第四節
鉛と二人で方策を練った日から二日経った、月曜日。波留香は職場のロッカールームで退勤準備をしていたが、スマートフォンへの着信に気がついて、慌てて応答した。鉛からだった。
「今日、さっそく赤羽千夜の家へ行ってみたよ」
「ど、どうやって」
思いがけない言葉に、波留香はつい前のめりになる。対して鉛の声はいつも通りに落ち着いていて、事情を話した。それによると、鉛は今朝、萌芽学園へ赴き、図書局顧問の虎渡に様々な方便を尽くして、つまり嘘をついて、赤羽千夜の住所を聞き出したのだという。一体どのような嘘をついたらそんなことが出来るのか、と波留香は驚くが、鉛は得意がる様子もない。
「それで、……どうだった?」
波留香は小声で尋ねる。
「うん。まあ結論から言うと、何も分からなかったよ。一日ずっと、近くを散歩するふりをしてうろついたり、近所の喫茶店に入って様子を窺ったりしてみたんだけどさ……。誰一人、出て来やしないの」
「そう……」
鉛の実行力に驚く波留香だったが、そう言えば自分にも一つ、新しい情報があったのだと気が付いた。
「鉛、私の方も収穫があったんだけど。柚葉に今朝、聴いてみたのよ。そうしたら、赤羽千夜の両親は遠方に住んでいて、今は叔父と一緒に暮らしてるらしい。多分、その叔父も昼間は働きに出ているんじゃないか。だから、誰も出てこなかった……」
「なるほど。……ん? ってことは、赤羽千代子も、あの家にはいない……?」
「うん、そうなるね。……だから、つまり……」
二人は同じタイミングで、あることに気が付いた。
「じゃあ、赤羽千夜が実行犯ってことになるのか?」
波留香の呟きに、鉛も「そうなるかもしれない」と応じる。叔父はこの際、あまり関係がなさそうだ、と二人の意見はまたも一致を見た。「ということはさ」、と鉛が続ける。
「とにかく、柚葉ちゃんから赤羽千夜を引き離すのが得策なんじゃないの」
「……そうだね。柚葉には、とにかく近づかないようにと言うようにするよ」
有益な情報をありがとう、と礼を言って、波留香は通話を切った。探偵には既に諸々の調査を頼んであった。その報告が上がってくれば、赤羽千夜という少女がどういう人間なのかも分かるはずだ。探偵からの報告が待ち遠しい。
柚葉には何と言って説明すべきか考えながら、波留香はロッカールームを出た。
波留香は、玄関の扉が開く音に敏感に気が付いた。台所に置いてあるデジタル時計は午後七時を示している。
「柚葉、今日も遅かったね。お帰り」
玄関先で靴を脱いでいる柚葉に声を掛け、買ってきたスーパーの総菜を皿に並べていく。そのうちに柚葉が居間に現れたので、すかさず聞いた。
「今日も部活動だったの?」
さりげなく聞くと、柚葉はちょっと俯いて自分の足元を見ながら、小さく答えた。
「朗読会。前話した、赤羽さんに誘われたの」
「ふうん……」
気のない相槌を打ってから、波留香は真剣な顔で娘を見つめた。柚葉もつられて、表情を引き締める。何かお説教だろうか、と内心どきどきしているのだが、それを表には出さないように気を付けて、母親の言葉を待っている。
波留香は、あまり嘘っぽくならないように注意しながら、言葉を発した。
「赤羽千夜ちゃんには、あまり近づかないで……気をつけなさい。これは保護者の間で噂になっていることだけど……千夜ちゃんの母親は、犯罪者かもしれないんだよ」
半分嘘で、半分本当である。波留香は長年の経験から、嘘を言う時には少しの真実を紛らせるようにしていた。それが結果として嘘が放つ悪臭を軽減してくれることになるのだ。波留香は、とりあえずあまり嘘くなさくない言い方を出来たと思った。しかし、肝心の柚葉が、彼女にしては珍しいほどに腹を立てた様子で自分を見ていることに気が付いた。
「お母さん……なんで、そんな酷いことを言うの? 赤羽さんは良い人だよ。なのに、どうしてそんな……」
怒気に満ちた声で、唇を震わせながら、娘は言う。波留香は思わずたじろいだ。柚葉がここまで、誰かに対して怒ったのは……ましてや、母親に対して怒ったのは、それこそ二歳やそこらの小さかったころだけだった筈だ。反抗期らしい反抗期も無くここまできた娘が心の底から憤慨している様を目の当たりにして、波留香はどう言えば自分の真意が伝わるのだろうかと困り果てた。だが、自分の真意が伝わったとしても、同じことだ。だとするならば、こちらもこちらで押し通すしか無いか……?
困惑しきった波留香がただ立ち尽くしていると、柚葉は涙目になって、居間のドアをあけ放った。
「お母さんの馬鹿っ」
「あ、ちょっと……柚葉!」
呼び止めたが聞かず、柚葉は二階へ駆けあがって行ってしまった。後には、揺れるドアを呆然と見つめる波留香と、成り行きを見守っていた常盤が残された。常盤は、立ったままの母親の足元に近寄って、その顔を見上げた。
「お母さん……今のは、お母さんが悪いと思う。お姉ちゃん、最近よく赤羽さんのことを話してくれていたんだよ。多分、すごく仲良くなったんだと思う。それなのに、全然赤羽さんのことを知らないお母さんに、あんな言い方されたら、……そりゃあ、ああなるよ」
「常盤……」
息子にまで自分が悪いと認定されてしまい、波留香は悲し気に眉を寄せた。常盤は母親のことも気の毒に思ったが、とりあえず姉の後を追うことにしたらしく、ぱっと駆け出して行った。波留香は二人の子供から急に取り残されてしまったような気がして、力なく椅子に座って顔を伏せた。
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