第三章 出向

(一)大阪

 新幹線は夕方になって新大阪駅へ到着した。雪乃にとって初めての大阪である。日曜日ということもあってか、人波は確かに多いが、東京駅ほどの混雑ぶりを感じられないなと思いながら、雪乃は中央改札を出た。バルバロッサが用意してくれているというマンスリーマンションは、新大阪駅から地下鉄で一駅の所にあるらしい。だが、その前に雪乃は会社の場所を確かめておこうと駅を出た。バルバロッサは、新大阪駅近くのオフィス街にあるからだった。事前に調べていた地図を頭で思い出しながら歩いて行き、ほどとなく大きな道路の交差点の一角にあるオフィスビルに辿り着く。このビルの六階がバルバロッサである。


「あった……」


 入居している会社を示すネームプレートの一覧に、出向先である会社名があった。

 株式会社バルバロッサ。雪乃は事前に会社の概要をインターネットで調べていた。関西の老舗大手のゲーム会社である株式会社サラマンドルでディレクターやプロデューサーを努め、何本もヒット作を出したゲームクリエイター座名堂二ざなどうじが、同僚と立ち上げたゲーム開発会社。設立されてまだ六年。コンシューマで数本を受託開発した実績があり、そのうちの一本は、雪乃も知っているゲームだった。

 従業員数は五十三名。よくある中小のゲーム開発会社といっていい。開発を担当したゲームの評判は良くも悪くもといったレビューがネット上では目立った。だが、そのうちの一本は絶賛とつまらないという評価で真っ二つに別れている。看板クリエイターである座名堂二の顔は、雪乃も過去に『週刊ゲーム通信』で見ているはずなのだが、正直言って印象が薄い。

 サラマンドルは業界の大手で、発売されるタイトルのディレクターはよくゲーム雑誌やゲーム情報サイトに登場し、インパクトの強い人が多いのだが、雪乃が知る限り、座名はそういったサラマンドルのディレクターから感じられるような強いイメージがない。

 また、彼はバルバロッサを立ち上げる前の数年間、全く新作を手がけていない時期があり、そのせいで印象が薄くなっているのかもしれなかった。だが、やはり紺塔の様に現場で絶大な権力をふるっているのだろう。そうでないと、ディレクターは務まる様に思えない。

 果たしてどんな仕事を任されるのか、自分に務まるのだろうか……。

 他の会社のやり方を学ぶつもりでも、出向としてこの大阪の地に来ているのだから、バルバロッサの戦力にならなければならない。


「こんな使えないやつをよこしやがってって言われたらどうしよう……」


 雪乃はそんな不安を考えながら地下鉄に乗り、マンスリーマンションがある最寄り駅を目指した。新大阪駅からわずか一駅。ものの数分しかかからず、これならば歩いても大した距離ではないから、通勤も歩いた方が健康にはいいだろうと雪乃は思った。マンスリーマンションも駅から徒歩三分であっさりと見つかったが、駅周辺にはやたら飲食店や風俗店の看板が目立ち、夜の雑多な喧噪を想像させる。

 あらかじめ教えられていた部屋用の集合ポストの解錠ダイアル番号を入力して、中にあるカギを取り出して三〇一号室へ向かった。約六畳のワンルームマンション。テレビとベッドにローテーブル。それに簡易冷蔵庫と電磁調理器が備え付けられた簡易キッチン。洗濯機まで完備され、独立洗面台がある上にトイレとバスはセパレートになっていて雪乃は思わず歓声を上げてしまった。東京の自分が借りている賃貸マンションは、広さはさほど変わらないが、独立洗面台は無くユニットバスなのだ。全体的にきれいに掃除されており、雪乃はなんだか新居に引っ越してきた様な、新鮮な気分に浸る事ができた。

 これから四ヶ月お世話になりますと部屋に向かって頭を下げる。窓を開けると目の前には大きな道路と大型居酒屋が入っているビルが目に入る。車の騒音がけたたましい。よく見るとビルの一階はたこ焼き屋だった。そうか、大阪といえば粉ものだと雪乃は思い出して、早速食べたくなってきた。周囲にはスーパーマーケットもコンビニも郵便局もある。とりあえず、すぐに必要となる入浴用のシャンプーやボディソープ、洗濯用洗剤、歯ブラシ等生活用品を買いに出かけ、最後にマンション前のたこ焼きを買うころには、雪乃はどことなく大阪の空気が気に入り始めていた。雑然としているのに、それが活気に繋がっているような不思議な空気がある。車が奏でる喧噪も、関西弁まるだしの通りの人々の会話も、どこかエネルギーに満ちている様に感じられるのだった。


「おいしい……!」


 テレビを見ながら、ビールにたこ焼きを晩ご飯にした雪乃はそのおいしさに舌を巻いた。ただのたこ焼きなのだが、やたら大きくて、衣部分にもよくダシが効いてる。入っているタコも、東京で食べた記憶のものよりも大きく、どかんと存在感があった。


「うーん、はまっちゃいそう」


 お店にはソースの他に、しょうゆ味やゆず味、チーズ乗せというトッピングもあった。食べ終わるころには明日はチーズを食べようと楽しみにしながら、スマホを取り出して北浜に電話をしようと思ったが、もう深夜であることを考えて、メールを打つことにした。無事にマンションに着いたこと、部屋はきれいで、仮の宿としては充分すぎるほどであること、会社の場所を確認したこと、大阪のたこ焼きがとてもおいしいことをつづった。

『翔さんがこっちに来てくれた時には、絶対食べて欲しいな。本当においしいんだから』

 恋人の顔を思い浮かべながら文字を入力していくうちに、彼が傍にいないことと、逢いたくてもすぐに逢えない距離になってしまったことを思い出して、雪乃はスマホの画面に目を瞑って額をつけた。送信後、ほどなくスマホが震えて北浜からの返信を伝えてくれる。

『それは楽しみ! アミューズメントパークのグローバル・スタジオ・ジャパンにも行きたい。案内よろしく!』

 そこから数行の改行があってから、『無事に着いて良かった。雪乃の幸運と健康をいつも祈っています』――。

 その一文を見て顔がゆるむのを自覚しながらまたたこ焼きを頬張る。東京であれば、いつでも逢えることの有り難みをなおさら痛感しながら、雪乃は思い出した様にカバンから写真立てを取り出した。中では、雪乃と北浜が腕を組んでいる。付き合って三ヶ月目に、人気のテーマパークである千葉オリエンタルランドでデートした時のものだった。

 まだ照れ臭さが先に立っているころで、二人ともはにかんだ表情が印象的だった。互いに遠慮がちで、ぎこちなさが漂っていたことを思い出す。北浜はやや過剰なほど雪乃の疲れとトイレを気にしてくれていた。あれからの日々、二人の距離は確実に縮まって、確実に恋人と呼び合えるほどにはなった。だが、互いにどこかまだ遠慮気味な間合いを残している様にも感じる。

 雪乃が北浜に対して感じる距離感と、北浜が感じているそれとは恐らくあまり差がないであろう。もっと互いの感情や情熱をストレートにぶつけあってもよいのではないかと思えるが、その距離感が何から来ているのかが雪乃には分からなかった。いっそ身体を重ねてしまえば、そういったある種の壁を取り払えるのだろうか。北浜が自分を求めてこないのは、彼に目指すべきポジションがあり、そのポジションに着くまでは一線を越えないという彼のストイックな性格からくるものであるとは思うが、雪乃としてはいささか寂しさを覚える。

 だが、性急に身体を求めてきた大学時代の恋人や、友人の性に対する奔放さにとまどいを感じる雪乃にとって、北浜との関係は、どこか心と心の結びつきを感じさせてくれるものだった。もちろん、彼を思って身体が焦れる夜もあるが、それはきっと、いつか訪れるその時に、歓びとなって花開くのだと雪乃は信じている。写真立ての恋人に、そっと唇を寄せて目を閉じながら彼の声を思い出していくうちに、夜は更けていった。


 祝日の月曜日にまた買い物と付近の散策を済ませて夕方にマンションに戻ってくるころには、雪乃は大阪という土地をもうすっかりと気に入り、明日からの出向に備えて英気を養うことができた。仕事の事は当然まだ気が重い点があるが、それよりも気にかかるのは新能荒也の事であった。彼もこのマンションに住むはずと思っていたが、一向に現れる気配が無い。

 これまで会話はおろか、対面した事すら無いので事前にあいさつくらいは交わしておいた方がよいのではないかと雪乃は思ったが、肝心の新能が姿を見せる気配が無い。これは、事前にどうなっているのか確認しておいた方がいいと思い、雪乃はノートパソコン開いてメーラーを立ち上げると、田無に宛ててメールを送った。簡潔に、明日からバルバロッサへ出社するが、新能とまだ逢っていない。事前にあいさつくらいはしておきたいのだが、連絡先はわかるだろうかということをまとめた。

 祝日だから返信があるかどうか、いささか不安だったが、しばらく経ってから返信があった。田無によると、新能は大阪に親戚がおり、そこに世話になるのでマンスリーマンションの用意を断ったとのことだった。


「だったら予めそう教えてくれればいいのに……」


 そう独りごちた雪乃だったが、あの新能とこのマンションで顔を合わせる可能性が無いことに安堵感が漂ってほっとしてしまった。直接言葉を交わしたことは無くとも、新能はやはりとっつきづらい印象が強くて、あの鋭い眼光にはやはり距離を置きたくなってしまう。会社から帰る方向まで同じということになれば、それこそ気が休まる暇が無くなるのではないかと危惧していただけに、想定外の幸運と言えた。


 雪乃は明日の出社準備を整えてからお風呂に入って、長い黒髪をドライヤーで乾かしてから、スマホを取り出して、今流行のスマホで遊ぶRPGをプレイし始めた。明日から携わるであろう案件は、スマホでプレイするRPGと聞いている。ここ数年で、爆発的に売り上げを伸ばして急成長している携帯電話のゲーム市場ではあったが、いわゆるスマホが登場してから、携帯電話のブラウザゲームとは違った、家庭用ゲーム機器を思わせるタイトルが増え出してきた。だが、雪乃は携帯電話やスマホでのゲームには、今のところあまり魅力を感じていない。だが仕事で関わるとなると、とりあえず流行り物は抑えておかなければならない。チュートリアルくらいまで進めてみようとしたが、明日からの仕事に対する不安がぐるぐると頭を回って集中できなかった。

 初めての出向で、どんな仕事を任されるのだろう……。

 新能荒也とは、どんなプランナーなのだろう……。

 バルバロッサとはどんな会社なのだろう……。

 そんなことばかりが頭に浮かんで、どうにもゲームに集中できず、結局雪乃はゲームをやめてスマホを充電器にセットすると、電気を消してベッドに入りこんだ。まだ身体を重ねたことはないのに、容易に想像できる北浜の身体の温もりを思いながら目を閉じると、いつしか雪乃は安らかな眠りに落ちていった。

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