(三)摩擦
「言われたから実装したなんて最低な仕事の進め方、か……」
前後の文脈が不明だから、あの二人のどちらに理があるかは雪乃にはわからない。真意はどこにあるのだろう。雪乃が思考を巡らせようとすると、同僚のプランナーである
「よ。早見さん、お疲れ様です」
北浜が雪乃に
もう一人の丸い眼鏡が印象的な太っちょ体型の
だが、雪乃はこの初台が苦手だった。波長が合わないのだろうか、言動にいつも引っかかりを感じてしまう。まだ一緒に仕事をしたことはないが、未沙が「あの娘は要領良く立ち回ってばかりで……」と嘆くのをよく聞かされていた。
「お疲れ様です。そちらのプロジェクトはいかがですか」
「んー。アルファ版の提出が近いんだけどね。もうちょっと仕様を細かくしないとだめかな」
北浜は自販機でコーヒーを三本買って、稲毛と初台に渡してから、雪乃と向かい合わせの椅子に座った。北浜は二十八歳だがプランナーセクションに二名しかいないチーフの一人に任命されている。他の先輩プランナーを押しのけての
それから雪乃は北浜に、改めて体感型テニスゲームはもう遊べるのかを尋ねた。雪乃は中学、高校、大学と、長くテニス部だったこともあり、密かに楽しみにしているゲームである。
「まだプロト部分だけどね。操作部分がもうちょっとで煮詰まって形にできそうだよ。早見さんの方はどう? 紺塔さんのプロジェクトは大変だろう」
「……そうですね。やっぱり、大変です」
「あら、でも早見さんって仕事ができる方だってお聞きしてますよぉ」
初台が茶々を入れてきた。
「そんなことはないよー。ずっと迷ってばかりで。仕事量も多いし……」
言葉を濁した雪乃に引っかかるものを感じたのか、北浜は具体的に現在抱えているタスクを尋ねてきたので、雪乃は正直に答えた。
新規ステージの仕様が三つ。
別モードの画面構成仕様が三つ。
専用エディタを使ったステージ配置作業が三つ。
そして、新規挙動『しゃがみ走り』の仕様作成。
「それ一週間で? 五日での話だよね?」
オストマルクでは、一日の作業時間を、1.0day(日)=8.0h(時間)として、通常一週間=1week=5.0day単位で作業予定を立てるのが常だった。
雪乃が頷くと、北浜はスックと立ち上がった。稲毛と初台には自席に戻って引き続き作業を進める様指示すると、ため息をつきながら言った。
「どう考えてもタスクを積み重ねすぎだ」
そう言って、北浜は歩き出した。慌てて雪乃も後を追う。
「え、あの、北浜さん?」
歩きながら北浜が答える。
「矢切さんは、油断するとすぐに自分のタスクを他人に振る。やむを得ない場合もあるけど」
「矢切さんも仕事量が多いのは理解できるので……」
雪乃は言ったが、北浜は
「あの人は、面倒なところをすぐ他人に振ってしまう。僕は基本的に信用していない」
北浜は矢切の席に近づくと、ちょっといいですかと声をかけた。雪乃は、自分がこの場にいてもいいかどうか迷ったが、いなければまるで北浜に問題解決を丸投げしたようで気が引ける。当事者として何を言われてもよいように、この場にいようと決意した。
「何ですか、チーフ。今忙しいんですが」
矢切は、露骨に面倒くさそうに言った。明らかにメタボ体型のお腹の贅肉は机の上に乗っかり、黒縁眼鏡をかけた彼はパソコンのモニタから目を離そうともしない。矢切の方が年上で、プランナーとしても先輩であるのだが、役職としては北浜の方が上なので、仕方が無く敬語を使っているという態度だった。
「確認です。早見さんのタスクが積み重なりすぎているのですが、その事を認識しているのでしょうか?」
北浜は、現在担当している体感型テニスゲームに、学生時代テニス部だった雪乃に作業をお願いしたい項目があったので、現在の作業タスクを確認したところ、どう考えても多すぎる量だったので確認に来たのだともっともらしい嘘をついた。
「彼女だけじゃない。みんなマルチタスクが当たり前の状態で作業をしてるんだ。彼女だけ特別扱いなんてできるわけないでしょう」
「それにしても、早見さんに一週間の間にUIの仕様のほかにステージ関係の作業、さらにプレイヤーの新規挙動の仕様作成まで振るのは行き過ぎだと思いますが。プレイヤー挙動は矢切さんの方で吸収してもらえますか」
「それができないから、早見さんに頼んだんですよ」
「早見さんは前の新規挙動『スライディング』の仕様も作成、実装まで持っていっています。矢切さんは最初から決まっている基本的な挙動の仕様ばかりなのに、未だに終わっていない挙動がありますよね? 昨日も定時で上がられているし、余裕があるんじゃないですか」
そこで初めて、矢切はパソコンのモニタから目を離して北浜の方を向いた。表情に怒りの色が浮かんでいる。
「……恋人のためにご苦労なこった」
矢切は毒づく様に、小声で呟いた。呟きではあったが、それは雪乃の耳にもはっきりと聞こえた。
「俺は知ってるんだよ。つきあってるんだろ? あんたら」
雪乃の背中と胃に悪寒が走った。それは事実だった。だが、公私混同だけはしないようにと、互いに注意して接しているつもりだったし、社内ではそれを露骨に周囲に悟られないように気を配ってきた。だが、矢切はどの様な形で知ったのかはわからないが、雪乃と北浜が交際しているという事実を把握している。一体どうして……とまどう雪乃に対して、北浜は至って冷静だった。
「そうですね、確かにそれは事実ですが、そのことと、早見さんに課せられたタスクが著しく多いという事実と、矢切さんが本来終わらせていて然るべきタスクが未だに終わっていないという事実と、どう関係するんですか?」
雪乃はもういいですと北浜に声をかけようとしたが、余計に空気を悪くしそうな気配があったので何とかこらえていた。
「矢切君、確かに早見さんにタスクを積み重ねすぎだな。これは俺の配慮が足りなかった」
いつの間にかやってきていた田無が、背後から声をかけてきた。
「いや、でも俺も手一杯ですよ」
矢切は不満そうな声で口を
「わかってるよ。早見さん、新規挙動の仕様と実装は来週末まででいいから。次の
「どうでしょうかねえ、次のROMってメディアにも見せるやつでしょう? 紺塔さん肝入りのアクションが入ってないのはまずいんじゃないですか」
田無は数秒考えこんでいたが、まあ今回は多分大丈夫だろうからそれでいってくれと指示した。こうして新規挙動の仕様作成は来週に回してよいことになり、雪乃と北浜は田無と矢切に頭を下げてフロアを後にした。
田無もそれに続いてフロアを後にしようとするが、その前に矢切にそっと耳打ちする。
「北浜は、紺塔さんが気に入ってる。あまり反抗しない方がいいぞ」
矢切は憮然とした表情で、去って行く田無の背中を睨みつけていた。
その晩、雪乃は未沙と二人で飲みに行った。二人の行きつけの小料理屋『たちばな』は、品川にある会社から徒歩十数分のところにあるこじんまりとしたお店だが、路地裏にあるせいか、会社の同僚と顔を合わせる心配が無い。何よりも大将の腕が抜群で、雪乃はこのお店のいかの塩辛とおでんのあまりの美味しさに、初めて口にした時は声も出ないほどだった。
「えーっ、矢切のヤツ、雪乃ちゃんと北浜さんとの事知ってたの?」
一杯目の乾杯の後、雪乃が今日の出来事を話すと、驚きと嫌悪感を
「ええ……。別に、恥ずかしい事をしているつもりはないんですけど、公私混同だけはしないように、職場では互いに態度も言葉遣いにも注意してたんですが……」
「社内っていうか、外でのデートをたまたま見られたんじゃない?」
「そうなのかも」
雪乃はそう答えつつ、互いに忙しくてデートは一ヶ月前に映画に行ったのが最後だったことを思い出していた。勿論、電話やメールのやりとりはあるが、二人でゆっくりと過ごす時間が持ててないことを改めて寂しいと感じる。
「雪乃ちゃんもてるからなー。新入社員紹介の時、雪乃ちゃんを見た野郎どもの目の輝きが変わったのを私は見逃さなかった」
未沙はそうおどけて言ったが、今後矢切には注意した方がいいかもと心配そうな口調で続ける。
「矢切って雪乃ちゃんのこと狙ってた節があるからね。雪乃ちゃんが紺塔さんのプロジェクトにアサインされるって聞いて露骨に顔がにやけてたもの。彼って前にもデザイナーの女子新入社員に手を付けようとしたことがあるのよ。好意を持つことそれ自体は仕方がないことなのだけれど、会社でその娘を自分のチームに入れたがったり、やたら二人きりでの打ち合わせを入れたりして。で、その二人きりでの打ち合わせ中、その娘に告白したけど、はっきりと断られたのよ。それから露骨にその娘の仕事にリテイクを出したり、無理難題を吹っかけるようになって。公私混同って言葉の生きた実例だったわねアレ」
その新入社員の相談に乗って、矢切と関わらないプロジェクトに移動させてもらえる様未沙が上司に働きかけたが、彼女は結局辞めてしまったという。
矢切は、男女の仲に限らず自分の意図通りにならない相手に対して逆恨みをする傾向がある。狙っていた雪乃が社内の同僚、しかも自分よりも後輩のプランナーとつきあっているとなれば、面白かろうはずがない。彼の性格上、どんな嫌がらせをしてくるかわからない。注意することだ……。
そう忠告してくれる未沙の話を聞きながら、雪乃はつきあっている恋人、北浜に被害が及ぶことを恐れた。今日も結局、彼に迷惑を掛けてしまった。勿論、彼が恋人としてではなく、あくまでもチーフとして、部下であるスタッフの作業量負荷問題を改善してくれたことは分かる。北浜翔とはそういう人だ。だが、矢切の様に二人がつきあってることを知っている人からすれば、特別扱いに見えてしまうだろう。自分のせいで恋人に迷惑がかかることは、雪乃にとって耐えがたい苦痛だった。
雪乃の沈んだ表情を見て、未沙は慌ててフォローする様に言った。
「あ、でもほら、北浜さんがしっかりしてるし。矢切よりもポジションは上なわけじゃない? 毅然とした態度を取っていれば、そう露骨な嫌がらせはしてこないんじゃないかな」
「そうですね」
雪乃は苦笑してそう返すと、好きな冷酒を少し飲んでから、話題を変えようと未沙の恋愛模様を尋ねた。未沙は未沙で、他のゲーム会社のデザイナーと交際している。
「あーそうそう。今日はその話を聞いてもらおうと思っていたのよー。ちょっと聞いてよ彼ってばね」
半分は惚気ではないかと思える未沙の話を聞きながら、雪乃は彼女の思いやりが嬉しかった。話が弾んで、互いに冷酒を二合ずつ飲み終えるころ、はっきりと雨の音が聞こえてきた。
「あー、降り出してきちゃったみたい」
未沙がカウンターからでも見える窓の方に顔を向けて言った。六月。雨が多くなる季節だ。
「でも駅まではアーケード街を通ればあまり濡れずに行けますよ」
そう未沙に告げながら、窓越しでもはっきりと見える大きな雨粒とザーッという音に耳を傾けたが、脳裏に浮かんだのは、なぜかあの新能荒也の言葉だった。
『言われたから実装したなんて、最低な仕事の進め方だ』――。
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