古本の思い出

 

 珍しくなんの仕事も入っていない日。半年に一度あるかないか、そんな貴重な日に限って、過ごし方がわからなかったりする。

 趣味を仕事にしたからか、毎日いろんなところを飛び回ったり、家に引きこもって作業をしたり、普通の会社に勤めるのとは違う働き方をしているのも大きい。定時に会社に行く必要もないし、仕事場も決まってるわけじゃない。仕事は日常の延長線上。あって当たり前のもの。だからこそ、それがないっていうのは困る。

 意味もなく早く起きてしまってから、さてどうしたものかとラジオ体操をしながら考えた。

 そうだ。ネタ探しにとりあえず散歩に行こう。

 天啓のように思いついてから、結局仕事をしている時と変わらないと気づく。


 普段歩かない道を歩く。歩きやすい靴と脱ぎ着しやすい薄手のカーディガン。小さなポシェットには小銭の入ったがま口とケータイ、あとはハンカチとティッシュくらい。

 たまにケータイで写真を撮りながら、ほそい川沿いを歩いて行く。最近はほとんど暗渠になってしまった小川の中で、珍しく地上に出ている川。近くの桜の木が絶え間なく落ち葉を降らせている。

 いつの間にか夏は過ぎ去っていた。私が変わらず仕事をしている間に。とはいえイベントであっちこっち飛び回っていたから、夏休み中の家族よりいろんなところに旅行していたと言えなくもないけど。

 いつもは行かない路地にふい、と曲がってみる。石畳の道は昼でも薄暗く、そして少し入ったところに洋風のランプが見えた。なにかお店でもやっているのだろか。

 近づいて見ると、色ガラスの入ったランプに照らされて「恩田書店」という看板が見えた。入り口の引き戸は開いていて、いくらか明るい照明の下、天井まで届く書架にぎっしりと本が詰まっているのが見える。

 薄暗さに慣れた目がきらりと光る二つの目を見つける。足元にいた黒猫はにゃあと一声あげてすっとどこかへ飛び移る。そのしなやかな後ろ姿を目で追えば、カウンターのようなものがそこにあり、その奥に眠そうなおじさんがいるのがわかった。

「いらっしゃい。」

 おじさんはそう言って、読んでいたらしき本に目を落とす。

 怪しい。怪しすぎる。

 心のなかで念仏のように唱えてみても現状は変わらない。

 それどころか、足は不思議と軽やかに動いてしまったのだ。

 私はなにかに誘われるように、店の中に入った。


 そこは古本屋のようだった。置かれているのはハードカバーの本が多く、知っているタイトルもいくつかあった。適当に手に取る気も起きずになめるように本の背を見ていた私は、吸い寄せられるように一冊の本を書架から抜き出す。

 文庫本サイズの本。珍しくハードカバーで、立派にも箔押しがされている。タイトルは「夏の木漏れ日」。

 まだ夏に未練があるようだ。

 そのままぱらぱらとページをめくる。余白が広めの文字組。ほっそりとしたフォントの文字が、ところどころかすれながら印刷されている。ページをめくるたびに、古い本独特の匂いが漂った。

 奥付のところには無造作に値段が書いてあった。さいわいポシェットの小銭で買えてしまえる金額だった。

 私はほとんど迷うことなく、その本をおじさんのところへ持って行った。おじさんは私が来るのを知っていたかのようによどみなく会計を進めた。おじさんの作業を邪魔しようとした猫があきらめてカウンターの上に丸まるのを見ていた私に、おじさんが包みに入った本と栞をさしだしてきた。

「栞はおまけ。」

「ありがとうございます。」

「あんた、この本を読んでなにか感じたら、自分のしたいようにしなよ。必ずね。」

「……はい?」

 おじさんのしゃがれた声に、首をひねる。

「どういうことですか?」

 おじさんは猫と似たような顔で、にやりと笑う。

「うちの本は、客を選ぶんだ。」

 はあ、と気のない返事を返す。

 それから少し速足になって店を出た。ちらりと振り向いてみたら、暗闇の中から一対の眼がこちらを見ている光が見えた。


 家に帰ってから本をめくる。今日はこの本を読むだけで終わってしまいそうだった。なかなかに厚みのある本だったのだ。

 ちょうどいいから栞も使わせてもらった。おまけ、とは言っていたけれど、活版印刷のスズランはどこかの雑貨屋に売られていてもおかしくない出来だった。

 本の内容は、「昔書かれた子ども向け小説」って感じで、少し堅苦しいというか、小難しい。旧字体に苦戦しながら読んでいると、半ばほどのページで色が目に入った。

 ページの端に、黄色の色鉛筆でひっかいたような線がある。

 きっと前の持ち主がつけたんだろう。ほほえましくなってその線に触れた。


「さっちゃん! 駄目でしょう!」

 ぱっと色鉛筆を取り上げられる。縁側に寝転がっていた私の手を、庭からやってきた母がつかんでいる。

「もう、せっかく買ってあげたのに! 汚しちゃだめでしょ! ラムネあげないよ?」

「えー!」

 お説教の間、ぼーっと空の入道雲を見ていた私はラムネと言う言葉にぱっと母のほうを見る。空いているほうの手にラムネの瓶が二本握られているのが見えた。


「……ラムネ飲みたい。」

 自分のつぶやきには、っとする。

 慌てて辺りを見回しても、そこは縁側じゃなくて自分の部屋だ。見える範囲には作業台とパソコン。机の上のランプだけが光源の。

 手元の本はそのまま。黄色い線もそのままだった。

 信じられないことだが、

「前の持ち主の記憶が、見えた……?」

 そんなことはありえない。いや、だったらさっきのあれは何だったのだろう。頭ははっきりとしていて眠気なんてかけらもない。夢なんて見るはずがない。

 もう一回、黄色い線に触れてみた。


 同じ記憶を見た。


「連続再生いけるんだ……!」

 私は椅子から立ち上がり、ベッドにダイブした。

 信じられない。でも確かに、あのおじさんの意味深な言葉を思い浮かべるに、私がこうやってぐるぐる思い悩む図がおじさんにはわかっていたのだろうか。

 ……いや、そもそも。

 私はスズランの栞をはさんで、いったん本を閉じた。

「あんな怪しい店で買ったんだから、こんなこともあるかあ。」

 そうやってあきらめることしか、今はできそうになかった。


 後日、ラムネを買いに行きがてら例の店を探してみたのだが、どうしてもあの路地にたどり着くことはできなかった。

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