第十節

 正月一日月白という少女が殺された翌日の火曜日、野々と桜屋敷は彼女の両親に遺体を引き渡した。娘の、寝顔にしか見えない表情を目の当たりにした父親が、音もなく膝から崩れ落ちた瞬間を、桜屋敷は忘れることが出来ない。

 その翌日、水曜日に、二人は月白が通っていた学校へ足を運び、聞き取り調査を行った。彼女のクラスの担任教師に許可を得て、クラスメート一人一人から、月白のその日の行動や人間関係について聞きこんだ。午前中だけでは終わらず、昼休みを挟んだ午後になってようやく、クラスの生徒全員から話を聞くことが出来た。それで分かったのは、月白という少女は人から恨まれるような人間ではなかったということだった。

「月白さんは、どうもトラブルというものとは無縁だったみたいですね」

 学園の駐車場に停めた公用車の中で手帳をめくりながら、桜屋敷はため息をついた。隣の助手席に座る野々は頷き、加糖缶コーヒーを啜った。

「トラブルと無縁というか、あまりクラスメートと積極的に関わってはいないようだったね。数人の仲良しがいた程度みたいだ」

「ですね。本が大好きで、休み時間には本を読んでいるか図書室にいるかのどちらかだったらしいですし。まあ、それじゃそんなにたくさんの友達ができる訳無いですね」

 桜屋敷は、自身の高校生活を思い出した。彼自身はどちらかと言うとクラスの中心にいたタイプだったので、教室の隅で本を読んでいるような大人しい生徒を気にかけたことは殆ど無かった。共通の話題も無いように思えたし、教室の中での立ち位置を気にしない態度はどうにも理解できず、あまり近づきたいとは思えなかったのだ。月白は、正しくそういう傾向の少女だったようだ。

 ただ、本が好きな生徒とはすぐに打ち解けられたらしく、図書局にも所属していたらしい。図書局の顧問には月白の担任や校長から口をきいてくれるらしいので、二人は図書室が一般生徒への開放を締め切る六時になるまでは被害者の遺族に話を聞くことに決め、萌芽学園を後にしたのだった。


 午後六時過ぎ、五十里至極は図書室の部室で、虎渡と共に蔵書一覧のチェックをしていた。生徒から返却されたにもかかわらず返却処理がされておらず、いつまでも貸し出し中になったままの書籍や、その逆に、返却されていないのに返却されたことになっている書籍を洗い出し、パソコンに入力していく地道な作業だ。虎渡は大きな体を縮こまらせて、パソコンの画面に集中している。至極はその隣でリストを読み上げていたが、やがてこらえきれずに質問を口にした。

「先生、さっき校長先生がいらっしゃってましたよね。何かあったんですか」

 カウンターで当番をしている時から気になっていたことだった。この図書室は教師にも開放されており、授業の教材を吟味しに来る教師も多い。だが、校長がここに足を運んだのは、少なくとも至極が知る限りでは初めてのことだった。

 虎渡は入力の手を休めず、「何でもないよ。こっちの話」と答えた。

「そうですか」

 それ以上聴くことも出来ず、至極は再び黙ってリストに目を落とした。その時、場違いに明るい叫び声がカウンターの外から聞こえてきた。「うひゃあ!」というその声は、若い男性のもののようだ。途端、虎渡が手を止めた。のっそりと立ち上がり、様子を見に部屋を出て行く。至極もすぐ後ろをついて行くと、そこには図書室に入るためのカードキーゲートに阻まれて困り果てた様子の警官が立っていた。見るからに若い。まだ二十代くらいだろう。警官の制服があまり似合っていない。目がくりっと丸く、睫毛が長い童顔で、下手をするとまだ学生と言っても通りそうな容姿だ。彼はゲートをくぐろうとして上手くいかなかったらしい。今の今まで屈めていた腰をよっこいしょと伸ばし、こちらに気が付いて破顔した。

「あ、どうも……図書局顧問の虎渡半先生ですか。俺……いや本官は桜屋敷と申します。桜屋敷巡査部長。以後お見知りおきを」

「はあ……よろしくお願いします」

 真面目な口調と行動のギャップに戸惑ったか、虎渡は反応に困ったように頭を掻いた。

「ええっと。ゲートを通らなくても、こちらのカウンターから入れますので……どうぞ」

「あ、そうだったんですね。いやあ、気が付きませんでした。野々警部補、さあ行きましょう」

 そう言って桜屋敷が一歩身を引いて、ようやく至極にももう一人の刑事の姿が確認出来た。野々警部補、と呼ばれたのは、桜屋敷よりも幾分年上の、妙齢の女性だった。長身の至極よりは低いが女性にしては高い身長で、ぱりっとしたパンツスーツがよく似合っている。ショートカットの髪に縁取られた顔はさっぱりとした美人で、流石刑事だけあって鋭い目つきをしている。至極はちょっと身を固くした。

 カウンターを通って部室内に入ってきた二人の刑事は、生徒用の小さな椅子に腰かけて、さっと手帳を取り出した。虎渡は元から座っていたパソコンの前に戻り、至極もどうすべきか分からず、その隣に座りなおした。

「虎渡先生、急に押しかけてすみませんが、捜査にご協力願えますか」

「もちろんです。先ほど校長からも伺いましたが、本校の生徒が被害に遭っているのですから、当然協力は惜しみませんよ」

「ありがとうございます」

 野々は丁寧に頭を下げ、次いで至極に目を向けた。至極は学ランのスラックスに両掌を撫でつけて、野々の視線をどう受け止めようか迷って目を泳がせた。

「虎渡先生、ところでそちらの生徒さんは」

「ああ、図書局局長の五十里至極です。真面目な子でしてね。私の仕事を手伝ってくれていたのですよ。五十里、刑事さんに挨拶しなさい」

 予想外の展開に目を白黒させながら、至極は二人の刑事に向かって頭を下げた。

「五十里至極です……初めまして」

「五十里君、初めまして。私は野々御空。こっちは桜屋敷薄黄。今日は亡くなった正月一日月白さんについてお聞きするためにお邪魔しています」

 月白の名前を聞いて、至極は思わず肩を震わせた。警察が学校にいるということは月白についての捜査だろうと見当はついていたが、それでも直接刑事の口から彼女の名前が出ると、どうしても反応してしまう。

「……五十里君は、彼女のことを知っているのかな」

 野々が少し目を細めて尋ねると、至極は自分でも驚くほどの大きな声で返した。

「知っているも何も。正月一日さんはとても良い仲間でした。本当に本が好きな子で、仕事を頼めば快く引き受けてくれましたし、いつも朗らかに笑って色々なことを話してくれました。喧嘩もしたことが無いと言っていました……とにかく良い仲間だったんです」

「そうなんですね」

 野々は目つきを和らげて、前のめりになっている至極に頷いて見せた。

「月白さんが穏やかで優しい子だったことは、他の生徒からも聞いていますよ」

「そうですか」

 至極はホッとしたように肩の力を抜いた。そこへ、桜屋敷が声を掛けた。

「じゃあ、俺……いや本官からも良いかな」

「あ、はい」

 変な一人称だな、と思いながら、至極は童顔の警官へ体を向ける。

「月白さんは、誰かから恨まれたりはしていなかったのかな?」

 その質問を聞いた瞬間、至極は勢いよく立ち上がっていた。隣に座る虎渡が身じろぎし、桜屋敷は目を丸くしている。しかし至極は周りの反応にかまう余裕など無く、一段と声を張り上げた。

「正月一日さんが誰かに恨まれるなんて、絶対にあり得ません。あの子は誰かに悪意を向けられるようなことは無かったですし、反対に誰かに悪意を向けるなんてことも無かった筈です。俺はよく知っています。あの子が誰かに恨まれるなんて、絶対にあり得ないんです」

 肩で息をしながら、至極は一気に言い終えた。

「五十里、まあ落ち着きなさい。とにかく、ほら、座って」

 虎渡が椅子をぽんぽんと叩いて至極を座らせると、落ち着かせるために背中を撫でた。至極は少しの間されるがままになっていたが、やがて、ほうと息を吐いて桜屋敷を見た。

「……すみません。ちょっと柄にもなく興奮してしまいました」

「いやいや、全然構わないよ。こちらこそ、嫌な聞き方をしてしまって済まないね」

 桜屋敷は軽く笑って頭を下げた。至極の様子から透けて見えた月白への好意が、悲しくてたまらなかった。

 その後、野々と桜屋敷は至極が落ち着くのを待ってから、今度は虎渡に同じ質問を投げかけた。しかし、虎渡からも同じような答えが返ってきただけだった。二人は手帳に短く何か書きつけて、さっと立ち上がった。

「では、お忙しいところ、お時間をいただきましてありがとうございました。また何か思い出したことなどありましたら、ご連絡ください」

「ありがとうございました!」

 野々は静かに、桜屋敷は勢いよく礼をして、部室を出ていく。その後姿へ、至極が声をかけた。二人が振り返ると、至極は背筋を正して立っていた。

「刑事さん。必ず、犯人を見つけてください。お願いします」

 そう言って一礼して向き直った真剣な眼差しに、野々も桜屋敷も深く頷いて応えたのだった。


 図書室を出てすぐ、桜屋敷が長く息を吐いた。

「ああ……あんな風に思っていた相手が殺されてしまうなんて……可哀想だし健気だしで、俺、どんな言葉を掛けるべきか分かりませんでしたよ……」

 しかし、野々は素っ気なく言う。

「今の少年が演技達者なだけかもしれないよ」

「そういうこと言います? いや、まあ確かに可能性はありますけどね」

 桜屋敷は心外そうに口をとがらせる。その様子を見て、野々は彼がいつかもっとひどい衝撃を受ける時が来るのではないか、と案じた。人に対する優しさは警察官にとって必要だが、そればかりでは自分の心が疲弊してしまう。

 だが、と野々は桜屋敷の煩悶を眺めて思う。

 だが、そういうところが、彼のよいところなのかもしれない……。

 二人は徐々に暗くなっていく空を窓越しに見つつ、廊下を歩いた。生徒たちは事件の影響もあってか殆ど姿が見えず、人気のない廊下には暫く二人の足音だけが響いていた。が、職員室へ続く廊下に差し掛かった時、二人の正面から、一人の生徒が歩いて来た。高等部の制服を身に着けた女子生徒だ。長い黒髪が背になびいて、それだけでぱっと人目を惹く。さらにお互いの距離が近づくと、その顔立ちの非凡さが際立った。よくアイドルなどにいるような、くっきりした顔立ちではない。だが、目じりの少し上がった涼しげな眼もとに、すっと通った鼻筋、小作りな口元と、どこかミステリアスな印象を受ける少女だった。彼女はすれ違いざまに二人の刑事に軽く会釈をして、二人が来た方へと静かに歩いて行った。

「うわあ……とんだ美少女がいたもんですね」

 桜屋敷が小さく感想を漏らす。野々はその言葉に反応はしなかったが、今見た少女の面影が脳裏から離れないような、不思議な予感を覚えた。

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