(五)新能荒也
その後、デバッグと調整期間に入ると紺塔の変更指示はようやく鳴りを潜め、オフィスにもほとんど顔を出さなくなった。一ヶ月半後、『アンバランスヒーロー』はマスターアップを迎えた。マスターアップとは、ハードメーカーの品質管理規定に沿った一定期間のテストプレイを受け、『マスターROMチェック』を通過したことを言う。テストプレイ期間中に、ハードメーカーによる規約が守られているか、進行が不能になるような重篤なバグが無いか等が検品されるのである。このチェックを通過しない限り、量産は許可されない。
チェック期間中に規約が守られていない箇所や、修正必須のバグが出たりすると、即差し戻しされて再び該当箇所の修正後にゼロからチェックを受けることになるため、開発現場では最も緊張感のある日々が続くことになるのだが、『アンバランスヒーロー』は、無事に一回のチェックで通過することができたのだった。
マスターアップ後の一週間は流石に多くのスタッフが数日代休を取得し、雪乃も溜まった代休のうち数日を消化にあてて休むことができた。翌週からプランナー陣は仕様の整理を始めて、そうしているうちにほどなく打ち上げ会が催される事になった。
マスターアップ後は筆舌に尽くしがたい開放感に溢れるうえ、打ち上げ会は高級焼き肉店で催されることもあって、素直に思い切り良い肉を堪能してやろうという気分になる。雪乃は柏や子安と連れだって席についたのだが、向かいの机の島の端に見かけない人物を確認した。新能荒也である。
「あれ、新能さんってウチのプロジェクトに関わってましたっけ」
紺塔の長々としたあいさつの後での乾杯の後、雪乃は小声で柏に尋ねると、開発の初期に一ヶ月在籍していたのだと教えてくれた。
「元々新能さんはほら、ウチのデザインセクションのトップ、
『UBH』というのは、『アンバランスヒーロー』の社内プロジェクトコードである。社外では開発中タイトルについての話をする時には、機密保持のため原則このプロジェクトコードを使うよう指導される。
そう言われれば、新能の向かいの席にはデザイン課の課長である潮見英子が居た。潮見は会社創業時のメンバーの一人で、紺塔や専務、プログラム課の課長らと並んで会社の重鎮だった。雪乃はそれほど親しいというわけではなかったが、彼女の方は雪乃を気に入ってくれているのか、社内で顔を合わせるたびに親しみをこめて話しかけてきてくれるのである。新能は普段から気むずかしい顔をしているが、今日は輪を掛けて不機嫌そうに見えた。
「新能さんってちょっと怖いとこあるよね」
とコップを両手で握ってビールをちびちび飲みながら子安が言うと、柏も頷いた。
「新能さんと仕事をしたことがあるんですか?」
「うん、私は最初からこのラインに投入されていたから。プロト版(試作)の時にちょっと、ね」
「そんなに揉めたんですか?」
「私とじゃなくて、他のプランナーさんとね。早見さんがウチのラインに入る前の話。矢切さんと仕事をしてた時に」
矢切だけではなくて、他のプランナーとも衝突が絶えず、持て余した田無が他のラインに移動させたらしい。業務上の会話のやりとりを聞いていると、矢切の仕様に対して意見がある様で、意見は時を経ずして詰問になり、詰問は口論になり、口論は目に見えぬ火花を周囲にまき散らしながらただならぬ雰囲気になったという。
「といってもね、矢切さんは終始押され気味って感じだったな。新能さん、『言われたからそのままやるなんて最低の仕事です』って言ってた……」
またあの台詞かと雪乃は思った。結局新能はオフィスを出てからしばらく戻ってこず、翌日チームを異動になったとの子安の話を聞きながら、雪乃は新能という男により強く興味を持った。あの言葉の真意を知りたいと思った。だが同時に飲み会の席でも話しかけるのは
雪乃がトイレから宴席に戻ると、席で柏と子安が親しげに話をしている風景が目に入った。二人の空気が柔らかい。ははあ、と雪乃は微笑んだ。薄々感じていたが、柏は子安の事を好きなのだろう。普段の様子を見るに、子安もまんざらではないはずだ。ちょっとこのまま二人で話をさせてあげたいと思った雪乃はちょうど良いタイミングだと今回のプロジェクトでお世話になったスタッフへ挨拶周りを始めた。その過程で、潮見の席の前にいたはずの新能の姿が消えていることに気づいた。新能の背中側に置かれていたはずの鞄も無くなっている。帰ったのだろうか。
「早見さん、本当にお疲れ様。大変だったね」
目の前にプログラマーの渋谷が座って、雪乃のグラスにビールを注いでくれていた。
「いえ、渋谷さんにもとても助けられました。ありがとうございました」
二人であらためてグラスを軽く合わせて乾杯をする。その後の他愛も無い世間話から、雪乃はふと渋谷に新能の事を聞いてみた。
「ああ、新能さんか……。潮見さんのツテで入社したらしいけどね、僕は直接業務のやり取りをしたわけじゃないから詳しくは知らない。ただね」
そこで渋谷は雪乃に顔を近づけて小声で言った。
「あの人、以前会社で暴力事件を起こしたことがあるって聞いた。矢切君から聞いた話だけど」
「ぼ、暴力事件ですか」
「そう。何でもチームのディレクターを殴って骨折させたらしい」
「えっ!」
「裁判までは行かずに和解したみたいだけど、業界じゃ結構な人に知れ渡っているみたいだよ。そういう意味ではちょっと悪評の付いてるプランナーみたいだ。それでしばらく多くの会社から相手にされないみたいな形になってたらしいけど……潮見さんも何でああいう人採ったのかなあ」
ディレクターを殴って骨折させたというのはただ事ではない。暴力を振るって他人に何かを強制する様な人間が、雪乃は最も嫌いだった。だが、曲がりなりにも社会人の男が、そう簡単に会社という公共の場で暴力を振るうものだろうか。そこには何か深い事情があるのかもしれない。だが、新能の硬い表情や物言いを振り返ってみると、暴力というイメージからはさほど遠くない存在かもしれないと考えてしまう。渋谷も新能が暴力に至った経緯までは知らないとの事だった。
「私、ちょっと潮見さんに挨拶してきます」
雪乃はそっとビール瓶とグラスを持って席を立った。渋谷の「そんなに気になる?」という声を背中に聞きながら、雪乃は潮見の隣へと座り挨拶をする。
「ああ、早見さんじゃん! よくがんばってくれたわね」
潮見はそう言って労を労ってくれ、今回のプロジェクトはどうだったとか、次はどんなゲームの開発に携わりたいかなどを聞いてくれた。潮見は三十八歳だが、年齢に似つかわしくないショートカットが似合う童顔な可愛らしい顔立ちと、雪乃から見るとうらやましいくらいの豊かな胸の持ち主だった。古参のメンバーというだけではなく、社員の不満をできるだけ吸収して何とか改善したいという意欲を持っている。雪乃は後にそう気づいたが、残念ながらそれは会社としての取り組みには至っておらず、潮見個人のスタンドプレーに収まっているというのが現状だった。だがそれでも「相談しやすく話のわかる上司」として潮見は社内でも密かに男女を問わず人気があった。それもあって、雪乃は潮見に比較的容易に新能の事を切り出すことができた。
「そういえば、プランナーの新能さんてもう帰られたんですか?」
「えっ、ああ新能君ね、うん、もう帰っちゃった。腕引っ張って無理矢理誘ったんだけどね、やっぱり途中で抜けたプロジェクトの飲み会なんて気が進まなかったみたい」
そうなんですかと相づちを打ちながら、雪乃は新能がこのプロジェクトに関わっていたことをさっき初めて知ったことを告げ、一体どういう経歴の人なのかを尋ねてみた。
「……新能君はね、私が最初に勤めたゲーム会社での同僚だったの。要領はけして良くなかったけど、ほんとに面白いゲームを自分で作りたいって意欲が強くてね」
「俺、知ってますよ。新能さんて暴力事件を起こして会社を辞めさせられたんでしょ?」
突如口を挟んできたのは矢切だった。すでにかなり酒を飲んでいるのか、舌の回転が随分と滑らかだった。潮見は黙り込んで矢切を見つめた。矢切は酒の勢いもあるのか、臆せずにそのまま口を回転させ続ける。
「業界の知り合いから聞いたんですよ。何か大変なプロジェクトがあって、もめた挙げ句ディレクターを殴りつけたって。何でも顔を殴って骨折させたって言うじゃないですか。それはデマなんですか?」
潮見はやや間を置いてから、それは事実だと呟いた。
「わお。骨折させるほど殴るなんてよっぽど恨み骨髄って感じですね」
矢切は茶化すように笑ってからビールをあおった。
「……新能君、日本拳法の黒帯だからね。ワンパンチ。誰も止める間なんて無かった」
「こっわー! 俺も今度新能さんと意見がぶつかったら殴られちゃうのかなー。怖いなー」
矢切はますます調子に乗っている。
「でも、事情があったんでしょう? 殴るだなんてよっぽどのことでないと」
雪乃は矢切の茶化しに乗っかる気になれずに潮見に尋ねた。どうも、素面でも酔っていてもこの男の言動には軽薄さしか感じることができない。
「それは勿論」
潮見はそう言ってから、これ以上は私の口から語るわけにはいかないと押し黙った。
「矢切君もあんまり適当なこと言いふらさないでね」
「はーい。でもそんな暴力を振るう様なヤツと仕事したくないすよ」
矢切はまたそう軽い調子で吐き捨てると、雪乃に熱心に話しかけてきた。適当に相づちを打ちながら、新能が暴力を振るった理由は何か、それを聞きたい衝動を抑えて、ビールと共に飲み込んだ。
その後、田無が雪乃の下へ来て、ちょっと紺塔さんにお酌してあげてくれないかと小声で耳打ちしてきた。紺塔のいる席を見ると、彼は取り巻きに囲まれて、今考えている企画を楽しそうに語っては高笑いをしている様子だった。
その場では田無に対して、わかりました、では後でと返事をしたものの、雪乃は結局忘れたフリをしてスルーした。これ以上余計なところで神経をすり減らしたくはないのだった。
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