(五)告白
結局、翌週月曜日になっても恋人がいる事を佐井にそれとなく伝えるタイミングを逸したまま、その日の仕事を終えて退社し、駅前の道を歩いていた雪乃は、突如現れた佐井に面くらった。佐井は先に退社したはずだ。
「あ、あの、早見さん」
佐井は緊張した面持ちで、雪乃に歩み寄ってきた。
「突然、ごめん。ちょ、ちょっといいですか?」
「は、はい、何でしょうか。仕様の事で何か……?」
何気ない風を装って仕事の方に話を持っていこうとした雪乃だったが、心理的に身構えざるを得ない。
「いや、仕事の事じゃないんです。ここじゃ何だから、その辺の喫茶店につきあってくれませんか」
一瞬、理由をつけて断ることを考えた雪乃だったが、ここはもう肚をくくって佐井の感情に対して、決着をはっきりとつけておいた方がいいのではないかと考え始めた。長らく体育会で育ってきたせいもあるのか、雪乃はある程度まで感情を引っ込める面はあるが、ここは退いてはいけないと感じた場面では、面倒ごとでも出たとこ勝負でなるようになれと正面から挑んでいく気質があった。
「わかりました」
精一杯の演技でそう答えた。わかりました、というのはちょっと堅すぎたかなとも思ったが、佐井はほっとした表情になって雪乃を促して歩き始めた。近くのコーヒー専門店に入り、店の奥の人目につかない席に二人は座って、佐井は雪乃の分もオーダーを聞いて、カウンターまで行ってくれた。その動きには堅さがあるものの、表情は明るくて「浮き足立っている」という形容が似つかわしい。それが却って雪乃の胸を暗くする。
佐井の事は嫌いではない。アプローチは確かに過剰なところはあるが、言動は誠実で真摯だった。大学時代の男性の知人は勿論、オストマルクでも何かと彼女の肩や手に触れようとする様なスタッフがいた。それに比べれば佐井はぎこちなくても一生懸命コミュニケーションをとろうとしてくれていることが分かる。だが、自分には恋人が、北浜翔がいるし、佐井を異性として見ることはできない。この点ははっきりとさせなければ、佐井に対しても礼を失すると決意を新たにした。
そういえば、もう三ヶ月も北浜と会ってない。北浜は体感型テニスゲームの開発が終わり、新たなプロジェクトに投入されていた。しかも、紺塔の下ではなく、独立したディレクターとして、である。プロジェクトの立ち上げやら何やらで多忙になり、自然、メールや電話の頻度も減った。彼が大阪へ遊びに来る日を雪乃はそわそわと楽しみにしていたのだが、結局仕事に追われてその予定は未だに立っていなかった。
雪乃は週末に北浜に会いにいこうかとも考えたが、仕事で疲れている彼に負担をかけたくなくて思いとどまっている。雪乃はため息をついたが、笑顔でコーヒーを二つ抱えて戻ってくる佐井の姿を見て、気持ちを引き締め直した。
佐井はコーヒーを雪乃の前に丁寧に置くと、まだ緊張の面持ちで対面に座る。
「それで、お話って……」
「う、うん。ええと、つまり、その、あの」
佐井は口ごもって、コーヒーに口をつけた。雪乃は話を急かすべきではないと思い、そのまま沈黙を保つ。
「早見さん、その、僕は、こういうことに慣れてないから、何というか、あまり上手には言えないんだけど」
「はい」
相づちだけを打って、続きの言葉を待つ。
「その、だから……、僕は、僕は」
佐井が下を向いた。緊張感が空気を通して雪乃にも伝わってきて、思わず身を固くする。
「僕は……早見さんが好きです。僕とおつきあいをしてもらえませんか」
はっきりと顔を上げ雪乃の目を見て、佐井は言った。
ああ……、と雪乃は思わず心の中で天を仰いだ。できれば、言葉にはしてほくないことだった。
「と、突然で驚かれるかもしれないけど、あまり知り合って間がないけど、僕は、早見さんはきれいなだけじゃなくて、気が利くところとか他人への気配りができるところに惹かれて、だ、だから……」
佐井はまだ勢い余ってという体で、雪乃への好意の念を言語化し続けている。飾りも何もないその様は、雪乃の胸に響いた。一生懸命好意を伝えてくれているのだ。
「どう、かな? あ、勿論返事は今すぐというわけじゃ……」
雪乃は、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
頭を下げたままそう言ってから顔を上げ、佐井を見つめた。
「私、東京で、おつきあいをしている人がいるんです。だから、佐井さんのお気持ちには応えられません」
静かに、柔らかく言ったつもりだが、自分の声が佐井にどう届いているか、雪乃には知る術がない。佐井は一瞬口を開きかけたが、すぐにうなだれてそうですか、そうですよねと呟いた。
「早見さんみたいに素敵な人に恋人がいないわけはありませんよね……」
こういう時に、何と言葉を返したら良いかが雪乃にはまだ分からない。ただ、佐井は誠意を以て自分に告白をしてくれた。それを受ける、受けないは置いておいて、自分への好意をはっきりと口にしてくれた相手に対して、自分も一人の女として誠意を以て対応しなければならない……。
「お気持ちは、本当に嬉しいです」
そこから佐井に対して雪乃が感じている長所を述べようとしたが、思いとどまった。また思わせぶりな言葉を告げるのは彼に対して卑怯だと思った。
「お仕事ではいつも助けていただいていますし、これからも良き同僚として頼りにさせていただきたいと思っています……」
当たり障りのない、だが本音を雪乃が口にすると、佐井は苦笑しながらそれはもちろんですと答えた。
その後、互いに無言の時が続いた。空気の重さを雪乃は感じていたが、それに耐えているのは恐らく佐井の方ではないかと何度もコーヒーカップに口を当てた。
「いきましょうか」
佐井が立ち上がった。雪乃もはいと返事をして席を立った。店の前で別れ際に、佐井は雪乃に深々と頭を下げた。
「……お時間を取らせて、その、ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした。その、最近自分は暴走気味だったというか……」
雪乃は首を振り、これからもよろしくお願いしますと言って頭を下げた。こちらこそ、それでは失礼しますといって新大阪駅に向かって歩き出した佐井の背中は丸まっていたが、すぐにハッとしたように真っ直ぐになった。いささか早歩きで駅前の人混みの中へ混じっていく。その背中に、雪乃は再び頭を下げた。自分のマンションへの道を辿りながら、北浜の声が聞きたくて電話をかけたが、彼が出ることはなかった。
雪乃には一つの懸念があった。佐井との仕事における関係がぎくしゃくしたらどうしようかという点である。事実、大学やオストマルクでは、告白を断った時は元より、デートやプレゼントをお断りしても、途端に彼女への当たり方をキツクする男がいたりしたものだった。
だが、佐井は翌日は休むかもしれないと思った雪乃の予想は外れ、彼は普段通り出勤してきて、接する態度も変わらなかった。過剰な接触は無くなり、何も起きていない体でひたすら仕事に打ちこんでいるように見えるが、表情に陰りがあるのは気のせいではないだろう。佐井が無理をして普段通りにふるまっていてくれることに雪乃は感謝し、その分自分も仕事に集中した。
「早見さん、ちょっとええですやろか」
数日後、リードプランナーの拝道が話しかけてきたのは終業間際の事だった。
「えっ、はい、何でしょうか」
「ちょっと打ち合わせええですやろか? 小会議室で」
何だろうかと思いつつ、拝道に従って会議室に向かった雪乃だったが、席に座って拝道が開口一番、
「ウチの佐井が、ご迷惑をおかけしてるんやないでしょうか?」
と口火を切ったので面食らってしまった。
「それは、どういう意味でしょうか?」
「ええとですね、うちのスタッフが先日、早見さんと佐井が喫茶店で深刻な面持ちで話し込んでいるの見た言うてきましてね。勿論、ただそれだけなら何の問題もありません。そやけど、そのスタッフが言うには、佐井がこのところ早見さんによう言い寄ってる、これはまずいんやないですかと、先日も早見さん、困った顔をしてはった言うもんですから」
念のため、リードプログラマーである無毛真蔵にも確認を取ったところ、確かに接触頻度は高いかと感じていたが、仕事以外の事を話している風には見えなかったので、問題として取り上げる事ではないと考えているとの答えで一安心だった。だが、他のスタッフからも同様の声が上がり、出向という立場から早見さんが苦情を言いづらいのではないかと言っていたので、一応確認させていただく次第だ……。
いつも理論的に話をする拝道の口調は、最初と比べて歯切れが悪くなっていった。あの場面を見られていたのか、面倒なことになったと雪乃は思った。
拝道は、スタッフからの「報告」を受け、問題にするほどの事ではないと考えたものの、念のため佐井の上長である無毛に確認を取り、さらにスタッフにも裏付けをとるべくヒアリングを行ったのだろう。その結果がグレーだったので迷った挙げ句、雪乃に確認を取ることにした……。
雪乃は事情をそう推察したが、どこまで話をするべきか迷った。何よりも、佐井に悪者になってほしくなかった。過剰なアプローチに辟易したのは確かだが、一貫して彼の心根には真摯さがあった。本音で言えば数日は職場に来るのも苦痛であるに違いないであろうに、雪乃に妙な気遣いをさせたくなかったのだろう、普段通りに出勤し、過剰な接触は避け、それでも仕事上で必要なやり取りに対しては、誠実にこれまで通り対応してくれているのだ。そんな彼の心に対して、自分は被害者ぶることで対応してはならない。であれば、事実をはっきりと伝え、佐井には会社から非難されるべき事は何もない事を自分の口から告げておくべきだ。
「率直に事実だけを述べさせていただきます。確かに、佐井さんから交際の申し込みをいただきました。それに対して、私は東京におつきあいをさせていただいている人がいるので、そのことを伝えてお断りさせていただきました」
それから雪乃は、佐井のアプローチは終始紳士的であったこと、告白にしても会社内ではなく退社後の社外で行ったことを告げ、総合的に佐井に非難されるべき行動は無かった様に思うと、自分の考えを述べた。
拝道は、それを聞いてほっとしたようだった。
「それを聞いて、少し安心しましたわ。ただ、職場の空気に悪影響を与えたのは確かですから、上司である無毛から軽く口頭で注意はしておくこととします。早見さんにも余計な気を遣わせることとなってしまいまして申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げた拝道に対して雪乃も慌てて頭を下げた。そして重ねて、佐井に対して負の感情は持っておらず、むしろプログラマーとして頼りにしていることを告げた。
「そう言っていただけると……。あいつは、若いですけど腕はええんですわ。管理面のこともきちっとやってくれるし、会社としても期待している人材ですねん。今回みたいなことも初めてで。ただ、よう考えたらあいつもまだ若いですわ、そりゃ、まあ」
そこまで口にしてから、拝道ははっとして口をつぐみ、これからもよろしくお願いいたしますと言って、再び深く頭を下げた。雪乃も黙って頭を下げた。この問題はこれで終わりだ、仕事をがんばるだけだと雪乃は気持ちを切り替えた。
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