(三)心配

 時計を見ると、すでに定時を回っていた。雪乃は急ぎ歩きでオフィスを出て、廊下で北浜からの電話に出る。


「あ、もしもし雪乃?」

「はい、翔さん、久しぶり」


 恋人の声を聞くのは久しぶりだった。脳裏に北浜の優しい笑顔が浮かんで、やはり声が弾んでしまう。だが、彼の声はどこか陽性を欠いているように雪乃には感じられた。


「今、大丈夫かな?」

「うん、大丈夫。何かあった?」

「いや……、ここのところ雪乃とちゃんと話せてなかったから……。何か、変わったことはない?」


 開発に関することには守秘義務があるのであまり細かいことは話せないが、それでも雪乃は担当している仕様について、自分の意見がディレクターに取り入れられてうれしいということを素直に話した。


「ディレクターの座名さんが、意見を聞いてくれる人なの」

「ああ、座名堂二ね、うん、僕も名前は知ってる……」

「それに、新能さん? あの人も思ってたよりずっとしっかりして頼れる人だよー」


 ちょっととっつきは悪いけれど、という文言を追加しなかったのは、無意識に彼に嫉妬してもらいたかったからだった。


「そう……」


 雪乃の話題に合わせて相づちを打ってくれてはいるが、北浜の声には明らかに精彩が無かった。


「翔さん、何かあった? 何だか、声に元気がないけど……」

「いや、特に何もないよ。ちょっと疲れてるだけだと思う」


 これは、間違いなく何かあったなと雪乃は思った。北浜翔は、悩みを他人に打ち明けたり愚痴ったりする事があまりない。恋人である雪乃に対してすらその姿勢は変わらず、悩みや不満を抱え込み、そのうち爆弾化させて自分の中で爆発させてしまうタイプの人間だった。

 雪乃からすれば、もっと自分に甘えてほしい。彼女自身は北浜に甘えてよく仕事の不満や愚痴をもらしているが、彼はただ優しく笑ってうなずいて聞いてくれて、それはとてもありがたいし嬉しいことだが、彼にももっと自分を内面のはけ口としてほしかった。

 初めてのディレクターとして携わっているプロジェクトで何か問題が起きたのではないか……そう思った雪乃だったが、それをストレートに言うのは憚られた。結局、それから他愛もない近況を報告しあって電話は終わった。

 通話時間五分二十六秒と表示されたスマホの画面を見つめて、雪乃は無性に彼に逢いたくなった。もう何ヶ月も逢っていないのだ。明日は土曜日。バルバロッサでは土日の出勤は許可制になっているが、座名の方針で繁忙期でもとにかく土日はきちんと休むように言われる。それは社内オリジナル案件の『ヴァルキリー・エンカウント』に限っては、それで仕事が遅れても責めないという徹底ぶりだった。

 さすがにここ数週はバトルの仕様変更もあって雪乃も新能も土曜日は出勤を希望し、佐井や明日勅に沙羅田、さらには座名も拝道も出勤していた。座名は、「スタッフに仕事を強いているのに自分が休むのは道理に反する」という主義らしく、自分の要望対応のために土日に出勤するスタッフがいる場合は必ず自分も出勤してくる。

 だが、バトルの仕様書作成もひとまず落ち着き、今は仕様変更要望の実装待ちの状態だ。やがてそれから新たな修正や要望を出したり、データ調整やブラッシュアップ、それにデバッグの準備に作業の方向性が変わってくるだろうが、プランナーの仕事は一旦山場を超えたと言えた。拝道も、「この土日は細かいことはいいので休んでくださいね」と新能と雪乃に声をかけてくれている。

 明日は出勤の必要はないとなれば、思い来って東京へ行こうか……。翔さんに会いに……。


 疲れているという恋人に何かできないか。こういう時、もっと母親にきちんと料理を習っておけばよかったと雪乃は思う。彼女の興味はスポーツや勉学、読書、それにゲームと偏りが大きく、家事全般は母親を手伝うレベルがせいぜいで、特に料理の腕前は壊滅的と言ってよかった。自分から上達しようとも思わないままに今まで来てしまったが、社会人の恋人同士なのに、彼氏に手料理の一つも振舞えないというのでは、彼女としてあまりにも情けない。でもパンケーキなら、と雪乃は唯一の自分の得意料理――と呼べるべきものかどうかはさておき――を思い浮かべた。以前作った時にはおいしいおいしいといって喜んで食べてくれた。

 北浜が淹れてくれた紅茶。雪乃の作ったパンケーキに色とりどりの高級自然ジャムに生クリームを沿えて食べながら、とめどない会話をして、その後は二人でボードゲームを楽しんだ。あの時の柔らかくて暖かくて、ささやかだが間違いなく幸福と呼べる時間を、また彼と過ごしたい。雪乃は明日の朝すぐに東京へ戻ることを決意しながら自席へと戻った。あと少しがんばろう。意欲が背筋とキーボードを叩く音に反映され、新能がふと雪乃を見たが、何も言わずに自分の仕事を再開した。


 翌日の土曜日。雪乃は朝早く起きて新大阪駅へと向かって新幹線に乗ると、東京へ向かった。久々に恋人に会えるかと思うと、気分が高揚するのと、顔がにやけてくるのはどうしようもない。北浜にあからじめ知らせておこうと思ったが、彼は今日も出勤しており、気を遣わせそうなので止めた。あくまで用事があって東京へ戻ったことにして、マンションに帰ってからパンケーキを焼いて、それを持って夕方にでも会社に顔を出して、今晩空いているかを確認するつもりだった。北浜にもらったキンドルで読書をしながら、時折新幹線の窓から見える風景を見ては、東京を離れてからのここ三ヶ月の出来事を振り返っているうちに、雪乃はいつの間にか眠りに落ちた。


 東京にお昼前に着くと、雪乃は食材を買って自分のマンションへ戻り、懐かしさに浸るよりも早くパンケーキを焼き始めた。

 翔さんは甘いものも好きで、特にブルーベリージャムと生クリームで食べるのがお気に入りだったなと、恋人の喜ぶ顔を思い浮かべながら調理を進めるのは、久しぶりに幸福を感じさせてくれる時間だった。

 夕刻になって会社を訪れた雪乃は、会う人ごとに挨拶を交わすハメになったが、三ヶ月ぶりに見る自分の職場と、バルバロッサとの空気の違いを感じずにはいられなかった。空気が重い。それに泊まり込みの人が多いせいだろうか、どこか臭う。オフィス全体も、散らかっているというよりも、どこか小汚いという形容の方が似つかわしい。三ヶ月前には気づかなかったことだった。自分もその渦中にいたので、気づけなかったという方が正しいのかもしれない。これからはマメに掃除をしなければと思いながら、床に落ちていたコンビニ袋を拾ってゴミ箱に捨てた雪乃に未沙が驚きの表情で話しかけてきた。


「雪乃ちゃんじゃん! どうしたのー!」


 未沙が笑顔で抱きついてきた。この人は変わらないと思いながら、仕事が一段落着いたので、北浜に会いに来たのだと耳元でささやいた。


「あー……。なるほどね……」


 未沙の表情が曇った。


「雪乃ちゃん、あのね……」


 そう未沙が小声で告げた時、


「あ! 早見さんじゃないですかー!」


 初台絵里香が弾んだ声で近寄ってくるのが見えた。すかさず未沙はそこで口をつぐんで一歩下がる。休日出勤を忌避する初台が土曜日に会社にいるのは珍しいなと雪乃は思った。


「何? どしたんですかー? 大阪への出向ってもう終わったんでしたっけ?」

「いえ、まだなの。今日は、マンションのことでちょっと戻らなければならないことがあって。そのついで会社にも顔を出しておこうかなって」


 雪乃は咄嗟に嘘を口にした。


「あー、そうなんだー。北浜さんには会ったんですかー?」

「いいえ」


 事実だけを口にする。初台は雪乃と北浜がつきあっていることを知らないはずだがと思いながら、彼女の表情に、どこかいつも以上に余裕めいたものを感じさせる事が雪乃の心を少なからず波立たせる。ひょっとして矢切あたりがいらぬ口を開いたのだろうのか。


「北浜さんなら今打ち合わせ中ですよー。第二会議室」


 にこにことそう言った初台の声色も表情も、はっきりとどこか勝ち誇っているかの様なわざとらしい物言いを感じさせ、雪乃に瞬間的な嫌悪感を募らせた。


「そう、じゃあ会う機会あれば、チーフにも後で挨拶しておこうかな」


 そう言う雪乃の顔は平静を装おうとして失敗していた。だが、ふといつの間にか雪乃と初台の間に未沙が歩み出て、怖い顔で初台を睨んでいる。

 初台は出向がんばってくださいねと言って去って行った。雪乃は改めて未沙の方を向いたが、彼女の顔が今度は陰っているのが分かった。未沙は初台を嫌っているし、初台も未沙を嫌っている。


「未沙さん、初台さんと何かあったの?」

「……ううん、特に何もないよ」


 未沙はそう言って首を振り、今晩少し時間は取れるかと聞いてきた。


「今日はわからないです、彼の都合次第で」

「そっか、そのためにわざわざ帰ってきたんだもんね。うん、わかった」


 未沙はそう言ってまたねと言って去っていった。彼女が何を言いかけたのか気にはなったが、いつも思ったことは口にする未沙が控えたのだから、あまり追求するべきことではないように思える。その後、北浜はずっと会議が長引いているのか一時間経っても出てこず、結局雪乃は時間を持て余すことになるので、同僚に挨拶をしてから会社を後にして、近くのコーヒーショップで時間を潰した。その間に北浜からメールが届いた。


『今、東京に居るって?』

『うん、ちょっと翔さんに会いたくて』


 そこまで返信してから、パンケーキ焼いてきたよとメールに打っている間に、また北浜からのメールが届いた。


『今、電話いい?』

『うん、大丈夫です』


 すぐさま電話がかかってきて、雪乃は店を出て電話に出たが、パンケーキを焼いてきたことを告げる前に、北浜は焦りの声色を出した。


「初台さんから何か言われた?」

「初台さん? 会ったけど」


 会ったけど挨拶以外何も言われてないと言いかけた雪乃だったが、途中で北浜は割り込んできた。


「雪乃、今どこ? 会って話をしたい」

「えっ、今は会社近くのサンバックスコーヒーだけど」


 今会社を抜けて大丈夫なのかと言いかけた雪乃を制して北浜は畳みかけるように続けた。


「十分待ってて。すぐに行くから」


 電話は切れた。雪乃の胸に、言い様の無い不安が急速に言語化されつつあった。

 翔さんと初台さんとの間に何かあった……?

 以前から、初台は北浜に気があるらしく、露骨なアピールを繰り返していたが、北浜はあくまで事務的に同僚としてうまくあしらっていた。北浜と雪乃の関係も公にはなっていないが、初台が一方的に雪乃をライバル視している様子なのは雪乃自身悟っていた。

 だからといって、雪乃本人に何かをしてくるというわけでもなく、少なくとも表面上はそれなりに友好的な態度で接してくる。なので雪乃自身は初台に対する負の感情はこれまではさほど持ち合わせてはいなかったが、もし彼女が北浜を落とすために、その敵対勢力たる雪乃を明確に敵視して、今日の様な態度で来られたらそのベクトルは変わらざるをえないだろう。

 だとすれば、初台は私たちの事を知って、北浜に何か言ったのだろうか……。

 北浜の元気の無さと、初台の態度とに漂う関連性に、明確な意味を見いだせないまま席で悶々としていると、北浜が息を切らせて雪乃のところまでやってきた。雪乃はまだ口をつけていなかった卓上の水の入ったコップを北浜に差し出すと、彼は一気に飲み干してからゆっくりと対面の席に座った。


「……どうしたの、翔さん。何だか元気がないし焦っているみたい」


 その雪乃の言葉は北浜にとっては意外だったようで、え、と驚愕の表情をした。


「ええと、その、初台さんから何か言われてない?」

「初台さん? ええ、会社で会ったけど挨拶したくらい」

「そうか……」


 瞬間、北浜が安堵したのがはっきりと読み取れた。同時に、雪乃の心に言語化された不安が実態を伴ってくるのが分かる。


「翔さん、初台さんと何かあったの?」


 北浜は答えない。ただじっと雪乃の目を見つめている。二人の間に沈黙の帳が降りてきた。やがてため息を一つついた北浜が口を開く。


「僕のマンションで話そう」


 初台の雪乃に対する態度。未沙の初台に対する態度。そして北浜の焦燥した行動。これらをすべて線で繋ぐことができるとすれば、答えは一つしか無い。だが、未だに雪乃はまさかという思いだけが頭を巡る。ラブコメみたいな早とちりや思い込みは避けるべきだ。雪乃は答えた。


「うん、わかった」

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