第二十節

 朗読会が無事終わり、局員たちは一仕事終えた達成感に浸りながら、図書室を後にした。至極も局員たちを労い、千夜に朗読の感想を伝え、他の局員たちと一緒に学校を出た。千夜とはもっと語り合いたい気もしたが、それ以上に、あまり近づきたくないような気もしていた。そもそも、彼にはあまり時間が無かった。通っている美術系予備校の講義の時間が近づいていたのだ。家への道には徒歩で充分だが、予備校にはバスで行く必要がある。至極は学校近くのバス停へと向かって歩いていた。

 バス停へ向かう途中で至極が思い出していたのは、つい先ほど終えたばかりの朗読会についてだった。千夜の朗読は、大袈裟でなく、感動的なものだった。彼女の口から発される言葉は、他の人間が発する言葉よりも甘美で、しかし装飾過多に陥らない芯の強さのようなものがある。彼女は普段から曖昧さを排除した話し方をするが、朗読の際には曖昧さも完璧に表現しており、その器用さには驚かされるばかりだ。しかし、朗読会の千夜を思い出すと、四十川と名乗った少女や、野々という刑事のことも併せて思い出されてしまう。もちろん、至極は彼女らに何の負の感情も持ち合わせてはいない。ただ、千夜と気軽に挨拶を交わし合える関係性と、聴衆の中でも際立って千夜の朗読に聞き惚れていたその感受性の豊かさへの嫉妬があるだけだ。だが至極本人は、その感情が嫉妬だとは気が付いておらず、千夜のことを考えた時に同時に巻き起こるそのもやもやした感情に、いつの間にか爪を噛んでいる自分に気が付くのみだった。

 至極は十分程度バスに揺られ、やがて予備校付近のバス停へと降り立った。ここから歩いて数分の距離にある予備校へは、大きなビル街のある辺りを通って行かねばならない。しかし表通りは市中でも賑わっていて人通りも多いため、至極はあまりそちらを通らないようにしていた。建ち並ぶビルの裏手、資材の運搬トラックなどが駐車するためのスペースがあるだけのうら寂しい道を、好んで使っていた。人の姿は滅多に見えないその道は、今まさに順調に暗闇に沈んでいく最中だった。

 気の早い街灯がぽつりぽつりと点灯していく中を、至極は鞄を携えて急ぎ足で歩いた。学校で美術部に所属することを選択せず、その分、予備校で学習する方を選択したのは自分だ。遅刻などしたら、無理を言って受講料を出してもらっている親に申し訳ない。いつも気の弱そうな笑みを浮かべて家を出ていく父親の顔を思い描きながら、至極は足を動かした。

 そして突然、後頭部に衝撃を受けた。痛み、というには余りにも強いその衝撃に、至極は訳も分からず倒れ伏した。遅れてやって来た信じられないほどの痛みに顔を歪めながら振り向くと、そこには見知らぬ男性の姿があった。深くパーカーのフードを被っているので顔は見えないが、倒れながらも判別できるくらいには長身のようだ。しかし、そんなことを冷静に考えていられるだけの余裕は無かった。荒々しく息を吐きだす至極の思考は、一つの疑問だけを繰り返す。

 一体、なぜ。

 痛みと衝撃とで朦朧とし始めた彼の視界に、不意に見知った人物が入って来た。セーラー服に、長い黒髪。鞄を携えているので、帰宅途中だったのかもしれない。それは、赤羽千夜だった。

 赤羽……先輩。

 半開きの口からは、声は出ない。ただ、掠れた呻き声だけが漏れる。

 パーカーの男は、千夜には目もくれなかった。至極にとっては信じられないことに、男は地面に転がっている至極の腹部を蹴り上げた。ごふ、という音と共に、至極は昼食の残骸を口から吐き出した。吐瀉物と血とで汚れた口元に不快感を覚えながら、至極は傍に立つ千夜を見上げ、目で助けを求めた。最初に殴られた頭はガンガンと痛み、蹴られた腹部は何処かの骨が内臓に突き刺さったらしく、息をするたびにつんざくような痛みを訴える。もし彼が暴力の当事者でなければ、千夜に助けを求めるような考えは起こさなかったに違いない。なぜなら、このような理不尽極まりない行動に出る人間の箍は外れていると考えて良く、そのような人間が非力な女子高生に対して同じ行動をとらないなどとは誰も考えないからだ。

 だがしかし、身体中がありとあらゆる痛みに苛まれている最中に、助けを求める相手を選んでなどいられなかった。ましてや、危ないから逃げてなど、言えるはずも無かった。至極は助かりたかったのだ。生きて、したいことが、まだ沢山あった。読みたい本も、話したい相手も、孝行したい親も、叶えたい夢も。

 だから、千夜が彼の目から不意に視線を逸らし、他人事のように自分の身体を見下ろした時、至極を襲ったのは純粋な絶望感だった。彼には本当に、理由が分からなかった。意味が分からなかった。なぜ千夜が自分のこの惨状に対して助けを呼んでくれないのか、いやそれ以上に、なぜ尚も、この場に留まっているのか。悲鳴を上げてさえくれない千夜の態度が、どんどんと冷えていく身体を抱きしめる至極には、全く理解できなかった。至極は、その瞬間、痛みすら忘れて絶望を噛み締めた。男は、その至極の表情を確認して一つ頷き、とどめとなる一撃を、再び後頭部に振り下ろした。

 至極は絶命した。

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