第十九節

 女子生徒殺害事件が立て続けに二つも起こった週が明けた、月曜日。放課後の図書室へ向かう柚葉の胸は、ここ暫く続いていた嫌な予感もかき消すほどに高鳴っていた。図書室へ向かう廊下はそれまでに見たことのない人通りで、行き交う生徒や教師の誰もが図書室に向かっていることが明白だった。中には本など読まなさそうな生徒も多数おり、人を見かけで判断すべきではないと思いつつも、柚葉は意外な気持ちに打たれた。

 図書室に着くと、図書局員を示すバッジを付けた中等部の生徒たちが、室内に扇状に配置された椅子の一つに案内してくれた。席に着くとき手渡された案内のプリントは局員の手作りであることが一目で分かる可愛らしさで、柚葉は思わず頬を緩めた。それからプリントはひとまず膝の上に置いて、きょろきょろと辺りを見回した。実は、図書室に来るのは本当に久しぶりで、どこに何があるかもよく分かっていないのだった。その視線が、配置された椅子全ての正面に当たる位置にいる人物を捉えた。千夜が、朗読者のための椅子に座って、ブックマーカーを弄りながら、手にした本に集中していた。局員に話しかけられて対応するために顔を上げた千夜は、すぐに柚葉に気が付いて手をひらひらと振る。柚葉は鼓動が早まるのを感じながら、手を振り返した。

 柚葉は既に、自分のこの感情が、錯覚ではなく、千夜への恋情であることを自覚していた。それを自覚したのは、去る金曜日、友人から受けた相談がきっかけだった。金曜日、柚葉は部活仲間である友人と連れ立って帰っていたのだが、その道で、恋愛相談を受けた。元々人が好く、どんな人にも親身になって考える性質の柚葉はあらゆる相談を受けてきたのだが、その時は中でもオーソドックスな悩み事だったと言って良い。好きな男子が出来て、その子のことを考えると居ても立っても居られなくなるのだが、いざ話しかけようとすると自然に喋ることが出来ずに、落ち込んでしまうというのだった。柚葉はもちろん、いつものように親身に話を聞き、アドバイスをした。そうしながら、その友人が好きな男子に対して感じる様々な身体的反応も窺い知った。友人と別れて一人になってから改めて考えると、その身体的反応は、近頃、自分が千夜に対した時に感じるのとそっくり同じであることに気が付いた。そこで初めて、この感情はそういうものだったのだと認識するに至ったのだった。

 柚葉は今まで同性を好きになったことは無かったし、今まで好きだと感じてきた相手は全て男子だった。だが、今はそれまで好きだった男子のことを考えても全く胸はときめかない。代わりに、千夜のことを考えると、自分でもおかしくなるくらいに顔が火照り、落ち着かない気持ちになるのだった。

 柚葉は気持ちを落ち着かせるために、手元のプリントに目を落とした。これから千夜が朗読する本の題名とあらすじ、千夜が読む個所の本文抜粋が載っており、裏面には作者に関する情報と、その作品が描かれた際の時代背景、参考論文までがびっしりと書かれていた。手書き風の丸みを帯びたフォントで堅苦しい内容が書かれたギャップもさることながら、その内容の読み解けなさに、柚葉は目を白黒させた。もとより読書習慣のない彼女にとっては、難解極まりない文章だった。

 柚葉が首を傾げたり唸ったりしながらプリントと格闘しているところに、一人の男子生徒が声を掛けた。図書局員のバッジを付けた高等部の生徒で、細いフレームの眼鏡が理知的な印象を強める、神経質そうな男子だった。

「そのプリント、俺たちが作ったんですが、ちょっと分かりづらかったかもしれませんね」

 そう言いながら柚葉の隣の椅子に座り、男子生徒はプリントの一か所を指し示した。長い指の先に、噛み跡のある爪が光る。

「ここ、『花』とあるのは、主人公が慕う女性のことなんです。それが分からないと、この本文は意味不明になってしまう。それを解説するために、ここにこういう記述があるんですが、ちょっと書き方が専門的過ぎたきらいがありますね……」

 柚葉は男子生徒の声に従って、プリントを目で追った。驚くべきことに、一人で読んでもさっぱり理解できなかった内容が、その案内を聞いてからだと八割がた理解できるようになっていた。それまでついて行くのに必死で全然言葉を発していなかった柚葉だったが、男子生徒の説明が終わると、嬉しそうに声を上げた。

「すごい! 解説してもらったら、意味が分かるようになった! ありがとう」

「いえいえ。もっと分かりやすく書ければそれが一番だったんですけど」

 男子生徒は照れたように笑いながら、頭を下げた。

「俺は、部長の五十里至極といいます」

 そこで至極と名乗る男子生徒は、柚葉の学年を示すバータイのラインをさっと確認した。

「先輩は、赤羽先輩のお友達ですか?」

「うん。私は四十川柚葉。赤羽さんのクラスメートなの」

「そうだったんですね。今日はぜひ、楽しんでいってください」

「ありがとう。この間からずっと楽しみにしていたから、今とてもワクワクしてるんだ。五十里君が色々教えてくれたお蔭で、数倍楽しめそうな気がするよ。本当に、ありがとう」

 そこまで感謝されるとは思いませんでした、と相変わらず照れた様子で目線を逸らして、至極は頬を掻いた。

「俺を含めて、局員は皆、本が大好きなんです。それで、本を好きになってもらえるきっかけを作るとなったら俄然張り切っちゃって……。今回のプリントには、製作者が情熱を込めすぎたみたいです」

 至極は肩をすくめて見せた。

「でも、これを見て、少しでも興味を持ってくれたような人には、もっとよく分かってもらいたくなっちゃって。……それで、差し出がましかったかもしれませんが、声を掛けてしまいました。今日は来てくださって、ありがとうございます。赤羽先輩の朗読も、きっと素晴らしいものになるはずですから、ゆっくり楽しんでいってください」

 それでは……、と頭を下げた至極は席を立って、また仕事に戻って行った。その、ひょろ長くもしっかりとした姿を眺めながら、赤羽さんも良い後輩を持ったんだなあ、と、柚葉はしみじみと思った。


 朗読会が始まる前に、図書局員は最終打ち合わせを行った。予め虎渡と話し合っていた通り、至極は局員の配置と案内プリントの確認をした。特に、今年の新入生には念入りに役割を説明し、開館前にあらかたの準備を終えられるよう、てきぱきと指示を出した。その指示のもと、中等部の生徒は全員で椅子の配置にかかった。高等部の生徒は聴衆の動線を通常より広く確保し、スムーズに出入りできるようにカードキーゲートの電源を落として扉を固定した。同時に、用意していた看板を図書室の外に設置し、「朗読会はこちらです」という文字と矢印とが印刷された掲示プリントを廊下に貼り歩いた。そうして準備が終わった頃、ぽつぽつと一般生徒たちがやって来た。今回の案内プリントを作った中等部の二年生が、ぎこちない手つきで来場客にプリントを渡す光景を、至極は微笑ましく思った。

 その間中、今回の主役ともいうべき千夜は、部室の中で自分が朗読する箇所の確認と、リハーサルを行っていた。至極が用事で部室へ入った時には小声で読み上げている最中だったが、それだけ聞いただけでも思わず聞き惚れてしまうような、素晴らしい朗読だった。しかし至極は、極力、千夜の傍へ寄ったり、その姿を見たりしないように気を付けていた。千夜のことを意識すると、どうしても仕事に集中することが出来なくなるに違いないことが、よく分かっていたからだ。

 やがて、仕事をひと段落させて足を運んだらしい教師の姿もちらほらと見えるようになった頃、千夜は会場に出て行ったようだった。その場の雰囲気に、肌を馴染ませようというのだろう。気にしないようにしようとしても思わずそちらに視線が向いてしまった至極は、千夜が来場者の一人と親し気に挨拶を交わすのを目にした。いつも超然としている千夜が、ああまで気軽に応対する相手は、一体どういう人間だろう、と至極はその相手に目を向けた。少し変わった髪色の、健康的な印象の少女が、そこに座っていた。

 完全に至極の個人的な印象だけで言えば、本などあまり読まなさそうだった。そもそも、適度に日に焼けた肌の色が既に外で過ごすことの多さを物語っているし、踝までソックスを下げてむき出しの脚には、図書局員の女子には無い筋肉がしっかりついている。脚だけでなく、半袖から伸びる腕も引き締まっているし、背筋もぴんと伸びている。本にのめりこむうちにどんどんと姿勢が悪くなっていった自分とは大違いだ、と至極は苦笑しそうになった。

 一瞬でそれだけ見て取ってからすぐに仕事に戻った至極は、しかし、ああいうアウトドア派の少女とも仲良くなってしまえる赤羽先輩は、やはり凄いな、と素直に思い入った。自分自身のことを省みるに、本についてしか語ることが出来ないために、本を読まない人間とコミュニケーションを取るなど不可能ごとでしかなかった。図書局以外で彼が心底人と楽しく会話できる場所など無かったし、教室での居心地の悪さはもう、あきらめるしかないとさえ思っている。しかし千夜は、どう見ても本を読む時間など少ないであろう生徒とも気軽に挨拶を交わし、恐らくは身構えることなく友好的に、且つ自分を偽ることもなく話に花を咲かせられるのだろう。

 暫く自分の仕事に専念していた至極だったが、会場を見回している時に、ふと、先ほどの変わった髪色の少女が頭を後ろにそらせて案内プリントを見つめているのに気が付いた。少しの間観察していると、彼女は眉をしかめて唇をぎゅっと結び、真剣にプリントを読んでいたが、所々で首をかしげて唸っているようだった。至極はそれを見ているうちに、だんだんムズムズしてきた。そうして迷う暇もなく、その少女に声を掛けていたのだった。

 少女は、至極が一方的に説明を始めたのを嫌がることもなく、ふんふんと頷きながら聴いてくれた。それが例え演技だったとしても、そうして熱心に聴いてもらえるのは嬉しいことで、至極はついつい熱を込めて、一気呵成に説明し上げてしまった。

 ちょっと喋りすぎたかな、と不安になった至極の横で、少女は嬉しそうに声を上げた。

「すごい! 解説してもらったら、意味が分かるようになった! ありがとう」

「いえいえ。もっと分かりやすく書ければそれが一番だったんですけど」

 少女は、危惧していたような反応を返さなかった。それが、至極にとっては何より嬉しいことだった。どうやら少女は千夜のクラスメートだったらしく、自分の名乗りに応えて、四十川柚葉という名前を明かしてくれた。少し言葉を交わして、自己紹介だけして立ち去ってから、至極はほっと安堵した。千夜のクラスメートは良い人だった。案外、自分がこれまで気後れして話しかけることすら出来ずにいた「本を読まない人間」たちも、話してみれば彼女のように良い人ばかりだったのかもしれない。

 今度から、少し自分も積極的に、本を読まない人たちに話しかけてみようか……。至極はそう思いながら再び仕事に戻った。だが、数分も経たぬうちに、また千夜のことで頭がいっぱいになりかけているのに気が付いた。これはいけない。部長として、しっかり部員の働きを監督して、時間まで仕事を全うしなくてはいけないのに……。そうは思うが、肝心の自分の感情がそうはさせてくれない。それというのも、この前の彼女の振る舞いが悪いのだ……。忙しく立ち働いているふりをしながら、至極は先週の金曜日、放課後に千夜と二人で、朗読する本について話し合ったことを思い出した。

 金曜日の放課後、午後六時を回ったころだったろう。その頃にはカウンター当番の局員たちは既に図書館を辞しており、部室にいた虎渡も所用で職員室へ出かけていた。水曜日に約束した通り、千夜と至極は二人きりで、図書室に残っていた。先ほどまで窓から差し込んでいた真っ赤な夕日は既に消え掛け、一番星が瞬き始めている。その様子をじっと眺めていたらしい千夜は、至極が促すと席についた。机を挟んで向かい合った二人は、一冊の文庫本を見ながら、どの箇所を朗読すべきか相談を始めた。

 至極の提案に、千夜が頷いて了解していくという形で、話は進んでいった。朗読箇所が決定し、一行毎のニュアンスについて話が展開した時に、千夜はいつの間にか、座っている至極の、すぐ隣に立っていた。

「五十里君。とすると、この行の読み方は、もう少し悲し気にした方が良いかしら」

 そう問いながら、千夜は至極に覆いかぶさるようにして、紙面に指を走らせた。近い。近すぎる。至極は身を固くした。千夜の長い髪の毛が、至極の耳に触れんばかりの距離で揺れる。仄かな花の香りが漂い、甘い声音が耳朶を打つ。自分の名前を呼ぶときの、その声の優しさに、至極は身震いしそうになった。

 じんじんと火照る身体に当惑しているうちに、いつの間にか千夜は至極の隣の椅子に座り、至極の耳に顔を寄せるようにしながら、本について話していた。そのことに気が付いた時、至極は力の抜けた足を叱咤しながら、立ち上がった。このままではいけない、とそれだけを思いながら、窓を開けて空気の入れ替えをするふりをして距離を取る。何がどういけないのかまでは頭が回らなかったが、新鮮な空気に触れると、それまでの熱が少しずつ冷めていくような気がした。少し深呼吸してから、ようやく落ち着いて、彼は再び席に戻った。ただ、また机を挟むようにして千夜の正面に座ったので、元とは反対の位置に座ったことになる。そうしてから千夜を見ると、彼女はきょとんとした表情で、彼を見つめていた。

 そんな顔で見られるほど、自分の行動はおかしく見えたのだろうか。内心で焦り始めた至極に、千夜は不意に微笑みかけた。とんでもなく魅力的な笑みだった。

「五十里君は、紳士的なのね」

「五十里、調子はどうかな」

 背後から声を掛けられて、至極はどぎまぎしながら振り向いた。声の主は虎渡だった。熊のような巨体をのっそりと動かしながら、会場を見回している。

「虎渡先生。……ええ、順調です。そろそろ時間ですし、一旦扉を閉めてきます」

 至極はそれだけ答えると、慌てたように入り口扉へと歩き出した。仕事中に、何を考えていたのだ、と自分に腹が立つ思いだ。扉を閉めてから、時計を確認する。朗読会の開催まで、あと数分だ。至極は急いで部室に原稿を取りに戻り、それから、揃って前を向いている聴衆の様子を窺った。皆、評判の良い千夜の朗読に期待している様子だ。司会進行のために前に出るのは、部長である至極の役目だった。人前で話すことに慣れ始めてきた至極ではあるが、やはり緊張はする。原稿をポケットに滑り込ませながら、そっと千夜に目を向けたが、手に持った文庫本を読んでいるらしい彼女とは、目が合うことは無かった。


 野々と桜屋敷は、職員室へ向かっていた。生徒への聴取はだいたい終え、近所への聞き込みも並行して行っているが、職員への聴取はなかなか出来ていなかった。週明けで忙しくしている教師たちを捕まえるのは至難の業ではあるが、授業が終わってすぐの今なら、ということで、二人は廊下を歩いていた。

「野々警部補。今日は随分と、ここを歩いている人が多いですね」

「ああ、そうかもしれないね。……どうやら皆、図書室へ向かっているようだ」

 二人が歩く廊下の先には、職員室と図書室しか無い。今彼らの周りを同一方向に歩いている生徒たちは、皆、職員室の前を素通りしていく。先週も何度となくこの廊下を歩いた二人にとって、これだけの数の生徒が図書室へ向かっているのを見るのは初めてだった。

「何かあるんでしょうか」

「さあね……行ってみようか?」

 野々が冗談のつもりで発した言葉に、桜屋敷は嬉しそうに頷いた。その様子が何となく忠実な犬のように見えて、野々は目をこすった。疲れているのかもしれない。

「何があるんでしょうねえ」

 桜屋敷は見るからにうきうきとした様子で、足取りも急に軽くなったようだ。野々は、あれだけ毎日あちこちで暗くなるような話ばかり聴いているというのに、全くストレスに感じていないらしい桜屋敷のことが、羨ましくもあり、少々不気味でもあった。それともこれが、若さというものなのだろうか……。

 複雑な心境になりつつ、野々は桜屋敷の後ろを歩く。今まであまり意に介していなかったが、廊下には一定の間隔で、図書室を指し示す貼り紙がしてあった。「朗読会」、と書いてあるのが目に入った時には、既に図書室の前まで来てしまっていた。

「あれ、刑事さんじゃないですか」

 すぐに彼らに気が付いたのは、顧問の虎渡だった。熊かカバを想起させるシルエットの彼は、ゆっくりと二人の傍へと歩いてくる。

「今日はまた、捜査で?」

「ええ、そうですが……すみません、人がたくさんこちらにいらっしゃっているのが見えたので、少し気になって来てしまいました。朗読会をなさっているんですね」

「そうなんですよ。今日は特別、上手な生徒が読むものですから、人が多く来てくれていましてね。さ、こちらで聴いてらっしゃってください」

 そう言って案内しようとする虎渡を、野々は手で止めた。

「いえ、お気遣いはありがたいのですが、私どもは場違いだと思いますし、人が集まっている理由も分かったことですし、これで失礼いたします……」

 言いながら、野々は隣に立つ桜屋敷が、近づいてきた部員から紙コップを受け取っているのを横目で確認した。……何を素直に受け取っているのだろう、この後輩は。

「まあまあ、お二人もずっと捜査なさって疲れてらっしゃるでしょう。休憩だと思って、どうぞ。生徒も喜びます」

「……そうですか……では、お言葉に甘えて……」

 仕方なく返事して、野々も紙コップを受け取った。中身はオレンジジュースのようだ。虎渡に案内された席に座るのは流石に遠慮して、二人は人目を引かないように、部屋の隅の方に固まって立った。どうやら、朗読するのは、あの赤羽千夜らしい。野々は少し、息を整えた。

 二人がそこに立ってすぐ、聴衆の目の前に座った千夜の隣に、至極が現れた。多少、緊張した面持ちの彼は、すっと息を吸って話し始めた。

「今日は、図書局主催の朗読会にお越し下さり、ありがとうございます。今日朗読しますのは……」

 淀みなく話し出す至極は、部長らしく、堂々としている。月白への感情を口にした時から思ってはいたが、彼は見かけによらず、しっかりしている。野々がそんなことを思いつつ見ている隣で、桜屋敷がずずっと音を立ててジュースを啜った。

「では、是非くつろいで、お楽しみください」

 律儀なお辞儀をして、至極が脇へ退いた。それが合図だったのかもしれない。千夜が、静かに本を開き、朗読を始めた。

「その花は例えるならば、天上の甘露、闇夜の星。我が胸のうちにある全ての悲哀を慰め、やさしく口づけるものなり……」

 彼女の唇から発された声が空気を震わせた、その瞬間、聴衆は皆、息をすることを忘れてしまった。一つ一つの単語の意味が、彼女の言葉によって目の前に現出したようだった。耳が、神経が、脳が、彼女の声に麻痺したようになるのを、野々は感じた。酒に酔った時にも似た、自我が微睡む様な心地よさに、溶けていきそうになる。

「花よ、我が愛しの花よ。このような下賤の身に、そっと触れてくださるというのか。ああ、私はどんなにこの時を待っていたことだろう。私の指先が、貴方の温度を感じる……」

 物語が進むにつれて、千夜の声色は微妙に変化した。それは主人公の気持ちの浮き沈みを表すのみでなく、一種のメロディとして、聴衆の身体に響いた。時に震えつつ、時に朗々と、千夜の声は千変万化する。その響き全てに、野々は身を委ねてしまいたくなるほどに揺さぶられていた。

「我が命は、生命の源は、すべて貴方のためにある。あの悪しき慣習を打ち破り、貴方と共に生きるためなら、いかなる艱難辛苦にも耐えて見せよう。私のすべては我が花のために。剣を携え、私は行こう……我が麗しの、花のために」

 千夜は、開いた時と同じように静かに、本を閉じた。それを見て、聴衆は一斉に息をついた。あまりにも集中して聴いていたために、肉体よりも精神が疲弊しているのを、彼らは感じた。だが、それは同時に、大層心地よいものだった。耳が未だに、千夜の声の残響を貪っているような気すらする。椅子から立って礼をした彼女に、聴衆は一斉に拍手をした。野々も、その優れた朗読に、心の底からの拍手を送った。

 時間にして、およそ十数分だったろう。が、野々にとって、そして恐らくは他の殆どの聴衆にとって、千夜の朗読は一瞬の出来事だった。叶うものなら、あと一時間以上は聴いていたいくらいだったが、そうもいかない。拍手をしながら、桜屋敷も自分と同じように感動したのだろうと隣を見て、野々は驚愕した。桜屋敷は、寝ていたらしい。野々の視線と拍手の音でようやく目を覚まし、小さく欠伸をしながら、未だ眠たげに手を叩いた。

 そう言えば、図書室に入ってからというもの、桜屋敷は随分大人しかったが……さては日頃本を読まないせいで、本の朗読に興味をそそられなかったのだな。野々は信じられないものを目の当たりにしたような気がした。

 まだ拍手は続く。その中で、千夜が二人に向かって小さく目礼をしたのに、野々は気が付いた。朗読しながらもこちらの存在を把握していたということか、と、野々はその観察眼に舌を巻いた。朗読中、こちらに目を向けるようなことは無かったと思うが、一体いつ気が付いたのだろう……。

 思わず考えに耽りそうになる野々だったが、すぐに拍手をやめて手慰みとばかりに紙コップを折りたたみ始めた後輩の態度に気が付いた。そこで、さっと虎渡に礼をし、退屈そうな桜屋敷の袖を引いて、図書室を出たのだった。

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