それに必要な作業から潰していくことでチーム全体がやるべきことを確実にやって前に進んでいる感触があった。いつの間にか、残業は当たり前でも泊まりで仕事をする人はいなくなっていた。


 もう、十時か……。

 雪乃は時計を見ると、両手を上げて上半身を伸ばした。自分の作業に取りかかれたのは午後九時からだ。実装されているプレイヤーのアクションの仕様変更についてまとめている。明日の朝には打ち合わせをしたい。何をどう変えるのかをテキストでまとめているのだが、感覚だけで変えたいのではなく、何が問題で、その原因はこれで、対策としてこうしたいということを言語化していくので手間がかかる。それでもやっと一通りまとめ終えたところだった。新能からのメールをモニタに表示する。


『億劫かもしれないが、特に開発の初期は、ゲームに対するイメージがバラバラで、仕様書は誤解、曲解が生まれる温床と言っていい。きちんと一つ一つ打ち合わせをやって、やりたいことを提案して、そこに問題はないか、必要な素材はどれだけあるのか、どう実装していくかを詰めていった方が、結局後の手戻りが減って時間のロスを減らせる』


 それは、プロジェクトの立て直しを始めて、仕様項目ごとに打ち合わせばかりを繰り返していたころに、もう仕様書だけアップして、今まで通り各スタッフに確認してもらって問題点を挙げてもらう方が早いのでは無いかと相談した雪乃に対する新能の返事だった。


『ゲームの目指している形を、きちんと主要なスタッフと共有することさえ心がけてたら大丈夫。

 誰がやったって程度の差はあれケチは必ずつくから、そんなものだと割り切ればいい』


 今度は自分のリードプランナーとしての動き方や、仕様に自信が持てないという雪乃の相談に、新能はそんな返事をくれていた。新能は話し言葉にも書き言葉にも飾りが無く、アドバイスの一つ一つが有り難かった。それでも雪乃は新能の心にはまだ触れられないと感じている。彼とはもっと深いところの話がしたい、と思う。


 「早見さん、お疲れ様」


 新能からのメールをぼんやりと眺めていた雪乃に声をかけてきたのは北浜だった。ホット紅茶のペットボトルを机に置いてくれる。雪乃が周りを見渡すと、オフィスには自分と北浜だけだった。


「ありがとうございます、北浜さんもお疲れ様です」


 雪乃は穏やかに言って、ペットボトルの紅茶を開けて一口飲んだ。北浜は周囲を見渡してから腰を下ろして、声を潜めた。


「一緒に行きたい映画があるんだけど……」

「ごめんなさい、今はちょっと『ソード』の方が忙しくて……」


 嘘偽りのない気持ちを告げたつもりだった。だが、内心では初台絵里香の顔が、北浜の事を思うたびにちらつく。胸のどこかに棘になって刺さったままだった。


「まだ怒ってる?」

「いいえ、そのことはもういいの」

「二人だけの時間、取れないかな。少しでも」

「ごめんなさい」

「……そっか。疲れてるよね。僕の方こそごめん」


 そう言ってから北浜は、一瞬はっという表情をしてから言った。


「新能さんからのメール?」


 北浜の視線は、モニタに向けられていた。


「新能さんは違うチームだよね?」


 雪乃は一瞬しまったという感覚を味わった。後ろめたいことなど何もないはずなのに。


「ええ、でも私リードプランナーなんて初めてで分からないことが多いから、相談に乗っていただいているの」

「僕では頼りにならない?」

「……翔さんも今忙しいから」


 嫉妬してくれている、と思うと以前は嬉しかったはずなのに、今は目線を落として話をしてしまう。


「雪乃のためなら何でもする」


 北浜は、膝の上に置いた雪乃の手の上に自分の手を重ねた。


「ありがとう。でも今はいいの」


 北浜は浅いため息をつくと、雪乃の手をそっと握り締めてから、立ち上がってオフィスを出ていった。その背中を見ながら、雪乃はポツポツという音を聞いた。雨が降り始めていた。北浜の暖かな手の感触がまだ残っている。本気で心配してくれているのだ……。

 それから数日を経ていく内に、心の中にあった北浜へのわだかまりの様なものが氷解しつつあることを雪乃は自覚した。誰にだって打たれ弱いところや時期はあるはずなのだ。北浜が邪な心を持って初台と関係を持ったわけがない。間が悪かったという以前自分が呟いた言葉を、今度は明確な拠り所にしながら、雪乃は北浜の事をやはり今も好きだと思った。新能への気持ちはあくまで同僚としての、先輩プランナーへの憧れに過ぎないはずだ……。


 雪乃は改めて、量産体制が整ったという北浜がディレクターを努めるプレイステーション3用タイトル、『武器道メモリアル弐』の開発中ROMをプレイさせてもらった。演出もUIも格段に良くなり、ゲーム性もかけひきがより楽しめる形に昇華されていた。前作ではほぼ2Dによる紙芝居でしかなかったイベント部分も、3Dによる演出が大幅に増加している。

 すごい、と素直に思う。直後、新能ならどう評価するのかと思考を巡らせ、続いて自分の彼に対するこの感情は本当に先輩プランナーへの憧憬なのだろうかと考え始めたが、答えに辿り着くのが怖くなってぶんぶんと頭を振り、借りたサンプルROMを返そうと『武器道メモリアル』チームのいるフロアへと足を向けた。ところがオフィスに入った雪乃は、大きな罵倒の声に一瞬固まった。


「何? このUIの出来は。こんなのでROM出せると思ってるの?」


 北浜が、大きなテレビに映し出された『武器道メモリアル弐』の画面を見ながら椅子に座ってコントローラを握っていた。脇では、デザインの男性スタッフが顔を青くして立っていた。


「全ッ然! しょぼいし! 最近のゲームちゃんと触ってる? こんな古くさいUI今時ないよ」


 北浜はコントローラを机の上に乱暴に置いた。


「何か反論ないの? 自分で作ったものでしょ? それとも自分でも自信が無いものを作って成果物にしたわけ?」

「すいません……」


 北浜はスタッフを無視して、デザインセクションの、UIのリーダーを呼びつけた。


「こんな低クオリティのままROMなんて出せないから。土日でやり直して。月曜日の定時にROM出しするからお昼に俺にもう一度見せて」


 そう告げると北浜は席を立って自分の席へ戻った。北浜の席は開発チームを見渡すような位置に変わって、広さも大きくなっていた。そこで北浜は電話をかけた。クライアントにかけているようで、型どおりの挨拶の後で、ROM出しを送らせることを詫びていた。


「はい、本当に申し訳ございません。ちょっと今回新規で実装した画面のクオリティが想像以上に低すぎまして。ただちにやり直しをさせますので。はい、はい、月曜日には何とか」


 わざと大きな声で言っているようだった。雪乃はいたたまれなくなったが、机の島の一角に、『アンバランスヒーロー』で仕事を共にした子安の姿を見つけると、そっと歩み寄っていく。


「子安さん、ちょっといいですか?」


 子安がうなずき返してくれると、雪乃は彼女を連れてオフィスを出、休憩スペースへと足を向けた。


 子安の顔は少し暗かった。雪乃がホット紅茶のペットボトルを渡しても、ありがとうと言ったきり口をつけない。


「……『武器道』のチーム、どうですか?」


 我ながら質問が抽象的すぎると思ったが、子安は即座に答えた。


「良くないよ。雰囲気が」


 雪乃はそうなんだ、と相づちを打ちながら、自分のペットボトルの紅茶に口をつけた。胸に冷ややかな汗が走り出す。


「ひょっとして、北浜さん、うまく仕切れていないとか?」

「……何と言ったらいいのかわかんない」


 子安は言葉を濁したが、そこから雪乃は彼女に口外しないと堅く約束して、『武器道』チームの現状を何とか聞き出した。

 開発は、当初はなかなかうまく進行しなかった。いや、進行はしていたがクオリティには確かに問題があった。紺塔がディレクターではない事は当初、スタッフにある種の開放感をもたらしてくれていたのだが、それが悪い方にも作用したのか、クオリティに対する危機感を抱いているのは北浜ばかりの様で、他のセクションリーダーはあまりクオリティアップに熱心ではなかったように思う。

 ところが、一ヶ月ほど前から、北浜の態度が急変した。クオリティに問題があると思われる箇所や、明らかな不具合をそのままROMに実装したスタッフの担当者を、セクションリーダーと共に呼びつけて、皆の前で厳しく叱責するようになった。叱責そのものは正論で誰も何も言い返せなかったのだが、叱責が罵倒へと転じていくまで二週間とかからなかった。なだめにかかった他のセクションリーダーやスタッフもいたが、これも声を荒げて論破されてしまった。徐々に皆、北浜を恐れるようになってしまって、今は皆ほとんど萎縮している状態だ。その分皆クオリティには必死で気を配るようになり、ゲーム全体の質も上がってきた。だが、それは皆北浜に罵倒されたくないという事が目的になってしまっているように思う……。


 子安はそう現状を説明した後で続けた。


「一番風当たりが強いのは、やっぱりプランナーセクションの人たちかな。リードプランナーの小金井さんはもちろん、その下のプランナーさんたちもよく怒鳴られてる。ええと、特にイベント班の人たち。次はデザイン、それも2D担当の人たち」


 雪乃はため息をついた。


「みんな、北浜さんを怖がっている感じなんですか?」

「うん、そんな感じ……。一度ね、稲毛君が北浜さんに怒られていたところへ、たまたまオフィスに来ていた紺塔さんも加わって、二人がかりでみんなの前でひどく怒られて。それからみんな北浜さんには何も言えなくなったみたい」


 今では、むしろ北浜のご機嫌を伺いながら仕事をしているような状態だという。


「北浜さん自身、自分の言う事を素直に聞くスタッフや、クオリティを上げたスタッフに対しては声をあげてほめるし……。正直、今チームにはイエスマンしかいないって感じ」


 子安はため息をついてから、今、仕事が楽しくないなと呟いた。空気が悪いのがとにかく嫌だと言う彼女に雪乃は何と声をかけたら良いかわからず、話を聞かせてくれたお礼を述べてから、今度飲みに行きませんかと誘ってみた。


「伊坂さんも誘って。ワイワイやりましょうよ」

「うん、私お酒あんまり飲めないけど、今は飲みたい気分」


 子安がやっと微笑を浮かべたので、雪乃は金曜の夜をめどに伊坂とも相談することを告げて彼女と別れた。

 北浜の、あのオフィスでの振る舞いが脳裏から離れず、雪乃は休憩スペースに立ちすくんだ。『武器道メモリアル弐』のサンプルROMは、結局返すことができなかった。

 北浜に、あの立ち振る舞いの真意を確かめなければならないと雪乃は思った。

 

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