第五節
波留香は台所の窓から差し込む朝日に目を細めながら、大きな欠伸をした。昨晩の柚葉とのやり取りがあったせいでなかなか眠ることが出来ず、悶々と一夜を過ごしたのだ。柚葉は結局あの後、晩ご飯を食べに降りて来ようともしなかった。使いとして常盤がお盆にのせた食事を持って行ったが、一緒に波留香が部屋に赴いても、ドアを開けてはくれなかった。
うとうとしながらも家族の分の朝食を作る波留香は、一体どうしたものだろうかと思案していた。柚葉のことを考えれば、彼女にどんなに嫌われたとしても、赤羽千夜から遠ざける必要がある。しかし、あそこまで態度を硬化されてしまっては、かえって逆効果だ。自分はどうやら、やり方を間違えてしまったらしい。しかし、一体他にどんなやり方があるだろう。波留香の眠い頭は、先ほどからこの壁にぶち当たってはループし続けるのだった。
フライパンの上の目玉焼きが良い匂いを漂わせ始めた頃、誰かが階段を下りてくる音がした。音の感じからして、体重の軽い常盤ではない。また、休日のため寝室でぐっすり眠っている青磁でもない。そう判断して、波留香は居間のドアのガラス部分から、廊下を覗いた。いつもならパジャマ姿で降りてくる柚葉が、制服姿で階段を下りてきていた。朝食を摂らず、自分と顔を合わせないようにして登校するつもりだろう。波留香は慌ててドアを開けた。
「柚葉、おはよう。昨日のことは、お母さんの言い方が悪かった。ごめんね」
「……おはよう」
柚葉はまだ完全に波留香を許したわけではなさそうだったが、とりあえずすぐに出かけるのはやめたらしく、そのまま居間へ歩いて来て、椅子に座った。波留香がすぐに謝罪したのが功を奏したようだ。
柚葉の好きなハニートーストと目玉焼きを配膳すると、黙々と食べ始めたのでホッとした。とりあえずテレビでも、と思って点けたその画面に大写しになったのは、「G町での学生殺人事件、三人目の被害者!」という衝撃的な見出しだった。思わず目が釘付けになった波留香の視線に、柚葉もつられて画面を見、口に運びかけていたトーストの欠片をぽとりと落とした。
「昨夕、G町の大通りビル街裏手の路上に、萌芽学園高等部二年生、五十里至極さん十六歳が倒れているのを、通りがかった人が発見し、通報しました。五十里さんは後頭部に致命傷を受けており、警察ではここ最近起きた二つの殺人事件との関連を調べています……」
男性アナウンサーが淡々と読み上げた言葉は、柚葉に並々ならぬ衝撃を与えたようだった。感受性が強く、優しく育った彼女は、今回の一連の事件について、人よりも恐怖を覚えているように、波留香には思えた。だがしかし、受けた衝撃の大きさは、柚葉よりも波留香の方が大きかった。次に殺されるとしたら確実に自分の子どもだろうと思っていただけに、全く聞き覚えのない名前の男子が殺されたことに愕然とした。もし、この第三の被害者が赤羽千代子に関わっていなかったとしたら、自分や鉛の推測は大外れも良いところだ。しかし、あの推測が外れるのであれば、それはそれで、それに越したことは無い……。
そう思っていたところに、スマートフォンの着信があった。テーブルの上に置いてあった物がぶるぶると振動し始めたので慌てて取り上げて、さも仕事の電話ででもある風を取り繕って、台所へ逃げ込んだ。着信相手は思った通り、鉛だった。
「今のニュース、見た?」
「うん。五十里なんて、あたしは覚えてないね……」
鉛もやはり、五十里という名字には心当たりが無いらしかった。私も覚えがないのだ、と波留香が答えると、鉛は小さく唸った。
「それじゃあ、あたしらの推測は完全に的外れだったってことになるのかね。ただの無差別殺人だったと……」
「もしも、五十里って名字のやつがアルバムに見つからなければ、そうなるね……」
波留香はともかくとして、鉛の落胆は大きいようだった。自分の愛娘を殺害した犯人に、多少なりとも復讐出来るかと思っていた彼女は、かなり気を落としているようだ。
「まあともかく、私が後でアルバムを確認してみるから。話はそれからだよ。ね?」
波留香の言葉に、鉛はそうだね、と同意する。
「とにかく、用心は怠らないように……柚葉ちゃんと常盤君にはくれぐれも注意するんだよ、波留香」
「分かってる。鉛も、無理はしないように」
お互いに気遣いながら、波留香は通話を切った。その時ちょうど、玄関のドアが閉まる音が響いてきた。どうやら柚葉が学校へ出かけたらしい。波留香が心配そうにそちらを見ていると、いつの間にか起きてきていたらしい常盤が、母親の右手をぎゅっと握った。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんは僕が守るんだから!」
そのあどけない笑顔に、波留香は少し元気づけられたような気がした。
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