(六)秘書

 翌週の月曜日。マスターROMの提出を終えた今となっては、オフィスにもどことなく開放感がある。スタッフによってはまだ消化しきれていない代休を取っている人もいた。雪乃自身も未消化の代休が溜まっており、プランナー同士で代休を取得する予定を調整することになっている。ところが、雪乃は始業と共に田無に呼び出された。田無のいるオフィスではなく、会議室にである。

 指定の会議室に赴くと、田無は相変わらず目が笑ってない疲労した笑顔で椅子を勧めてくれ、一通り今回のプロジェクトでの雪乃の働きを労ってくれた。


「紺塔さんが、早見さんを褒めてたよ。ここ数年のプランナー陣の中では北浜君に続いて出色だって」

「本当ですか」


 それは意外な評価だった。紺塔は他のスタッフを褒めたり認めたりすることが滅多にないと評判だったからだ。その紺塔から認められたのは嬉しい。雪乃は改めてがんばってよかったと思った。


「それでね」


 田無は雪乃に改まって顔を向ける。


「紺塔さんが、早見さんを専属の秘書兼アシスタントに抜擢したいって」

「秘書兼アシスタント……?」


 雪乃は一瞬混乱した。私はプランナーだ。秘書って何だろうと思った。


「あの、それってどういう……」

「うん。紺塔さんも業界では名前の通ったゲームクリエイターになっちゃったからね。色々とスケジュールが込み入ってきたんだ。だからそれを管理したり、仕事をアシストする人が必要だろうって話になってね」


 田無はニコニコと疲れたままの笑顔でいる。さも名誉だろうという言い方だった。


「ずっと紺塔さんの傍について、スケジュールの管理とその伝達。連絡事項の管理。移動があるようならその移動手段や宿泊先の手配。あと、紺塔さんのディレクションの手伝いもね。あっ、メディアの取材の時にも同席して。ひょっとしたら早見さんも美人秘書として雑誌とかに載れちゃうかもよ」


 そんな事が私の喜びだと思われているのだろうかと雪乃は不愉快になった。それに大学時代の友人が一人、ある大手企業で重役秘書を務めていてその仕事内容を語ってくれたことがあったが、とても素人がいきなりこなせる性質のものとは思えなかった。何よりも自分は、ゲームが作りたくてこの会社に入ったのだ。秘書になるためではない。


「申し訳ありませんが、お断りします」


 田無の笑顔が消える。


「んー、何で?」


 声は柔和だが、表情が笑っていなかった。


「私はゲームを作りたくて入社したんです。秘書になるためではありません」

「んー、それは分かるけどさ、紺塔さんの秘書兼アシスタントってポジションになれば、それこそ色々なゲームに絡むことができるよ。何せ紺塔さんはウチの看板クリエイターで、全てのラインを統括してるわけだから」

「そういう関わり方ではなくて、根っこから関わりたいんです」

「だからさ、紺塔さんのアシスタントってポジションになればさ、クオリティチェックの時にも同席してあれこれ変更指示も出せるじゃない? 紺塔さんの代わりになれるチャンスも多いし、スタッフロールにも名前が載るよ?」

「改めてお断りします」


 雪乃は田無の目を見てきっぱりと言った。田無はどうしてこんないい話を蹴るのだと言いたげだった。


「ちょっと考えてくれないかな。僕の立場もあるし」


 田無の立場とやらは一体何だろうと雪乃は思った。紺塔の直下、現場とのつなぎ役としてそれなりにチームを取り仕切ることができて、作業に対する指示もそれほど不適切だとは思わない。それなりにバランスの取れた人間であると思えるのに、紺塔に対する態度は一貫して『イエスマン』という言葉の生きた実例になってしまっている。


「……わかりました。ちょっと考えてみます」


 絶対に自分の考えは変わらないだろうと思いつつ、この場でこれ以上粘ることは空気を悪くする様に思え、雪乃はそう言って田無に軽く頭を下げてから会議室を出た。


 プランナーチームのミーティングの結果、皆で明後日から交代で代休を取得することになった。主に更新が終わっていない仕様書を最新版にすることと、攻略本が出ることになっているので、編集を担当しているプロダクションからの質問への対応や、要求されている資料の作成が残りの作業となる。その担当範囲や作成すべき資料の項目確認をしながら、雪乃は秘書兼アシスタント職への転属打診に対する返答を心の中で書き連ねていた。断ることはもう決めているのだが、一応北浜にも相談した方がいいと考え、その日の晩、久しぶりに二人でレストランで食事を共にした際に打ち明けてみた。


「ええっ、紺塔さんの秘書兼アシスタントだって?」

「そうなの。私も驚いちゃって……」


 北浜はワイングラスをそっと置くと腕組みして考え込んだ。


「決めるのは雪乃自身だけど……僕は反対だ」


 組んだ腕をほどいてから、北浜は雪乃の目をまっすぐに見て真剣に言った。思わず雪乃の胸が高鳴る。どうしてと口を開きかけた刹那に北浜は言葉を続ける。


「第一に雪乃はプランナー陣の中で仕事ができる。工程の上流に位置するプランナーを開発から外すなんて会社にとってマイナスにしかならない。第二に」


 そこから北浜は顔をちょっと背けて視線を落とす。顔が赤い。


「自分にとって大事な人が紺塔さんとずっと二人きりの仕事なんて心配だよ、嫉妬と思ってくれていい」


 紺塔は既婚者だが、接待と称して高級クラブに煩雑に出入りしている。流石に会社のスタッフにまで手をつけたという話は聞かないが、お気に入りのホステスを、深夜会社の自分用の部屋に連れこむのを見たスタッフがいる。それも一度や二度ではないという。そんな上司に雪乃がずっと付いているのは、正直心配で仕方が無いのだと北浜は付け加えた。

 雪乃は胸が熱くなる感触を味わった。胸の鼓動が早くなる。恋人の愛情のこもった台詞が自分に向けられている事を実感する。北浜は照れ屋だがそれを隠そうとしない。ストレートに雪乃に対する愛情を言葉と行動の双方でぶつけてくる。行動の方は、今少し積極的であっても受け入れる準備が出来てはいるのだが、それは彼が自身に課した目標を見据えている事を悟っているので、もどかしさよりもうれしさの方が先に立つ。彼に愛される存在である自分は幸せだと、静かにその言葉を噛みしめた。


「……ありがとう、翔さん。勿論私お断りするつもりだったけど、あなたにそう言われてとても嬉しい」


 北浜が手を上げてウエイターを呼んでワインの追加を頼んだのは、どう見ても照れ隠しだった。


 雪乃は翌日になって田無に早々に結論を伝えた。ありがたい話ですがお断りしますと頭を下げると、田無は何かを言いかけたが分かったよとだけ答え、仕事に戻っていいと手で示した。相変わらず顔は笑っているのに目は笑っていない彼から、雪乃は真意を汲み取ることはできなかった。だが、雪乃の返答に対する紺塔あるいは田無の感情は、目に見える形となって年明け二〇一二年早々に現れた。

 仕事始めというタイミングで、雪乃は始業と同時に田無に呼び出された。そこで命じられたのは、週明けから大阪にある開発会社への出向である。

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