第九節
柚葉が五十里至極の通夜の話を聞いたのは、千夜からだった。彼の死を朝のニュースで知って、母と殆ど会話をしないままに学校へ行った柚葉は一日中ぼおっとして過ごしていたが、放課後、部活へ行く支度をしている時に、千夜に声を掛けられたのだった。
通夜は翌日の夕方からあるらしい、と、柚葉は帰宅早々母に伝えた。昨晩の悶着のことは頭からすっかり抜け落ちて、母に対する態度もいつも通りに戻っている。波留香は内心ほっとしつつ、笑顔で参加を承諾した。少しでも縁のあった人には、しっかりお別れをしていきなさい、と、殆ど考えたこともないような言葉がすらすらと口から出たのには、波留香も驚いた。だが、これも娘のためになるはずだ、と彼女は信じるしかなかった。
そういう成り行きのもと、今、柚葉は通夜の会場である斎場にいる。去年、亡くなった祖父の葬儀に出席したくらいしか、彼女には葬儀への参列経験は無かった。少しく緊張しながら、手に持った数珠を握り締め、会場の椅子に座っていた。視線だけで周りの様子を確認すると、どうやら学園の制服を着ている人がたくさんいるようだった。誰もが目を真っ赤に腫らしており、中には今現在もハンカチを顔に当てて肩を震わせている人もいる。だいたい二十人くらいだろうか。そう言えば先ほど、図書局の顧問をしている先生ともすれ違った気がする。柚葉は、葬式で初めて、その人の慕われ具合が分かると聞いたことがある。とすると、五十里至極という人は、関わった人たちから本当に慕われ、好かれていたのだろう。
柚葉は目を上げて、故人の遺影を見た。神経の鋭そうな痩せ型の顔に、理知的な眼差しの少年。柚葉が彼と接触したのは、つい先日の朗読会でのひと時に過ぎない。しかし、本について語る彼の楽しそうな表情はよく覚えているし、プリントを抱えて困っていた自分に声を掛けてくれた優しさに感謝もしている。五十里至極という人間が、この世から永久にいなくなってしまったのだということは、彼女の胸を痛めるには十分すぎる事実だった。
「四十川さん」
声を掛けられてそちらを仰ぎ見ると、そこには赤羽千夜が立っていた。いつも冷静で落ち着いている彼女もまた、瞼を赤く染めていることに、柚葉は敏感に気づいた。
「ここ、座っても大丈夫かしら」
「うん……」
頷く柚葉の隣に座って、千夜もまた、至極の遺影に目を向けた。
「お別れをするにしても、……まだ早すぎる……そう思ってしまうのは我儘かしらね」
「そんなこと……」
柚葉は静かに首を振る。
「五十里君は、良い人だったんだね。私は一昨日の朗読会で少し話しただけだけど、それでもそう思えるな」
「そうね。五十里君は、局員の中でも飛びぬけて本が好きで、それだけに本に少しでも興味を持つ人のために図書室を良くしようと頑張っていたわ。とても真面目で、こういう表現は変かもしれないけれど……紳士的だったわね」
千夜は生前の至極に思いを馳せるように遠い目をして、静かに言う。
「五十里君は、多分、自分の優しさを表に出すのが苦手な人だったんだと思うわ。けれど、本という媒体があれば別。彼は彼の好きな本を介して、人と関わるのが好きだったのね。だから、局員には慕われていたし、顧問の虎渡先生にも信頼されていたわ。私には、彼のように真剣に何かに向き合える人は羨ましいくらいだった……」
柚葉は、千夜が膝に乗せた両手をぎゅっと握り締めるのを見つめた。
「赤羽さんも、五十里君のことが、好きだったんだね」
「ええ。私に限らず、彼と本について話し合ったことのある人なら、きっと皆、彼のことを好きになったに違いないわ」
柚葉は千夜の両手に自分の手を重ねて、励ますように揺らした。こういう時に、どんな言葉も無意味だということを、彼女は知っていた。ただ、気持ちを同じくする人間がここにもいるのだということを、さりげなく知らせてやることしか出来ないのだ。千夜は黙って息をついて、柚葉に微笑みかけた。いつものように余裕のある笑みではなかった。それだけに、柚葉の胸はますます締め付けられる。今はただ、千夜の痛みに寄り添ってやりたい、と柚葉は思った。
やがて通夜が始まった。僧侶の読経、遺族に代わっての葬儀会社の挨拶、そして焼香と、すべてが滞りなく進んでいく。一人の人間の死が、どうしようもない必然的な出来事として、世界に刻み付けられていく。
柚葉と千夜も焼香を終え、ひとまずの通夜は終了した。あとは身内や希望者が残って、一晩を故人と共に過ごすこととなる。とは言え、未だ別れを惜しんで斎場から去り難い図書局員たちの姿も散見され、顧問や担任らしき人たちも遺族と話をしているようだった。柚葉はそうした一種の混乱の中、腕時計を確認した。自分の心のうちでは一区切りがつき、本当に彼と親しくしていた人たちの中にいつまでも混じっているのも何だか違うような気がしたのだった。時計の針は七時半近くを指そうとしている。化粧室に立ち寄ってから携帯電話を確認すると、母親からのメッセージが届いていた。用事が出来たから、早く帰宅するようにという内容を見て、柚葉は帰宅を決めた。
斎場の出口へ向かって歩き出した時、向かい側から歩いて来た千夜と出会った。
「四十川さんも帰るところなの?」
「うん、そのつもりだけど……赤羽さんは残るの」
「いいえ……。私は家で、彼の思い出を振り返ることにするわ。ところで、帰るのなら、何かと物騒だし、途中まで一緒に帰っても良いかしら」
千夜の申し出に、柚葉はもちろん、と承諾した。実のところ、千夜と二人きりで帰ることが出来るのはそれだけで嬉しいことだった。こういう風に思うのは、五十里君に悪いだろうか、とも思いつつ、それでも嬉しいものは嬉しい。柚葉は弾む気持ちを抑えるのに苦労しながら、斎場を出た。
外は既に暗くなり、街灯がぽつりぽつりと点灯し始めていた。斎場から最寄りのバス停まではこの道から数メートル先の大通りを歩いて行くことになるが、千夜は少し歩くと脇道を指さした。
「こちらの方が、実は近道なのよ。行きましょう」
千夜の言葉を疑おうなどとは全く思わず、柚葉は素直に後をついて行く。ただ、物騒だと言っていた割には暗い小道を歩く千夜の選択が、少しだけ不思議な気もした。自分たちと同じように大通りへ向かって歩いていた参列者たちの気配が遠ざかり、やがて完全に二人きりになった。柚葉は千夜と何を話そうかと考えていたが、不意に思い人の足が止まったので、それに倣って立ち止まった。
「……赤羽さん?」
どうかした、と続ける柚葉の方を振り向き、千夜が何か言おうと口を開く。その唇の動きに注目する柚葉の首筋に、背後から男の腕が伸びる。
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