第十節

「危ないっ!」

 叫び声に柚葉が振り向くよりも先に、二人の男性が彼女の足元に倒れ、縺れ合うのが視界に入ってきた。桜屋敷と千代己だった。柚葉は若い刑事にしか見覚えが無く、事態を把握することもできずにただ後ずさって、目の前の状態に言葉を失った。桜屋敷は自分よりも少しだけ身長の高い相手を綺麗に組み伏せ、千代己の両手を後ろに回して手錠をかけた。その鮮やかな手並みに感心する暇もなく、柚葉はどこかからか駆け寄って来た母親の腕の中にいた。なぜここに母がいるのか、と混乱する柚葉は、母の隣に見知らぬ女性が立っていることにも気づけなかった。波留香はとにかく娘をかき抱き、刑事に組み伏せられた男から引き離そうとする。

 その混乱のさなか、桜屋敷の名を呼びながら駆け付けた野々に、千夜が泣きながら飛びついて行った。

「野々さん……! 本当に来てくれた……」

 野々の身体に抱き着いて、千夜は震える声で呟いた。野々は頭が痺れるような感覚に襲われながら、そのか細い身体を受け止めた。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 千夜は野々の名前を何度も呼び、その胸に顔をうずめた。涙でシャツが濡れていくが、野々は気にならなかった。千夜の「相談」を信じて、待ち受けていた甲斐があった、と頭では思いながら、自分の胸に縋って安堵の涙を流している少女を自分の手で守り通せたことへの喜びが、彼女の身体を満たしていた。

「十九時三十五分、現行犯逮捕」

 かちゃり、と、桜屋敷が千代己に手錠を掛ける。まだ混乱し続けている柚葉と、目の前で我が子を殺されかけて半狂乱になっている波留香を見上げて、千代己は不敵にも、笑った。そして、桜屋敷の締め付けにもかかわらず言い放った。

「また今度」

 言葉の意味は分からなかったが、柚葉はその声色に、身体の奥底が冷え切るのを感じた。

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