第十一節

 二人の刑事が出て行った後、至極と虎渡は残っていた作業に取り組んでいたが、それもすぐに終わらせることが出来た。虎渡はまだ仕事があるからと部室に残り、至極は帰り支度を済ませて図書室を出た。腕時計は六時五十分を指している。

 すっかり暗くなってしまった空を窓越しに見ていた至極だったが、そこに自分の疲れ切った顔が反射しているのに気づいて思わず目を逸らした。月白が死んでから、ろくに眠れていないことを思い出す。重い足取りで歩きだした時、前方から、言葉を乗せた軽やかな風が吹いた。

「五十里君。こんばんは」

 俯いていた顔を上げると、そこには千夜が立っていた。

「赤羽先輩……どうしたんですか? あ、虎渡先生ならまだ部室に」

「五十里君に用事があって来たのよ」

 至極の言葉の端を緩やかに押し返して、千夜は至極に歩み寄った。

「俺に……ですか?」

「ええ。朗読会で読む本について、相談したかったの」

「ああ、なるほど。分かりました。俺でよければ……。ただ、俺、もう帰るところで……」

 至極は失礼にならないようにと言葉を選んだ。本当は一刻も早く家に帰って、何もかも忘れて眠ってしまいたかった。が、自分の言葉に嬉しそうに笑う千夜の表情を見て、そういう自分の思考こそが失礼だったと気付き、ぎこちない手つきで前髪を弄った。

「ありがとう、五十里君。大丈夫よ、玄関まで一緒に歩いて話をさせてもらえれば、それで十分。ね、一緒に歩きましょう」

 そう言われては、断る理由など思い当たらなかった。至極と千夜は並んで歩き出した。

「それで、赤羽先輩はどんな本を読もうとお考えなんですか」

「そうね。『夜と霧』とか『罪と罰』……ゴーリキーや芥川なんかも良いかしら。案外カフカなんて読んだら、意外性があって楽しいかもしれないわね」

「な、なるほど……」

 千夜が歌うように挙げた書名を聞いて、至極は視線を宙に向けた。読書家の至極はもちろん全て読んだことがある本ばかりだが、しかし……。

「赤羽先輩、正直に言いますと、その選書では暗すぎます。特に、このタイミングでそれはちょっと、どうかと……」

 このタイミング、というのは、学園の女子生徒……月白が殺害されたタイミング、という意味だった。千夜がかすかに息をのんだ気配が伝わってきた。

「なので、もう少し明るめの……聴いている人も前向きになれるようなものが良いかと。それと、先ほど赤羽先輩が挙げてくださったのは長編作品が多かったので、綺麗にまとまった短編の方が、朗読会には向いているのではないでしょうか」

 何本か思いついた本を口にしてから、少しダメ出しし過ぎただろうか、と思った至極だったが、その心配は杞憂に終わった。千夜はにっこりと笑い、何度も頷いた。

「そうね、五十里君の言うとおりだわ。私には無い発想で、素晴らしいわ」

 千夜の笑顔は、至極が思わず息をのむには十分すぎるほどに、怪しい魅力があった。しかし次の瞬間、彼の胸中には月白の笑顔がよぎった。

 急に黙ってしまった至極を横目に見ながら、千夜は言葉を続ける。

「そう言えば、今頃、正月一日さんのお通夜をやっているんでしょうね」

 至極の顔はますます強張る。

 月白の遺体は事件の翌日に家族が引き取ったそうで、その二日後となる今日がお通夜らしいと噂に聞いていた。だが、家族うちでひっそりと行うからと、学校関係者の参列は事前に断られたという話だった。

「正月一日さん、朗読会が好きだったわね……。黙って一人で読むのも好きだけど、声に出して物語を表現するのがとても面白い、と言っていたわ。時々、本を戻すときに違うところに戻してしまうこともあったけれど、そういうところも可愛かったわね」

 しみじみと、月白の思い出を辿るような千夜の呟きを聞くうちに、至極の胸の内に、月白のあどけない笑顔や人見知りをするときの表情が浮かんできた。人といる時には努めて思い出さないようにしてきた月白の姿が鮮やかに思い出され、瞼の裏でぼんやりと滲んでいく。

 立ち止まって俯いてしまった至極に気づいて、千夜も足を止めた。

「五十里君……」

 千夜は、下を向いた至極の視線に自分の視線を絡めるように、至近距離で彼を見上げた。

「五十里君は優しいのね」

 背筋を撫でられた。

 そんな気がしてぞくりとする。至極はその感覚に、嫌悪感にも似た快さを感じて混乱した。千夜の言葉が消えた後にも続く、甘ったるいような怖いような感覚に身をすくめる至極から、千夜はふっと離れた。

「五十里君が教えてくれた本を、今度読んでみるわ」

 朗らかな声だった。

「それで五十里君、その本の中から、朗読する箇所を一緒に考えて欲しいの。明後日の金曜日、図書館が閉まってから、二人で。……どうかしら」

 至極はくらくらする頭を押さえて、かろうじて頷いた。千夜の満足気な微笑みが心臓に釘を刺す。その時、彼は既に玄関にたどり着いていたことに、ようやく気が付いた。


 柚葉は午後七時に学校を出た。天候が悪いのか、外は思ったよりも暗い。セーラー服の半そでからむき出しの腕を抱えるようにして、学校の敷地外へと歩き出す。一緒に練習していた部員達は柚葉よりも大分先に練習を切り上げて帰ってしまったし、事件のこともあって先生方から煩く言われたせいか、ほかの生徒の姿も全く見えない。近所の住人も同様だ。玄関を出る前には小さく話し声が聞こえた気もするが、今この道には自分一人しか歩いていない。

 柚葉は急に寒気を覚えて、足を速めた。学校の正門を出てすぐの住宅街は、いつも以上に静かな気がする。きっと、事件が起きたのも、こんな夕方だったに違いない……。

「四十川さん?」

「ひっ……」

 背後から名前を呼ばれて、柚葉は喉の奥でひきつった声を上げた。恐る恐る振り返ってみると、そこには千夜が立っていた。右手に学生鞄を提げている。

「赤羽さん……! なんだ、良かった……」

 ほっと胸に手を当てる柚葉に、千夜は首を傾けた。

「どうしたの、四十川さん……何が良かったの?」

「ううん。ちょっと……。それより赤羽さんは、この道を通って帰るの? 良かったら途中まで一緒に帰らない?」

「ええ、そうしましょう」

 柚葉と千夜は、人気のない道を並んで歩き出す。少しの間だけでも一人で歩かなくて済んで良かった、と柚葉は内心胸をなでおろした。

「それにしても四十川さん、随分帰りが遅いのね」

「ああ、そろそろ大会が近いからさ。去年はあんまり良い結果を残せなかったから、今年はもっと頑張らないとね」

 去年は三年生に混じって出場した柚葉だったが、予選の時よりも良いタイムを出すことが出来ず、入賞にも届かなかった。その時の悔しさと、先輩が卒業するときに掛けてくれた言葉の数々が、今の彼女を支えているのだった。

「そう言えば、私、美術室から四十川さんが走っている姿を見たわ。すごく頑張っているのね」

「えへへ……見られてたか。色んな人が応援してくれているからさ、今度こそはって、思っちゃうんだよね」

 柚葉は照れ笑いをして、肩にかけていたリュックサックを持ち直した。

「私って昔からそうで……。もちろん、タイムが縮んだら嬉しいよ。自分の記録を自分で塗り替えていくのって、この競技の醍醐味だし。でも、走ってて一番嬉しいのは、私に期待して、応援してくれていた人たちが、喜んでくれた時なんだよね。苦しくても、悔しくても、走り続けていて良かった、って思えるんだ」

 そうなの、と千夜が絶妙な間で相槌を打つ。柚葉の言葉は続く。

「最初は応援って言っても家族だけだったんだけど、今じゃ、これまで関わってきた部活の人や他の学校の人までが応援して、声を掛けてくれてる。本当にありがたいことだなって、私、毎日思ってるんだ。それでも、一番期待してくれてるのは、やっぱり家族なんだけどね」

「家族……」

「うん。特に、弟がね、毎日、私のタイムのことを気に掛けてくれてるんだ。ひょっとしたら私以上に、かもしれない。そのくせ、自分は運動嫌いで、体育の時間はいつも居残りさせられてるらしいんだけど」

 そういうところも可愛いんだけどね、と、柚葉は目を細める。

「良い弟さんなのね。何歳なの?」

「今、小学四年生。あの年頃だと、やっぱり運動できる子がモテるらしくて、全然女の子と話せないんだって。ふふっ。休みの日に誘っても一緒に外で遊ぼうとしないし、本を読む方が楽しいらしいから、仕方ないよね」

「そう……」

 千夜の相槌のトーンが、少しだけ低くなったように思われた。

「弟さん以外に、兄弟はいるの?」

「ううん、いないよ。二人兄弟。ちょっと年が離れてるから喧嘩もしたことないし、自分で言うのもなんだけど、結構仲良いんだ」

 頬を緩める柚葉とは対照的に、千夜は視線を落とした。自分は何かまずいことを口にしたのだろうか、と柚葉は急に心配になる。千夜は、彼女にしては珍しく、沈んだ口調で呟くように言った。

「私には兄弟がいないから、羨ましいわ。……実は私、今は両親とも離れて暮らしているの。ちょっと事情があって……叔父さんの家から学校に通っているのよ」

「……そうだったんだ」

 そんな事情があったとは露知らず、自分は随分と酷い自慢話をしてしまったのかもしれない。柚葉は千夜に申し訳なく思った。千夜はしかし、痛みを誤魔化すように笑う。

「だから私、家族団らんというものに興味があるのよ。皆で集まってご飯を食べたりテレビを見たり、楽しくおしゃべりをして過ごすんでしょう。四十川さんのお家は理想的だと思うわ」

「…………」

 何と返せばいいか分からず、柚葉は靴の爪先を見つめる。こういう時、無責任な言葉で励ましたり、冗談で混ぜ返したり出来る無邪気さが欲しかった。でも、柚葉には、少しでも相手に前向きになってもらえるような言葉を探すことしか出来ない。

「赤羽さんも、いつかそういう家族が作れると良いね。今は無理かもだけど、まだまだ人生長いんだし。赤羽さんみたいに頭が良くて、その……美人なら、きっと良い家庭を築けると思うよ」

 人の容姿に関する言葉を使うのは、なんだか気恥ずかしい。最後の言葉を言う時に、柚葉は少し突っかかった。

「それは、結婚の話?」

「う、うん……。あ、いや、別に私が結婚についていつも考えている訳じゃないからね。そんなのまだ早いけどさ、けど……」

 柚葉が早口で言うのを、今度は本当に楽し気に笑って、千夜は遮った。

「いいえ。四十川さんなら、きっと良い家庭を築くことが出来るわ。だって……」

 こんなに可愛くて、良い人なんだから。

 柚葉は足を止め、耳まで真っ赤にして、口を開いて、また閉じた。

「私も、四十川さんみたいな人となら、結婚してもいいかもしれないわ」

 それはどういう意味、と尋ねることすら出来ず、柚葉は唸るような変な声を出す。からかわれているのだろうか、でも、そのくらい彼女が元気を出したということなら、それはそれで良いことなのかもしれない……それにしても、どういう意味なのだろうか。頭の中でぐるぐると思考を巡らす柚葉に、千夜は暫く楽し気にくすくすと笑っていたが、不意に笑いを収めてしまった。耳に戻ってきた静けさに気付いて、柚葉はようやく千夜をまともに見た。千夜は、いつものように穏やかな表情で、辺りを見回していた。

「…………どうかしたの?」

 柚葉がおずおずと聞く。

「……ここはね、二日前に、中等部の女の子が殺された辺りなのよ」

「え……」

 それまでの身体の火照りが嘘のように、柚葉は肌が粟立つのを感じた。

「警察の捜査は夜のうちに終わってしまったから、跡も全然残っていないみたいね。だから、殆どの人はここだと知らないで通り過ぎているみたい」

 確かに、報道で映された道路は何の変哲も無かったため、大方の番地が分かっても、その中の何処かまで特定することは難しかった。柚葉は、テレビを見ながら父が頭をひねっていたことを思い出す。

「だから、献花とかも見当たらなかったんだ……」

「ええ。私も、図書局の顧問の先生から聞かなければ、知らずにいたわ」

「図書局の……。まさか」

「そうよ。殺された女の子も図書局員だったの」

「そんな……」

 決して他人事だと思っていたわけではない。むしろ、いつ自分の身にも同じような恐怖が降りかかってくるか知れない、と恐れていたほどだ。だが、ここまで身近に、被害者との繋がりがあるものとは思っていなかった。柚葉はそれまで感じていた寒気が、別の感覚に変わったのを感じた。それは、目の前の傷ついた級友に、寄り添ってやらねばという、義務感にも似た感情だった。

「赤羽さん……辛かったね」

 千夜は口にしないが、長い時間を共にした後輩の存在は大きかったことだろう。それが一夜にして命を奪われ、もう二度と会うことが出来なくなってしまったのだ。その悲嘆はどれほどだったか。柚葉は、事件の翌日、千夜と交わした会話を思い出した。あの時千夜は、犯人への恐怖を語った。しかしそれは、怒りの感情に裏打ちされたものではなかったか。身近で親しい人間を突如奪われた怒りが、恐怖に変換されて表出したのでは。自分が警察の優秀さや防犯について語った時も、きっと千夜はその感情と戦っていたのだ。「優しいのね」というあの時の言葉も、事件をセンセーショナルに語ることを避けたことに対する言葉だったのかもしれない。

 柚葉は一瞬のうちにそこまで考え、千夜の左手を、元気づけるように握った。その手は微かに震えていた。触れなければ分からなかった、彼女の機微に気づくことが出来たことが、柚葉にとっては安堵すべきことだった。

 千夜はそれ以上何も語らず、柚葉も敢えて何か聞こうとはしなかった。二人は黙って肩を寄せ合っていた。数分、そうしていただろうか。千夜が、柚葉の手をそっとほどいた。

「そろそろ帰らないと。……私、こっちの道なの」

 そう言って指す道は、柚葉の家とはまた別の方角に繋がる道だった。柚葉も頷いて、数歩下がった。

「そうだね。それじゃあ、ここで」

 最後に何か声を掛けてあげたいと思いつつも、何を言うべきか決めかねて、柚葉はそれだけ口にした。千夜は一度背を向けたが、すぐに振り返って、柚葉の両手を握った。驚く柚葉の耳元で、「本当にありがとう」と囁き、それじゃあまた明日、と駆け去ってしまった。

 柚葉はその華奢な後姿が闇に溶けていくのを見送りながら、千夜の言葉を吸い込んだ耳がじんじんと疼きだしたのを感じた。

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