第三章

第一節

 赤羽千代己の逮捕から、一週間が経った。あれから野々と桜屋敷は千代己の身柄を拘束して公用車に乗せ、県警本部へと連行した。本部での取り調べでも、その後の留置場での取り調べでも、千代己は全面的に容疑を認めていた。すなわち、正月一日月白の殺害、不二井朱華の殺害、五十里至極の殺害、および四十川柚葉の殺害未遂である。現場の状況と、千代己の証言はどれも一致しており、彼がすべての犯行を行ったのは全く自明の理だった。

 今、野々は拘置支所の面会室へと向かっていた。拘置支所は、被疑者が主に起訴されてから裁判が行われて判決が下されるまでの間を過ごす、刑務所敷地内併設の施設である。千代己は逮捕からほぼ日を経ずに送検され、それと同時にこの施設に送られた。自由な時間には弁護士と共に裁判の準備をしているという話だが、自分の行ったことに対する反省の色は見られるだろうか。送検してからは面会していない野々は、少しの期待と多大な嫌悪感を抱いたまま、面会室へ入室した。

 千代己は、一週間前に取り調べをした時と同じように、薄笑いを浮かべて前を向いていた。野々は背筋に走る悪寒を我慢しながら、アクリルガラスを隔てた正面に座った。

「どうも、刑事さん。一週間ぶりですね。お元気でしたか」

 その瞬間、野々は込み上げてきた感情を抑えることに集中しなくてはならなくなった。目の前のこの男が、千夜といういたいけな少女に対して今までし続けてきた非倫理的な行為に、吐き気を催すほどの怒りを覚えた。千代己の逮捕よりも少し前、千夜が電話で「相談」してきたことによれば……そして、千代己の逮捕後に話してくれたことによれば、この男は実の娘である千夜に、性的虐待を加えていたのだ。それも、彼女がまだ幼いころから継続的に。千夜は嗚咽でつっかえながらも、電話越しに自分が今までされてきたことを話してくれた。今一度思い出すことすら忌まわしいような行為の数々を、千夜は勇気を出して自分に伝えてくれたのだ……。

「千夜さんは、保護観察処分となりました。これからは保護観察官の指導の下、健全な人生を送るための準備をしていくことになるでしょう」

 体の奥底で震え続ける怒りは全く表に出さず、野々はそれだけ報告した。千代己は満足そうに頷いた。

「そうですか。あの子が無事に育つのなら、それで構いません」

 澄まし顔で言う男の顔を見ながら、野々は膝の上の拳を握り締めた。この男は、やはり異常だ。千夜から聞いた話では、千夜の母親は赤羽千代子という女性。……つまり千代己は、実の妹と通じて子を成したというのだ。それを聞いた時には、流石の野々も血の気が引くのを覚え、言葉を失った。この男は、実の妹に一線を越えた愛情を抱き、その愛情ゆえに復讐を考え、妹の面影を持つ娘に性的虐待を加えたのだ。考えるだに恐ろしい。

「刑事さん。あの時……私が逮捕されたときに飛び出してきたのは、あの子の母親ですか」

 野々は一瞬、何と答えようかと逡巡した。しかし、野々が口を開く前に、千代己の言葉は続いた。

「母親なんでしょうね、きっと……」

 そう言って、ますます笑みを広げる。野々はぞっとしながら、男の逮捕の瞬間を思った。あの時、千代己は怯える柚葉と波留香に向かって「また今度」と言ったのだ。この男は、全く諦めていない。

 ただ、あの瞬間に波留香と鉛が飛び出してきたのには、流石の野々も驚いた。まさか被害者遺族と、まさに襲われようとしている少女の家族とに接点があったとは、思いもよらなかったのだ。千代己を拘束してから数日後、事情を聴きに二人の家を訪問した野々は、決して家族には言わないでほしいと口留めされた上で話を聞いた。どうやら二人の母親は、千夜が犯人かもしれないということに気付いていたらしい。五十里至極という聞きなれない三人目の被害者が出た時には、その疑いも揺らいだそうだが、後に卒業アルバムで五十里不言の存在を知り、却って疑いが濃厚になったということだった。しかし警察に相談できなかったため、自分たちで千夜が犯行に及ぶところを確認して止めに入るつもりでいた、と、そういうことらしかった。しかし、千夜ではなく知らない男が柚葉に襲い掛かったために混乱して、止めに入ることも出来なかったのだと、波留香は話した。その話の過程で、千代己の取り調べで判明した過去の「いじめ」についての話が、補強されることになったのだった。

 赤羽千代子は、いじめを受けて高校を中退したという。その後、引きこもり期間を経ながらも努力して高卒認定資格を取得、千代己に続いて大学へ入学するが、そのさなかに両親を事故で失い、兄妹は二人きりになった。その間に、恐らく二人の結びつきはただ兄妹としてのものだけではなくなっていったのだろう。千代己が大学を卒業した年に千代子は千夜を出産、その年のうちに亡くなった。千代子の死亡理由は脳内出血で、その原因となったのが、高校生の時に受けたいじめだったということだ。それが判明してから、千代己は血眼になって、千代子をいじめた犯人たちを探し始めた。彼の、長い年月をかけた大仕事が、その時始まったのだった。

 千代己がすべての事件に関与したことが決定的となった証言は、例の「赤い鋏」の存在だった。各遺体の第一発見者には決して口外しないようにと言い含めてあり、マスコミには一切存在を知らせていなかった赤い鋏のことを、千代己はさらりと口にしたのだった。突き詰めていくと、そもそも学園に広まった七不思議自体、千代己が千夜を使って広めたものだったという。なぜそんな子どもじみたことを、と尋ねた野々に、千代己は答えた。幼少期、千代子が好んで使っていた文房具が赤い鋏だった。彼女は兄の名前をもじって「赤鋏ちょき君」という架空のキャラクターを作り、「悪い奴」を手にした鋏でばたばたと薙ぎ倒していくロールプレイングを好んでいた。今回の復讐を考えていた時に、自分だけのサインが欲しいと考えた千代己は、それを思い出して使ったのだという。今考えても、理解しがたい発想だ。少なくとも野々には、そういう穢れない幼少期の思い出を殺人という忌むべき行為の象徴として扱う神経が理解できなかった。

 野々はこれまでに千代己が証言したことを頭の中で思い浮かべ、整理した。とにかくこの男は、妹を妹として正しく愛せなかったばかりでなく、娘をも、正しく愛することが出来なかったのだ。人間として間違っている。そればかりか、その復讐のために、殆ど無関係と言って良い無実の子どもたちを狙って殺したのだ。これから裁判を受ける彼が、とても重い判決を受けるのはほぼ間違いなかった。

 野々は、だんだん目の前の男の顔を見続けているのが辛くなってきた。対する男は相変わらずの穏やかさを崩さない。

「ところで、千夜は今、どうしていますか」

 まるで娘の身を案じる優しい父親のような言い方だ、と野々は苦々しく思いながら、男を見据えた。千夜は千代己の逮捕後、父親の犯罪に加担させられていた、ということを自ら証言した。自分が被害者たちの気を引き、その隙に父親が彼らを殺害していたのだと。しかし、彼女の立場を考慮すると、十分に情状酌量の余地があった。父親から常日頃、精神的・肉体的な加虐を受けていた彼女には、自分の意思に反した犯罪への加担をする以外の選択肢は無かった、と考えられたためだ。また、彼女が自分の中の罪悪感に耐えきれなくなって、野々に対して全てを打ち明け、助けを求めたことも、情状酌量されるべき理由の一つだった。前日、野々に父と自分の所業を告白した千夜は、至極の通夜から帰る時に野々に連絡を取り、予め千代己と打ち合わせていた裏通りを教え、待機していて欲しいと要請したのだった。そのお蔭で柚葉の命は助かった。そうしたことを踏まえ、野々は一連の事件に関わった捜査員の一人として、千夜への判決を軽くしてくれるようにと働きかけた部分がある。それらの要素が幸いして、彼女には保護観察処分が下りたのだった。今現在は、野々が自分のアパートの一室に匿っている。野々はこれから、県内遠方の高校へ転入できないか、あちこちへ連絡を取ってみるつもりでいる。

 そうした報告を聞いて、千代己はやはり満足そうに数度、頷いた。

「それでは、娘をどうぞよろしく」

「…………」

 男は立ち上がり、一礼すると、傍に控えていた職員に合図をした。そして野々が止める間もなく、面会室を出て行ってしまった。言葉もなく見送った野々は、暫く胸を去来する言いようのない感情を抑え込もうと必死になった。

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