第十八節

 野々が帰宅したのは、午後十時過ぎだった。比較的早く帰れた方ではあるが、それでも身体は疲弊しきっている。少し休まないことには一歩も動けそうにない。スーツに皺が付いてしまう、と思いながらも、野々は力なくソファに横たわった。見たところ、まだ兄は帰宅していないようだった。今日も遅くなりそうな兄のことを心配しながら、野々の頭はまだ仕事のことで一杯だった。一つの事件の解決の糸口も見えていないというのに、重ねてもう一つ、事件が起きてしまった。同じ市で起きた事件なので、自然、どちらも自分と桜屋敷が担当することになる。それは良い。ただ、どうにも掴みどころのない事件で、それが彼女の頭を悩ませていた。

 二つの事件が関連していることは、分かり切っていた。それは、被害者の遺体に共通する、ある事項のおかげだ。だが、犯人の思惑は全く分からない。一人目の遺体は、なぜか衣服で隠れる箇所ばかり痛めつけられていた。それは愉快犯や通り魔のような快楽殺人とは違って、むしろ虐待かいじめのような陰湿さを感じさせるやり方だ。だが二人目の遺体は、体中を嘗め回され、口づけまでされた後に殺されるという、性的倒錯の趣を持っている。ここまで殺され方に違いがあるせいで、同一人物の犯行とは、到底思えないのだ。

 しかし、と野々の連想は働く。

 朝、急いで出かける準備をしている時に耳に飛び込んできた報道番組は、どうも過剰なまでに二人目の死因を煽り立てていたような気がする。不二井朱華は、体中を嘗め回され、口づけされた。それは、彼女の皮膚や口腔粘膜から採取された成分から分かっていることだ。確かに聞いた者が思わず眉を顰めたくなるような、気味の悪い行為の跡だ。だが、「それだけ」だ。不二井朱華は、決して性的暴行など受けてはいない。体中を嘗め回される、という行為は暴行と言ってもいいのかもしれないが、報道番組が殊更に強調するような意味の性的暴行は、彼女は受けてはいないのだ。嘗め回され、口づけまでされ、それなのに、それだけで終わっているのだ。だから、犯人が何者なのか、どうしてそんなことまでした上で殺して、それだけで終わらせたのか、野々には全く納得がいかないのだった。

 そうした遺体の状態などにも不可解なことが多いが、捜査の方向性が定まらないのは、被害者の二人が誰からも恨みを買うような人間ではなかったということが、最も大きかった。正月一日月白も不二井朱華も、素直な性格で、周りから愛されていたことが分かっている。だが、遺体の状態を見ると、犯人は被害者に対してある種の執着を抱いていたに違いないと断じてしまえる。いくら近辺を洗っても、そんな執着を持ちうる人間が見当たらないというのに、だ。今日までに行った被害者周辺と遺体の発見場所周辺の聞き込みからは、そうした情報は全く手に入らなかったし、遺体から新しい情報を手に入れることも、おそらく不可能だろう。あそこまで「殺し方」に念を入れたからには、通り魔的な犯行である可能性も低い。元々、それほどの恨みを抱いていた訳ではない人間が、突発的な諍いから殺した可能性も、同じく低い。そうなると、あとはもう、こちらも犯人に負けないくらいの執着をもって、僅かな可能性を掘り下げていくしかない。完全に根競べだ。

 果たして、自分たちはそれに勝てるのだろうか。

 仰向けになって、電灯の灯りを遮るように腕で顔を覆った時、唐突に、赤羽千夜と名乗った女子生徒の顔が脳裏に浮かんだ。

『刑事さんは、寂しそうですね』

 それだけ言って、去ってしまった少女。

 なぜ、彼女はあんなことを言ったのだろう。野々は閉じた目の裏に、その時の状況を再現した。美術室の後ろの方、彼女の作品の前で、自分の目を見ながら……。野々は、少なくとも警察に入ってからは、誰かに自分の気持ちを悟られたことなど無かった。ましてや、二言、三言、聴取しただけの相手から、自分の根本を揺るがされるようなことを言われたことなどあろうはずも無かった。相手を追い詰めこそすれ、相手に追い詰められるようなことは、彼女のキャリアの中には無かったのだ。相手の表情を読んで、それに合わせた声色、語調で、相手も気づかぬうちに搦めていくのが野々の聴取の真骨頂だ。それでどうにか解決に導くことが出来た事件も多数ある。自信は無くとも、実績ならあった。だが、あの少女はどうしたことだろう……。

 野々は、千夜という少女の表情と言葉が、ぐるぐると回りだすのを感じて頭を振った。違う、と否定した。私は、寂しくなどない。

 千夜の顔に並んで、大学生の時に交際していた男の顔が浮かんだ。別れを切りだしてきた時の表情そのままの顔で、男の口が動く。

『お前には失望した』

 まるで今、耳元で言われたかのように、野々は身を震わせた。思い出したくもない記憶が、思い出したくもない記憶を引き連れて、押し寄せてこようとする。思い出のなり損ないが、押しつけがましく存在を擦り付けようとしてくる。野々は身をよじるようにして、頭の中で叫ぶ。違う。私は寂しくなどない……ただ、今は他の人間を必要としていないだけだ……。

 悪夢の予感に苛まれながら、野々はやがて意識を手放していった。

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