第十六節

 放課後、千夜は美術室で絵筆を振るっていた。作品は完成に近づいており、赤と黒の塊が画面の中央から隅々にかけて飛沫を上げている。朱華を失って殊更に静かな美術室で、部員たちは全員真剣に作品を見つめているが、千夜の入れ込み具合はそれら雑念を抱えた生徒たちの比ではなかった。集中という次元を通り越して、絵の中に没入していた。キャンバスと絵具で作られていく世界は他者の介在する余地のない、完璧な自分だけの世界だ。

 千夜は、今日、柚葉と交わした会話を思い出していた。来週の月曜日に図書室で朗読を行うという話をすると、柚葉は「絶対行くからね」と笑顔で答えてくれたのだ。純粋で、混じりけなく、自分に対する好意を内在した、あの笑顔。ああ、あの笑顔を。

 千夜は唇が笑みを形作ろうとするのを必死で抑えた。手に入れた自分だけの貴重な玩具を、ほんの気まぐれで壊してしまう、その楽しみを最大限に味わうためにも、今は不用意な行動を慎まなくてはいけない。……しかし。

 筆さばきが、増々速まっていく。昨晩、自分の腕の中で小さく喘ぎながら目を閉じていた朱華のことを思い出す。朱華は自分に最大の信頼を置いていた。自分に憧れ、自分を好いて、懐いていた。あの腰の細かったこと。肌の滑らかだったこと。髪の毛の繊細な輝きも、涙で潤んだ瞳の輝きも。自分の指の動き一つ一つに敏感に反応したその神経も。……今は無い。それというのも、……。

 ばきり。

 何の音かと思った千夜の手の中で、絵筆が綺麗に折れていた。ぼうっとそれを見つめていたところに、声が掛かった。どこかで聴いた声だ、と曖昧な記憶をたどり、ようやく千夜は我に返った。振り向くと、そこにいたのは桜屋敷と野々の二人だった。恐らく、自分が気が付かなかっただけで彼らはさっきからずっと美術室にいたのだろう。それに部員たちも気が付いていて、ずっとざわついていたのだろう。周りの部員たちの反応から、千夜はすぐに状況を理解した。

 桜屋敷が不思議そうに千夜の絵を眺めながら言った。

「赤羽さんは美術部にも所属していたんだね」

「……ええ」

 美術部かあ、すごいなあ、と能天気に呟く桜屋敷の後ろで、野々が千夜の手の中で折れた筆を見つめている。それに気づいて、千夜はさりげなく筆を死角に置いた。

「美術部兼図書局員、なら、他にも何人かいますわ」

「ああ、そうみたいだね。昼休みに話した子がここにもいたから、ちょっと驚いたよ」

 桜屋敷は饒舌だが、野々は先ほどから一言も発さずに、じっと千夜を見つめている。千夜はそれに気が付きつつも気にすることなく、桜屋敷との会話を続けようとした。そこへ、鈴得が現れた。

「相変わらず破壊的な絵だね。本当、君はどこに向かっているんだか」

 そう言って、千夜の反応を待つことなく、二人の刑事を伴って、教室の前側へと歩いて行った。部員たちも絵筆を置いて、顧問の方に体を向ける。元々、血色のよい方ではない彼女の顔は、今日は余計に青白く見える。

「さて、君たち。まずは、昨晩亡くなった不二井のために、黙とうを捧げよう」

 鈴得の言葉で、生徒たちは一斉に頭を垂れた。この一週間で、この動作に慣れ始めていることに、衝撃を受ける者も中にはいた。数十秒で鈴得が手を叩き、黙とうは終了した。再び鈴得が口を開く。

「それで、ここからが本題だ。君たちの中には図書局と兼部している者もいるから知っている者も多数いるだろうと思うが、紹介しよう。こちらのお二方は、野々警部補と桜屋敷巡査部長。最近起こった事件の捜査をなさっている。今日はお二人の要請で、先日亡くなった不二井についての話を教えて差し上げて欲しい。君たちの言葉で、不二井の無念を晴らすことが出来るかもしれない。ぜひとも、協力をお願いしたい」

 そう言って、鈴得は頭を下げた。普段、人を食ったような態度の顧問のその行動に、部員たちは目を見張った。しかし、日頃から不二井のことを可愛がっていた鈴得の姿を思い浮かべると、それも納得のいく話だった。

 鈴得の話の後で、野々が前に立って説明をした。流れは図書局の聞き取り調査の時と同様だったが、今回は、待機する部員たちは廊下に出されてしまった。図書室とは違って、美術室には待機していられるスペースは無いのだ。また、図書局の時とは刑事の役割が変わっており、今回、部員たちから話を聞いたのは野々だった。桜屋敷は廊下で、鈴得と立ち話を始める。

 顧問と刑事の立ち話がフェイクであることを、千夜はとうに見抜いていた。もちろん、実際に会話をしているのは確かだが、刑事たちはそうしながら、待機している生徒たちの様子を見ているのだ。千夜は、桜屋敷の生徒への視線の向け方があまりにも不自然なのに、むしろ微笑ましさすら覚えながら壁に寄りかかって待機していた。

 千夜が呼ばれたのは、やはり終盤だった。今回は部活の時間中なので、聴取を終えた部員たちも廊下で待っている。ただ、桜屋敷がいることもあって、自分たちが聞いた話の内容について言葉を交わすようなことは無かった。沈んだ面持ちの彼らを尻目に、千夜は美術室へ入った。

 野々が、部屋の奥、千夜の作品の前に座って待っていた。

「赤羽さんは、図書室でもお話を聞かせてくれましたね。ご協力、ありがとう」

 野々は、気軽な調子で言う。千夜はその正面に座った。

「警察の方々は、私の大切な後輩に残酷な仕打ちをした犯人を捜してくださっているんですもの。いくら協力してもし足りないくらいですわ」

「そう言ってもらえるとありがたいですね」

 野々はゆっくりと手帳を開き、ボールペンのペン先を繰り出した。机ではなく、組んだ足の膝にそれを置き、あくまでリラックスした姿勢で、千夜を見つめた。こげ茶色の瞳を、千夜は真っ直ぐ見つめ返す。

「では、質問ですが……先ほど、月白さんについて、桜屋敷が聞いたのと同じ質問です。不二井朱華さんとは、どのような関係でしたか」

 その質問に、千夜の顔には微笑みが広がる。

「不二井さんは……、私のことを、とても慕ってくれていました」

「どれくらい?」

「それはもう、……とっても、ですわ」

 その微笑みの意味は、野々をしても捉え難いものだった。何か意味を求めれば無限に求めることが出来そうな笑みでありながら、無意味で、空虚なものにも思える。しかし、言葉には偽りはなさそうだ、と野々は判断した。

「では、二つ目の質問です。不二井さんが誰かに恨まれていた、ということはあると思いますか」

「いいえ。とんでもない。不二井さんは、誰からも愛される、愛らしい子でした。あの鈴得先生でさえ、彼女にはチョコレートをあげて可愛がったりなどしていたほどですから」

 それは初耳だったが、野々はひとつ頷いてメモを取るに留めた。野々は、赤羽が筆を折るのを目撃した時、物静かな印象の彼女が実は激情家なのではないかと疑っていた。がしかし、このやり取りの中で、激情家かそうでないか、という単純な分類に収めてしまえるものではないと判断した。人間の大部分がそうであるように、赤羽千夜もまた、その心中に様々なものを抱えている気がしたのだ。

 千夜は、もう戻って良いと告げられたにも関わらず、すぐには動こうとはしなかった。そうした反応は、何か警察に言いたいことがある人間に特有だ。どうしたのかと野々が尋ねようとした時、千夜は全く意外なことを口にした。

「刑事さんは、寂しそうですね」

 野々は、その言葉に打たれたような気がした。あまりにも意外な場面で自分の臓物を曝け出されたような不快感と、それをこの数分間でやってのけた目の前の少女への驚きとで、言葉が出てこない。小さく唇を開いた野々に、それ以上何も言うことなく、千夜は静かに美術室を出て行った。野々は何かを探そうとするかの如く、硬直したままで、その後姿を凝視していた。


 聴取は終わり、美術室は部員たちに明け渡された。野々と桜屋敷は部員たちに礼を言い、美術室を出た。校舎の北側だからだろうか、ひんやりとした空気が、ジャケット越しにも肌を刺す。桜屋敷は、野々に何と声を掛けるべきかと迷った。敬愛する先輩は何か考えごとに没頭しているようで、先ほどから声を掛けられる雰囲気では無くなっていたのだ。野々は顔の脇に垂れてきた髪の毛を耳の後ろに押し込みながら、口元に手を当て、目を伏せている。いつも冷静な野々からは考えられないほど、周りに気を払うことが出来ていない。いったい、何をそれ程考えているのだろう、と桜屋敷は心配になった。今回の事件で初めて、警察になるきっかけを与えてくれた野々と組むことが出来た桜屋敷は、捜査中殆どずっと、彼女の横顔を見つめていた。その彼だからこそ、今の野々の頭の大半を占めているのが事件に関することではない、と直感したのだ。

 野々は、捜査中にそれ以外のことを考えるような人ではない。それだけに、彼女が一体何に思考を集中しているのか、尋ねるのが怖かった。しかし意を決して、桜屋敷は隣を歩く野々に話しかけた。

「野々警部補。今の聴取で、何か分かりそうですか」

 ひょっとすると答えが返ってこないかもしれない、という覚悟までして発した問いだった。が、野々の口からはすぐに答えが返って来た。

「うん。やはり、怨恨の線は薄そうだね。不二井朱華さんも、誰からも愛されるような生徒だったらしい。不審者情報もなく、怨恨の線も薄い。となるともう……」

「場当たり的、通り魔的な犯行ですね」

「うん。でも、それも考えにくいからな……どうしたものか」

 桜屋敷は、野々から普通の言葉が返ってきたことに安堵して、肩の力を抜いた。やはりこの人は、自分の知っている野々警部補だった。

 野々は桜屋敷の心配など知る由もない。ただ、桜屋敷に話しかけられるまで、捜査に関係のないことに思いを巡らせてしまったことを、後悔していた。とんだ時間の浪費をしてしまったものだ。この損失は、これからの捜査で必ず挽回しなくてはならない……。

 野々と桜屋敷は次なる一手を打つため、お互いの得た情報を交換し始めた。


 午後七時、千夜は自宅の居間で椅子にもたれて、ぼんやりとテレビを眺めていた。特に見たいわけでもなかったニュース番組で萌芽学園の女子生徒殺害事件に関する報道が始まったので、ようやくまともに画面を見た。「女子学生連続殺人事件」という文字が派手な字体で掲げてあり、男性アナウンサーが掲げたホワイトボードには「ナンバリング殺人の可能性」と書いてあった。

「G町で今週相次いで起こった二つの殺人事件ですが、被害者の名前にはそれぞれ『一』と『二』という数字が入っており、ひょっとすると名前に数字の入った人間が順番に殺されていくのでは、などという説が、まことしやかにSNS上などで囁かれております……」

 千夜は、荒唐無稽な説に目を輝かせた。マスコミというものは、なぜそうも無意味なところに目を付けるのだろう。画面の向こうで、アナウンサーが知識人らしき老人にマイクを向けた。老人は堅苦しい口調で眉をしかめながら話す。

「一つ目の事件の被害者は、服で隠れる箇所への蹴り跡、殴打跡が多数見られたことから、打撲による内臓破裂が死因であると考えられています。対して二つ目の事件の被害者は、体中を舐めまわされて、性的暴行を受けた後で絞殺されたと見られています。二つの事件はあまりに趣の異なるものであり、同一犯による犯行と考えるのは強引ではないかと……」

「面白い発想だろう。ナンバリング殺人」

 いつの間にか後ろに立っていたらしい千代己が言う。千代己は長くよく動く指を千夜の髪の毛の間に差し入れ、さらさらと梳かした。

「しかし、朱華ちゃんは可愛いらしい少女だったな」

「そうでしたね」

 千夜はされるがままに髪の毛を弄られながら、薄く微笑んだ。

 その視線の先には、やはり母の遺影が、二人に向かって置かれていた。

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