第十二節

 午後十時、千夜の家を訪れたのは不二井朱華だった。清楚な印象を抱かせるフリル付きのブラウスに、いつもパンツスタイルの彼女にしては珍しいチェック柄のスカート、白い厚底サンダルといった出で立ちで、玄関前に立って深呼吸しているところを、裏庭から出てきたらしい男性に見つかった。

「おや、千夜のお友達かな。こんばんは」

「あ、こ、ここここんばんは」

 どもりながらも頭を下げて、朱華は目の前に立つ男性をまじまじと見つめた。年齢は、自分の父と同じ四十代くらいだろう。痩せ型で色白、整った顔に眼鏡が馴染んでいる。しわ一つないシャツに折り目のついた黒スラックスといった出で立ちは、今の今まで会社にでも行っていたみたいだ。

「あの……」

 ものといたげな朱華の視線に気が付いて、男性は柔らかく笑った。

「ああ。私は千夜の叔父で、千代己といいます。初めまして」

「あ、千夜先輩の叔父さんなんですね! 初めまして、美術部でお世話になってます、不二井朱華です!」

 相手の正体が判明してホッとした朱華は、元気良く挨拶した。千代己は、その無邪気な様子に目を細める。

「あの……今夜は千夜先輩からお招きいただいたんですけど……」

「そうだったんだね。千夜は今、部屋にいるよ。呼んで来よう。さあ、入って待っていて」

 千代己は朱華を玄関に残して二階へ上がって行った。朱華は立ったまま、きょろきょろと家の中を見回した。玄関から見える範囲には居間に続く廊下と、二階へ続く階段があるようだ。また、玄関のすぐ横にある扉はきっとトイレだろう。その隣の部屋は浴室かもしれない。しかし、どこもドアが閉まっていて、中の様子を窺い知ることは出来そうもない。

 ここが千夜先輩の暮らす家か、と、朱華は目を輝かせて待った。少しして、千代己と千夜が階段を下りてきた。

「千夜先輩! ……うわあ可愛いです!」

 朱華は声を弾ませた。初めて見る千夜の私服は、黒い半袖ワンピースで、千夜の透き通るような肌の白さを引き立たせていた。

「不二井さん、いらっしゃい。不二井さんも可愛いわよ」

「いえいえ、全然そんなことないです……」

 朱華は心の底から否定する。千夜のように美しい人間がいるのに、自分などが可愛い筈はないし、そんな価値を持つのもおこがましい、と本気で思っていた。

「お邪魔します」

「はいはい。ゆっくりしていって」

 千代己に見送られ、二人は二階へ上がった。二階には三部屋あり、千夜は右端の部屋のドアを開けた。千夜の私室らしい。中には殆ど、物が無かった。小さな勉強机と、その後ろに大きな鏡台がそれぞれ壁際に配置されており、奥の壁には質素なベッドが置いてあるだけだ。鏡台がとりわけ立派なのと、部屋の真ん中にイーゼルが置かれているのは目を引くが、他には特筆すべきものも見当たらなかった。

「わあ……シンプルなお部屋ですねえ」

 朱華は、昆虫モチーフの飾りやらぬいぐるみ、好きなアーティストのポスターにたくさんのビジュアル雑誌が所狭しと置かれた自分の部屋を思い浮かべて、素直な感想を口にした。

「そうでしょう」

 人によっては悪口とも捉えかねない朱華の感想をそのまま受け止め、千夜は後ろ手にドアを軽く閉める。

「それにしても、千夜先輩の叔父さん、イケメンですね! うちのお父さんも結構イケメンなんですけど、それとはまた違ったタイプの……知的な感じが素敵でした」

「……そうかしら?」

 千夜は全く同意しかねる風に首を傾げる。千代己の容姿について考えたことなど無かった。朱華は「叔父さんがあんなに格好いいとなると、千夜先輩のご両親は物凄く美形なんでしょうね! いつかお会いしてみたいです」と空想を膨らませている。父親には既に会っているのだが……、と千夜は少し面白く思ったが、すぐに忘れてしまった。

「さあ、それじゃあ不二井さん。早速ポーズを決めましょうか」

「…………!」

 それまで軽い口調でおしゃべりを続けていた朱華だが、千夜のその言葉で再び緊張したらしく、イーゼルに設置されたキャンバスの前で、しゃんと背筋を伸ばした。自分が入学してから二年間、ずっと千夜に頼み続けてきた、自分をモデルとした絵……それを、ようやく書いてもらえるのだ。

「もっとリラックスしてちょうだい。でないと、良い絵が描けないわ」

「は、はい」

「それじゃあ、好きにポーズをとってみて」

 言われて、朱華は雑誌の読者モデルを真似て胸を張り、腰に手を当てて笑顔を作った。千夜はキャンバスの前からその様子をじっと見つめていたが、やがて持っていた画材を机に置いて、朱華に近寄って行った。

「そのポーズを軸に、調整しましょう」

 言いながら、千夜は朱華の腕を取って角度を直し、顎の上げ具合や腰のひねりなどを細かく直していった。その間中、ちゃんとしたポーズを取らなくてはという義務感や、千夜にあちこち触られる緊張感などから、朱華は表情を硬くして待っていた。しかし、心の中は昂揚感で満たされていた。憧れの千夜に、ポーズをつけてもらっている、その状況に、朱華の胸はいっぱいだった。

「さて、こんなものかしら」

 千夜が手を止めて、全体を見るように視点を変えていく。朱華の視界から千夜が消え、右後方の辺りで立ち止まったのが分かった。一瞬、緊張を緩めた朱華は、不意に腰に手を回されて小さく叫び声をあげた。

「せ、先輩……?」

 また調整か、と思っていると、腰に回された手が、その感触を楽しむかのように優しく動いた。

「…………っ」

 ポーズの調整などではない、と、朱華は本能的に理解した。千夜の左手は腰から左の腿にかけて優しくゆっくりと撫でおろしていく。右手は腹部から胸にかけて、指先で水面をなぞるように撫で上げていく。敏感な神経の近くをわざと素通りしていく千夜の指は、くすぐったさと同時にもどかしい疼きを生んでいく。緩く解されるような心地よさに恍惚としていると、首筋に生暖かく柔らかい何かが這うような感覚がしてぞくりとした。千夜の舌だ、と気が付いた時、朱華は小さくうめいた。自分が砂糖菓子か何かにでもなったような錯覚に陥る。千夜の両手はその間にも絶え間なく動く。内またを何度も撫でられて、朱華は立っているのもやっとだった。

「千夜先輩……」

 千夜は答えず、耳元で小さく笑うと、そのまま耳朶を咥えて甘噛みした。朱華がこらえきれずに嬌声を上げると、その声を抑え込む如く、朱華の小さな唇に、自身の唇を合わせた。うっとりと目を閉じ、千夜に全てを預けるつもりの朱華の耳に、千夜が立てるものではない音が聞こえたような気がした。だが、それに注意を傾ける前に、唐突に、すべての感覚が消失した。

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