(四)好意

 翌日から、雪乃は早速コンビネーション・コマンドを軸に据えたバトルの仕様作成作業に入ると、佐井に言われた通り、まずはコンビネーション・コマンドのリストにあるものを片っ端からテキストで仕様化していった。

 使用条件や効果、それに必要な計算式、調整したいデータ項目をざっと思いつくまま書き連ねてから、佐井のところへ相談に行くと、佐井は明日勅も伴って会議室へ雪乃を誘った。そこで三人で内容を詰めて、問題点や不足している項目を指摘してもらう。サーバーエンジニアである明日勅が拘わるのは、サーバー側でどの様なデータを受け取り、また加工してクライアント側である端末側に渡すかの部分だけなので、それについての話が終わると明日勅は会議室を後にする。その後、佐井と雪乃は残りの部分についての仕様を詰めていった。

 慌ただしく一週間が過ぎていく中でとりあえず作業は順調に進行しているかのように感じられていたが、一つ、違和感を感じるようになった。佐井が、やたら二人だけでの打ち合わせを要求してくる。仕事中話しかけてくる機会も圧倒的に増え、何かにつけて、飴やらチョコレートだといったお菓子を分けてもくれる。その頻度は若干過剰に感じられ、最初は笑顔で応じていた雪乃もその表情をひきつらせざるを得なくなった。


 佐井が、自分に好意を寄せてくれている。だが、心理的には正直戸惑いが感情の九割五分を占める。無論雪乃も健全な女性であって、異性からモテないよりはモテた方が当然嬉しい。だが、自分には恋人がいるし、出向先で色恋沙汰という問題を起こしては、オストマルクにもバルバロッサにも申し訳がない。

 雪乃は高校生くらいから自分の美貌には明確に自覚があって、大学時代には有形無形の好意を様々な方向から向けられたものだが、色恋沙汰には疎いと言ってよかった。いつだって戸惑いが先行する。

 そもそも恋愛には奥手な方である。高校時代は部活漬けで、同級生や先輩、後輩からも何度か告白をされたがすべてお断りしていたし、大学時代に初めてできた彼氏とは、交際を始めた途端に性急に肉体関係を進めようとする彼と波長が合わなくなって数ヶ月で別れた。以後も程度の差はあれ似たような恋愛を二度繰り返して、雪乃の恋愛歴はいささか中途半端な記載が続いている。「雪乃、あんたちょっと隙が無さ過ぎ」と友人は苦笑しながら忠告してくれるのだが、雪乃にはその意味が今ひとつ掴めないままだった。

 オストマルクに入社してからも好意を向けられている感覚はよくあったが、やはり気持ちとしては嬉しいよりもとまどいの占める比率の方が高い。必要以上に接触を試みる男性スタッフもちらほらおり、適当に距離を取ろうとすると、今度は露骨に雪乃への仕事上での当たり方をキツクしてくるのである。そうこうしているうちに、北浜翔と出会って交際に至るわけだが、つまるところ、恋愛における上手なあしらい方なるものを、雪乃は心得ていないのである。


 新能と現在の作業状態を互いに確認する打ち合わせの際に相談しようかとも思ったが、正直言ってどのように相談したら良いのかわからず、さらに彼から仕事上での不安を呈された。


「早見さん、バトルのフローは作っておいたほうがいいな」


 フローとは、『フローチャート』の略称で、ゲーム上で必要な処理が、どの様な順序で実行されるかを、上から下へ順序立てて記載した流れ図の事である。プランナーが作成するフローは、仕様書レベルでのやりたいことが、どの様な順序で実行されていくべきかを網羅するもので、要素が多いほど分岐が増えて複雑になる。


「佐井さんが、概要で流れは分かるからって仰ってくれたんで甘えてしまって……」

「うん、でも早見さんと佐井さんだけが分かればいいってものじゃないからな」


 その新能の一言に雪乃ははっとした。


「バトルのフローとして正しい状態がどういう形なのか、それが第三者、例えばデバッガーさんたちにも分かるようにしておかないと。特に、以前のバトルとはコマンド入力の発生タイミングが複数あって仕様が大きく変わってる。どういう画面や素材、処理が必要になるのか、どこでどんなUIやメッセージを表示すべきなのか、細かく割り出すのにもフローはあったほうがいい。作れば、要素の漏れが生じる可能性は減るし、何か仕様を変更する場合も、フロー中のどのタイミングで、どこを、どう変えればいいのかもわかりやすくなる」

「……そうですね。佐井さんに甘えて、横着してしまいました。申し訳ありません」


 開発はスピードを優先しなければならない場合も勿論あるが、基本的に、プランナーは自分の担当箇所は明確に言語化しておくべきだという新能のアドバイスは、雪乃の腑に落ちた。フローを作るのが苦手だと口にすると、新能は無表情のまま言った。


「場数だよ早見さん。俺も正直フロー作成は時間がかかってしまう方で敬遠してたけど、やっぱり自分で作成しないと、複雑なゲームになるほど全容を把握しづらくなるし、そうなれば、プログラマーやデザイナー、それに上司やクライアントから仕様変更の要望が来た時に、良い、悪いの判断がやりづらくなるって経験で分かってね。それからは面倒だなって思いながらも作るようにしたら、スピードはまあともかく、作るのは苦じゃなくなった。何事も経験ということ」

「はい、今日から作ってみます」

「といっても、あんまり完璧を目指す必要はない。仕様書の書き方なんか一つとってもそうだけど、完全な書類なんて存在しないんだから。答えのない世界だよこれは」


 新能はそう言って、自分の経験からフローの画面を表示する箇所には自分で作った仮のものでもいいので画面の絵を差し挟んで画面遷移を分かりやすくした方がいいこと、一枚の大きなフローにするよりも、ある程度大きな処理のくくりでまず全体のフローを作成し、その中にある大きなくくりごとにフローを分割作成した方が、作りやすくも把握しやすくもなると思うとアドバイスをくれた。

 新能のアドバイスに雪乃ははいと答えたが、経験といえば、新能の携わったゲームにはどんなタイトルがあるのだろうかと思った。業界歴も長いはずで、開発を担当したタイトルもそれなりの数になるはずだった。


「あの、新能さん」

「ん?」

「新能さんて、今ままでどんなタイトルに関わられたんですか?」


 何気なく聞いたその疑問だったが、新能は視線を雪乃から外し、資料の紙に目を落としてから静かに言った。


「俺は業界歴は十数年でそこそこあるんだけど、関わったタイトルはそれほど多くない」


 具体的なゲームのタイトルを聞きたいと雪乃は思ったが、新能との間に再び無言の壁が生じたのを感じ取り、また佐井が質問に来たことが契機となって、話はそこで終わった。


 佐井の雪乃へのアプローチはだんだん露骨になり、職場の空気も若干変わったのを彼女は感じ取らざるを得なかった。佐井が話しかけてくるたびに、職場の空気を悪くしてしまっているのではという考えが雪乃の頭をよぎる。困り果てた雪乃は大那と鳥戸に相談した。週末の金曜日に仕事が終わってから、すでに三人そろって常連となった焼き鳥屋で始まった飲み会だったが、雪乃の相談に二人はうーんと唸った。


「佐井さん、よく雪乃ちゃんに話しかけるなあと思っててんけど、仕事上での事やからあまり気にはならへんかってん。でも最近、休憩スペースで雪乃ちゃんと佐井さんの噂が出て」


 大那によると、佐井が早見さんに惚れている様だがちょっと暴走気味に見える、出向で来た他社の人に手を出すのはちょっとまずいのではないか――。要点をまとめると、そういう話題だったという。雪乃はため息をついた。やはり第三者からもそう見えるのか。


「雪乃ちゃん、佐井さんに告白されたん?」

「それはまだなんですけど。ひょっとして私の自意識過剰? なのかなあ」

「私は、普段は開発現場にはほとんどいないから何とも言えないわ。でも、噂にもなるくらい露骨なんだったら雪乃ちゃんの自意識過剰ってことはないと思う。雪乃ちゃんが迷惑してるんだったら、まず私から拝道さんかソフト課の課長に話をしてみましょうか? ウチの会社、社長の方針でセクハラにはかなり厳しいから、うやむやにはしないと思う」


 雪乃は慌てて首を横に振った。佐井のアプローチは確かに過剰だが、セクハラに分類される類のものではないと思う。単純に、話しかけてくる回数がやたら多いこと、打ち合わせはかなりの確率で、会議室で二人だけで行おうとすること。それも仕事に必要な内容の事なので、佐井に明確な非は無いと雪乃は考えている。ただ、本来はプランナーが書面でやりたいことをまとめてから打ち合わせすべき事項も、時間の短縮のためといってすべて二人だけの打ち合わせで決めていこうとする……。


「雪乃ちゃん、美人だからなあ。ひょっとしたらこういう問題が起きるんじゃないかって、ちらっとは考えてたんだけど」


 鳥戸が焼き鳥を頬張りながら、どこかうらやましそうに言った。だが、続けてこの業界では雪乃の様な、見た目がクール系美人に対しては腰が引ける男が多く、スカートを履くような可愛らしい系の女子の方が人気が高い傾向があるので、具体的な問題が起きる可能性は低いと考えていたと教えてくれた。そうか、例えば初台みたいなタイプかと、雪乃は彼女の短いスカートを強調したファッションと、グラマラスな体つきを思い浮かべた。


「ね、思い切って、それとなく私東京に彼氏がいるんですって言うてみたら?」

「あーそれ初手としてはいいんじゃないかなあ」


 大那の提案に、鳥戸も賛同する。雪乃はちょっと考えて、頷いた。


「はい、言ってみます」

「案外、それで大人しくなってくれるかもね。恋人のいる相手から奪ってやろうってほどの気骨、佐井さんには多分ないと思うし」

「でも、雪乃ちゃんくらいの美人なら、彼氏いて当然やって考えないかなあ」


 雪乃は何だかむずがゆくなってきた。自覚はあっても、やたら美人と持ち上げられると照れくさいやら恥ずかしいやらで疲れてしまう。話を逸らしたくて、鳥戸にまだ好きな人はいないのかと尋ねてみた。


「私はまだいないなー。前にも言ったけど、今の会社では男性として見られる様な人もいないしねー。合コンにでも行くかー」


 そう言って鳥戸は豪快に生ビール中ジョッキを飲み干していく。鳥戸こそクール系美人だと、雪乃はその眼鏡の似合う知的な顔だちに見とれた。生ビールを飲み干した鳥戸は、おかわりを店員に注文してから大那の方を見てにやにやした。


「私はいないけど、楚亜ちゃんは、ねえ?」

「えっ……、楚亜さん、まさか」


 雪乃の脳裏に一瞬、新能荒也の顔がよぎった。新能と何かあったのか。脳裏にはまさかという言葉と言語化されぬ感情とが一瞬のうちに交錯して胸の鼓動が一瞬で高まる。


「う、うん……。去年別の会社からバルバロッサへ出向に来てたプログラマーの人がおってんけど、その人に先週映画に誘われてん。それで、その帰りに……」

「告白されたんだよねえ」


 鳥戸は暖かい笑顔で、言い淀んだ大那の方を見ながら後の言葉を継いだ。大那は恥ずかしそうにうつむいてから、コクンとうなずいた。


「えーっ、それでそれで? OKしたんですよね?」


 前のめりになった雪乃の問いに、大那はまた首を小さく縦に振った。わーっと雪乃は小さく拍手をして、ほっとした。あれ、なぜ今自分はほっとしたのだろう……。感情の整理を無意識に放棄したまま、大那の恋話を肴に女子会は和やかに進んだ。

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