第八節
野々と桜屋敷は車を出て、まず学園の図書室へ向かった。正月一日月白や不二井朱華、そして五十里至極とも面識のある人物は、図書局と美術部の兼部をしている人間に限られている。初めに聞き取りを行うには図書室か美術室のどちらかへ行くのが手っ取り早いが、今日は美術部が休みである、というのが大きな理由の一つだった。桜屋敷には話していないし、根拠も明確ではないのだが、野々には漠然とした当てがあった。それが、赤羽千夜だった。
虎渡には事前に了解を得ていたので、二人は部室に入ってすぐ、千夜に話しかけた。千夜は心なしか赤くなった目で野々を見上げた。これまでの被害者の共通の知人である人に、捜査への協力をしてもらっているのだ、と説明する野々の言葉に、彼女はすんなりと頷いた。
「五十里君のことは、とても悲しいですわ」
そう言いながら目を伏せる仕草に、演技の色は全くなかった。赤く腫れたようになっている目は、ひょっとすると至極の死を悼んでの結果かもしれない、と桜屋敷は思った。
「月白さんも、不二井さんも、五十里君も……皆、いなくなってしまったんだと思うと、私……」
言葉に詰まって黙り込む千夜を、野々はじっと見つめた。確かに演技の色は無い。心の底から親しい後輩たちの死を悲しんでいるように思える。が、しかし……何かが引っかかるような、もどかしさを感じてしまう。
「赤羽さんにはいやな思いをさせてしまうかもしれませんが、質問をさせてください」
「はい、どうぞ」
千夜が頷くのを確認してから、野々は言葉を続けた。
「まず、正月一日さんが亡くなったと思われる時間帯……先週の月曜日、午後七時前後ですが……この時、貴方はどこにいましたか」
初めて千夜に話を聞いた時は、ここまで突っ込んだことは聞かなかった。そもそも、今このタイミングでも、ここまで尋ねようとは、桜屋敷は思ってもみなかった。千夜はしかし、気分を害した風もなく、その時間帯には既に帰宅して家にいたと答えた。続けて野々は朱華と至極それぞれの死亡推定時刻の千夜の動向を尋ねたが、朱華の時は正月一日の場合と同様、至極の時は帰路についており、誰にも証明してもらうことは出来ないとの答えが返って来た。桜屋敷が見た限りでは、そう答える千夜の表情には何ら疑わしいところは無く、むしろ亡くなった被害者への哀悼の念が痛々しいほど伝わってくるような声色に感じられた。野々も大体の心証は桜屋敷と同じだったが、しかしそれでも尚、何か捉え損ねている信号があるような気がしてならない。なぜだか、素直に話す千夜が意外でもあった。
「それでは、前にも一度聞いたことですが……、赤羽さんは今回お亡くなりになった方すべてと、仲良くしていたのですか」
「はい。とても仲良くさせていただいておりました」
千夜はまたつっかえそうになったが、気丈に言い終えた。その態度も、彼女の言葉がすべて真実を述べていると信用するに足る気のするものだった。だが、それは全て二人の刑事の印象に過ぎない。野々は、印象ほど信用の置けないものはないということをよく知っている。
やがて、千夜への聞き取りは終わった。この後、他の兼部者のもとへも行かねばならない二人は、そっと部室を出ていこうとした。そこを、千夜が呼び止めた。
「すみません、刑事さ……野々さん」
名前を呼ばれて驚きつつも、表情は変えずに野々は振り返る。千夜は胸元で両手を組み、瞳を潤ませて野々を見上げていた。
「野々さんに、お話したいことがあるんです」
野々は戸惑った。今までにも何度か、取り調べ中に言えなかったことを、二人きりになったタイミングで口にする人と出会ってきたが、ここまで自分の心に訴えかけてくる眼差しに出会ったことは無かった。端的に言って、千夜の困窮には手を差し伸べてやらなくてはいけない、と思わされてしまったのだ。
野々はそんな自分の動揺に対する戸惑いも感じつつ、頷いた。桜屋敷には先に他の部員のもとへ行っているように指示して、彼女は部室に残ることにした。顧問も他の部員もいない部室で、野々と千夜は二人きりで向かい合う。
「……それで、どういうお話ですか」
野々の問いに、千夜は思い切った口調で言う。
「野々さん。これから困ったことがあったら、相談しても良いですか」
「相談……?」
思わず聞き返してから、野々は千夜の表情を見つめた。そこにいるのは、疑わしい容疑者ではない。純粋に、何か困ったことに巻き込まれ、迷いながら、それでも自分を頼って来た、庇護を必要とする少女だった。
「それは、事件に関することなんですか」
「それは……まだ言えないんです。ただ、これは一人で背負うには重すぎて……」
消え入りそうな声で言って、千夜は目を伏せた。野々はそれを見て、胸がざわつく気がした。だからだろうか。彼女は、冷静であれば決してしないような快諾をしてしまった。千夜はほっとしたように潤んだ瞳を野々に向け、彼女の手を取った。
「ありがとうございます」
野々は突然のことに一瞬返す言葉に詰まったが、すぐにその手を握り返した。
「いつでも良いから、この番号に掛けてくださいね」
声が震えないように気を付けながら、名刺を取り出す。千夜は受け取ったその紙きれを、大切な人から受け取った贈り物ででもあるかのように、大事そうに両手で捧げ持った。その様子を見ながら、野々は今まで感じたことのない思いが全身に回っていくのを感じた。それは、自分の助けを求める無垢な少女を、自分の手で助けてやりたい、という欲だった。純粋な正義感とは微妙に違い、むしろ平等性からかけ離れた個人的な欲望に他ならないものだった。なぜここまで、彼女に庇護欲を掻き立てられるのか。今まで殆ど感じたことのなかった感覚に、野々はひたすら戸惑うばかりだった。
野々は自分でもいつも通り振舞えているか分からないままに、部室を辞した。若干ふらつきながら出ていくその後姿を見送る千夜は、ただひたすらに冷静な表情を取り戻していた。
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