(七)出向命令

「出向と言われましても……」

「うん、潮見さんの繋がりでね。大阪の中堅どころの開発会社でバルバロッサってとこなんだけど、今スマホでのRPGを開発中でプランナーが足りないんだって。それで出向してくれるプランナーを探しているそうなんだよ。大阪ではなかなか当てはまる人材がいないみたいでね。潮見さんのツテでウチに話がきたってわけ。ほら、ウチは『アンバランスヒーロー』が終わってちょうど人が空くしね」

「あの、私、来週からまた二日の予定で、代休を消化する予定になっているんですが」

「あー、あー、そうだね、でも他に適切な人がいなくてね。悪いんだけど来週から頼まれてくれるかな」


 これはやはり秘書兼アシスタントの話を断った事に対する言うなれば報復というものであろうか。雪乃は背中に冷たい悪寒が走るのを感じた。ここで自分が頑なに嫌だと言ったらこの先どうなるのだろうかと考えると、暗澹あんたんたる思いが広がる。出向となれば業務命令であり、断ると今後もっと面倒くさいことになるのではないかという危惧を感じた。それでも不安が先に立ってしまう。


「私、大阪でどんな仕事を任されるんでしょうか」

「さあ、そこまでは分からないんだよ、まあ早見さんならUIもステージもイベントもキャラクターも一通り経験しているし適任だと思ってね」


 断り切れるものではないという感覚が雪乃の中で芽生えつつあった。それにしても、週明けからとは随分と急すぎる話である。


「期間はどれくらいになるんでしょうか? その間の住まいは?」

「うん、期間は四ヶ月。住まいは先方がマンスリーマンションを借り上げてくれてるらしいから。詳しいことはこれに」


 田無は紙ペラを雪乃に渡した。四ヶ月も。北浜ともしばらく会えなくなってしまう……。


「……わかりました。行ってきます」


 雪乃は内心でため息をつきながら答えた。自分は会社員である。業務命令にはよほど理不尽なものでなければ従わなければならないと考えざるを得なかった。

 田無は詳細はまたメールでも送ると言ってから、一言付け加えた。


「あ、出向は早見さんと新能さんの二人で行ってもらうことになってるから」


 最早何を言う気にもなれず、オフィスを出てから雪乃は力なく壁にもたれて天を仰ぎ、出向の詳細が書かれた紙で顔を隠すと、かすかに肩を振るわせた。


 普段は就業時間中に私用メールなどしない雪乃だったが、今回は場合が場合だと思い、スマホで北浜にメールを送ろうと思った。だが、そのためにトイレに入ってから、ひょっとしたら雪乃の急な出向を知った北浜が田無の所へ談判に向かうかもしれないと危惧して、「今晩逢えますか」とだけ送った。ほどなく「もちろん。明日から休めるね」という返事が返ってきた。やはりまだ、北浜は企画課のチーフでありながら、雪乃の出向の事を知らないのだ。今日まで自分がやった作業内容についてまとめて引き継ぎの準備をしながら、雪乃は自分が出向対象に決まるまでの水面下での経緯を思うと気が重くなった。

 あの新能荒也と二人で大阪へ出向など、どう考えてもやっかい者と言う事を聞かない者とを出向という体で、見せしめよろしくまとめて会社から放り出した様にしか感じられない。お昼休みに伊坂未沙と外でランチを食べている時にその事を話すと、彼女は絶句した。


「……信じらんない。こないだUBH終わったばっかじゃん。代休も消化しきれていないし」

「うん。でもしょうがないです」

「北浜さんともしばらく逢えなくなっちゃうじゃん……」


 雪乃は苦笑するほかなかった。北浜には今夜二人で逢う時に伝えるつもりでいるが、最低四ヶ月は遠距離恋愛になるわけで、寂しさが募るのはどうしようもなかった。


「北浜さんには伝えたの?」

「まだです。今晩、逢う約束をしてるからそこで伝えるつもり」


 未沙は背もたれに背を預けて、ランチに付いているミックスジュースをズズズと音を立てて飲み込んだ。


「あーあ。私、この会社ちょっと嫌になってきちゃったなー」

「えっ……」

「だってさ、理不尽な残業多いし、雪乃ちゃんみたいにがんばってる人がエライさんの意向に従わなかったからって理不尽な扱いされるしさ。なんか聞いただけでヤル気なくしちゃうよ」


 そういえば未沙がオストマルクを志望した動機を聞いた事が無かったなと雪乃は気づいて、何気なく尋ねてみた。


「私? うーん、前の会社って四年努めても全っ然お給料あがんなくてねー。上司と談判してもだめだったから。で、エイヤって勢いでやめちゃって。次を決めずにそんなことしちゃったからもう必死で就職先を探してね、最初に拾ってくれたのがココだったわけ。お給料は確かにちょっと上がったけれど……」


 最初に勤めた会社は、給料は確かに安かったが、最初のうちの仕事は楽しかったと未沙は遠い目をした。


「何も知らないことだらけだったけれど、それだけ必死だったし。自分の描いたキャラがテレビ画面に映って動くだけで嬉しくて。そのうち3Dも自分で勉強して認められて。知識や経験は積み上げてこられたって自負はあるんだけど、同時に何かこう、ゲームを作ることがほんと、何ていうのかな、仕事っていうか、作業になってきた気はする……」


 視線を落として、掌でミックスジュースのグラスをくるくると回した未沙を見て、雪乃はどこか同じ思いを抱いている自分を感じた。だが、まだ自分は未沙ほど明確な言葉にはできないとも思った。何せまだこの仕事を始めて二年目に入ったばかりなのだ。これで一人前と思ったら大間違いだなと雪乃は自戒する。

 だが同時に、オストマルクの仕事の進め方に、どこか違和感を感じていることは間違い無かった。他の会社ではどうなのか……。そう考えると、今回のバルバロッサへの出向の話は、他社の開発進行方法を知る上で、良い勉強の機会になるかもしれないと思えた。


「私、今回の出向で、他の会社のやり方っていうのを勉強してこようと思います」


 そうだね、いい機会だねと言いながらも、未沙は今回の出向案件について、他社のスタッフの力が必要な時点でプロジェクトの状況はお察しくださいという状況にあるはずだ、心づもりはしていった方がいいと言った。

 それは正確な洞察と言えた。しかも、同行者はあの新能荒也なのだ……。

 再び気落ちした雪乃を見て未沙は慌てて頭を下げた。余計な一言を付け加えるのが自分の悪い癖だと言って、雪乃にケーキをごちそうしてくれた。実直で素直で、何を口にするべきかという点で他人に気遣いができるのがこの未沙という人間の好きなところだった。雪乃は再び、どうせ出向するならば、自分はありとあらゆることを吸収してみせるぞと決意するのだった。


 夜に北浜と二人で食事をする時には、彼はもう雪乃の出向の事を知っていた。いつも二人で利用するイタリアンレストランでの食事が始まってすぐに、北浜は人選について本来は新能と雪乃の同期である稲毛寛太に決まっていたはずなのだと言った。


「それが急に雪乃に決まったってことは、やっぱり上の意向が働いたんだろうな……」


 北浜の表情がきつくなったのを見て、雪乃は内心慌ててなだめた。自分のために彼の会社でのポジションが危うくなるなど、あってはならない事だった。


「偶然かも。稲毛君も体が丈夫な方じゃないし」


 稲毛は喘息持ちで、発作が起きると会社を休まざるをえない。だが北浜は、稲毛自身に出向の意思を確認した時に、是非行かせてほしいという意思を確認したのだと言った。


「何より心配なのは、あの新能さんと一緒ってとこだよ」


 北浜はため息をついた。彼自身も新能とはあまり会話を交わしたことがないが、どことなく冷淡な態度を取られたという。打ち解ける気が無いとしか思えないような振る舞いが目につくので、課長補佐である田無も困っている。それに矢切によると、過去に職場で暴力事件を起こしているというではないか。雪乃がそんな暴力事件に巻き込まれるのが心配なのだということを遠回しに告げた。


「その話は私も聞いたけど、でも、潮見さんの話ぶりからすると深い事情があったみたいだし」

「潮見さんが? 何て?」

「詳しくは教えてもらえなかったの。自分の口からは言えないって。ただ、矢切さんにも適当なことを言いふらさないでって言い含めていたから、一方的に新能さんに非があったみたいな話じゃなさそう」

「どんな事情があるにせよ、職場で暴力を振るうなんて最低だよ。そうだろう?」


 雪乃は頷いた。何かの時に感情に任せて他人に暴力を振るう様な人間は、結局人生の、肝心要のところで失敗をやらかすという高校時代のテニス部顧問の教えを思い出す。


「でもせっかくの機会だから、他の会社ではどう開発を進めるのか……それをしっかりと勉強してくるつもりです」

「うん、僕もオストマルク以外の仕事の進め方って話でしか知らないからなあ。自分なりのやり方でここまでやってきたけれど、他社のやり方は確かに気になる。僕にもレクチャーしてくれよ」


 出向が決まった時は、事情の推測もあって後ろ向きな気分にならざるをえなかったが、プランナーとして他の開発会社のやり方を学べるまたとない機会だ。その事でようやく出向にも前向きになることができたと北浜に告げた雪乃だったが、しばらく逢えなくなるねと呟くと、北浜は席を立って上半身を屈め、うつむいた雪乃の額に自分の額を優しくくっつけた。暗い照明で雰囲気を出している店の奥で、窓際の目立たない席。客も木曜日ということもあってまばらで、大きな柱が他の客の視線を遮ってくれているからか、北浜は思いの外大胆に、雪乃への愛情を行動で示した。


「メールするよ。電話も。毎日は無理だけど」

「翔さんも忙しいでしょう。いいよ、そんなの。ただたまにでいいから電話をくれるとうれしいな……」

「今のラインもあと一ヶ月で落ち着く。そしたら会いに行くよ、大阪まで」

「うん。おいしいものが食べられるところ、探しておくね」


 額に恋人の体温と優しい吐息を感じながら、雪乃は目を閉じたままで自らもそっと腰を浮かせた。自然に二人の唇は重なり合った。



 一月の仕事始めとなった四日から六日までは通常通りの勤務となったが、週明けからもう大阪に行かなければならない。幸い、週明け月曜日は祝日だが、雪乃はもう日曜日には大阪へ行こうと考え、土曜日はその準備に追われた。

 大学の卒業旅行に使って以来出番の無かった旅行用のトランクを引っ張り出し、一週間分の着替えに最低限必要な生活用品、それにノートパソコンといった私物を詰めこみ、土曜日に何とか荷造りを終えると、雪乃は日曜日の昼には大阪へ向かうべく東京駅へと向かった。幸い新幹線の席には余裕があり、雪乃は総務課から渡されていたチケットを予定時刻の新幹線の指定席に引き替えることができた。ホームの乗車口でぼんやりと立って新幹線を待っていると、ぽんと肩を叩かれる。振り向くと、恋人の照れくさそうな笑顔がそこにあった。


「翔さん!」


 プロジェクトが追い込み期で日曜日も出勤しているので来られるかどうかわからないと言っていたのに、やっぱり来てくれたのだ。


「ちょっと時間が空いたから。これ、荷物になって悪いけど」


 北浜がそう言って差し出したのは、大型電気店の紙袋だった。

「これは……?」

「電子書籍リーダーのキンドル」

「えっ……」

「大阪へは本を持っていけないし、買うのも後の事を考えると大変だろう? これがあれば便利だと思う」


 その通りだった。雪乃は本が好きで、外出の時は必ずカバンに何らかの本を忍ばせている。だが、今回の大阪への出向は四ヶ月の予定であることを考えると、荷物になる本は持って行くわけにはいかないと思っていたし、大阪でも後先考えずに本を買うわけにはいくまいと思っていた。


「でも、こんな高い物もらえない……」

「いいから。大体、僕の誕生日に電子辞書なんて高価なものをくれたのは誰だい?」


 新幹線が入構してきて、騒音と風がホームを包み、雪乃の長い黒髪がばさばさと乱れる。恋人の優しい眼差しを見て、雪乃は素直にキンドルを受け取り、胸に抱いた。


「ありがとう。大事にする」


 新幹線の扉が開き、並んでいた客が乗りこみ始めた。雪乃もカバンを手にして後に続く準備を始める。不意に雪乃はそのまま顔だけを北浜に近づけて、その頬に軽く唇を触れさせた。


「行ってくるね」


 北浜は一度だけそっと彼女を抱き寄せてから身を離して片手をそっと振った。雪乃は列車に乗って席に着いてからも、窓越しに北浜と言葉も無くただ見つめ合っていた。やがて発車時刻になり、新幹線が動き出しても北浜はその場から動かず、そのまま雪乃を目を見つめ続けた。ただ口元が「がんばれ」と動いたのが見えた。雪乃は北浜が見えなくなった後も、窓の同じ箇所を見つめ続けた。

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