第八節

 翌日、水曜日の昼休み、赤羽千夜は図書室に赴いた。萌芽学園の図書室は中等部の生徒も高等部の生徒も使用できるので広々としていて、大きな窓から十分な光を取り入れる設計になっている。数十名は座って読むことのできる机と椅子は今日も本好きの生徒を待っているようだ。もう少し時間が経てば賑わいを見せるだろう室内には、まだ局員数名しか来ていない。千夜は室内の様子をさっと見渡してから、カウンターの内側へ入った。

「赤羽先輩。こんにちは」

 カウンターに座っていた、おとなしそうな女子生徒が頭を下げた。

「まだ、私と虎渡とらと先生しか来てません。先輩はいつも通り早いですね。もうお昼は済ませたんですか」

「ええ。簡単に済ませたわ」

 答えながら、千夜はカウンターから出入りできる部室を覗いた。カウンターの方を向いた机に、狸のようなシルエットが座っているのが見える。図書局顧問の虎渡はしただ。

「先生、お疲れ様です。赤羽、当番入ります」

 千夜が声をかけると虎渡は無言で右手を上げ、すぐに目前のパソコン画面に向き直った。千夜もカウンターへ戻り、後輩の隣に座る。そうする間にも、一人、二人と当番局員がやって来て、二人に挨拶していった。

 しかし、まだ一般の生徒は来ない。

 手持無沙汰に引き出しの整理を始めた千夜に、後輩が小声で話しかけた。

「虎渡先生がお忙しいのは、昨日、当番局員が二人も休んだからなんですよ」

 千夜は小首を傾げる。当番局員が休んだ分、その仕事をしなくてはいけなかった顧問が、その時に出来なかった仕事に今追われているというのは容易に理解できる話だが、局員が仕事を休むというのが大層珍しいことだった。図書局員になろうという人間は概してインドアの傾向にあり、大きなケガをするなどということは滅多にない。また、今時期は風邪が流行るなどということも考えられない。そんな環境で局員が一人休むことさえ珍しいというのに、一日に二人も休むなどということが、千夜にはよく理解できなかった。

 しかし、後輩はさもありなんと頷いて、目を伏せた。

「仕方ないですよね……。あんな事件があった後じゃ……。月白ちゃん、良い子でしたもん」

 そこまで聞いて、千夜はようやくハッとした。二日も経って忘れかけていたが、正月一日月白が死んだのだ。殺されたのだ。そして、彼女は図書局員だった。

「そうね……」

 後輩に調子を合わせて相槌を打ちつつ、千夜は室内に散らばって仕事をしている局員の様子を窺った。書架の間を回りつつ、返却された本を配架して回っている後輩。顧問から書類を受け取っては室内のコピー機まで印刷しに歩いていく後輩。彼らは皆、どことなく悲し気で、沈鬱な表情をしている。あまり活発に動こうとしない虎渡も、そんな部員たちの様子をそれとなく見やっては眉を下げている。月白は局員に愛されていたのだ。

 そこまで見て取った時、千夜は局長が自分を呼ぶ声に気付いた。局長はいつも気配を感じさせずにいつの間にか部室内にいて、いつの間にか顧問と話し込んでいるが、今日もそうだったらしい。辺りの気配を察知するのには長けている千夜でさえ、彼が既にそこにいたことに、気が付くことができなかった。千夜は部室に入って行った。

五十里いかり君、何か私に用かしら」

 呼びかけられて、千夜の目の前に立つ痩せた少年……五十里至極しごくは、びくっと身を震わせ、神経質そうな細い指で眼鏡の位置を弄った後、口を開いた。少しザラザラした、低い声が、周りを憚るように千夜の耳に届く。

「次の朗読会についてですが……予定通り行います。ただ、次は正月一日さんの番だったので……繰り上げて、赤羽先輩に頼みたいんです」

「なんだ、そんなこと。もちろん、喜んでお受けするわ」

 ありがとうございます、と言いつつ、至極は節の目立つ右手の爪を口に含もうとした。しかしその青白い右手に千夜が素早く自身の左手を重ねたので、その動作は急停止した。目に見えて狼狽する至極に、千夜はゆっくりと柔らかく言う。

「正月一日さんのことを気に病むのは、おやめなさい」


 虎渡から朗読会を予定通りに行うと聞いた時、至極は既にボロボロになっている右手親指の爪を噛みちぎってしまいたくなった。次は月白の番だったのに、という子供じみた思いが込み上げてきて、何かで蓋をしなくては立っていることすら出来ない気がした。月白の朗読の当番は、もう永遠に回ってこない。月白の朗読は、もう永遠に聞くことが出来ない。あの高めの可愛らしい声も、少しぽっちゃりした愛嬌のある掌も、もうここには無い。

 正月一日月白は、至極にとっては愛らしい小動物のような存在だった。月白本人は気にしていたらしい小柄でころころとした体型も、至極にとってみればむしろ親しみやすさを強調するものでしかなかった。入学当初はおとなしく、周りの人間の後ろに隠れていたようなところがあったが、共通する本の話題になると持ち前の明るさを発揮して、嬉しそうに笑っていた。そういうところが自分と通じるものを感じさせて、至極にとっては他人に思えないのだった。また、月白はよく仕事をしてくれた。真面目なのもあるだろうが、何より本が好きだったからだろう。至極は以前一緒に配架作業をした時に、この大きな図書室がある萌芽学園に入りたかったから一生懸命勉強したのだ、と月白が笑顔で話してくれたことを鮮明に覚えている。図書室のためだけに猛勉強して、中学入試に挑んだ月白。よく笑い、素直に話を聞き、本を愛した月白。

 そんな彼女が、いったい何のために。

「それで、正月一日の代わりを見繕ってほしいんだ」

 虎渡の眠たげな声が、至極の回想を絶った。至極は反射的に口元へ持って行きたくなる右手の衝動をかろうじて抑えて、「はい」とだけ返事をした。至極が真っ先に思い浮かべたのは赤羽千夜だった。至極にとっては一つ年上の先輩だが、未だにあまり会話を交わしたことは無い。しかし、朗読の代役として、彼女以上に相応しい人間は思いつかなかった。

「赤羽先輩、すみません。ちょっとお話が……」

 千夜に呼びかける時、至極はいつも、ほんの少しではあるが緊張を覚える。千夜のことが怖いわけではない。むしろその逆で、彼女の美しさに必要以上に心を奪われてしまいそうになるのが不安なのかもしれなかった。

 千夜を目の前にしてそんなことを考えると、月白の存在を忘れてしまいそうな気がして、なおさら胸が苦しくなった。しかし、朗読会の話は自分から伝えるべきだ。至極はしゃがみこみたくなるのを我慢して、千夜に代役を頼んだのだった。

「なんだ、そんなこと。もちろん、喜んでお受けするわ」

 快諾に、緊張の糸が切れたのだろう。至極はまったく無意識に、右手指の爪を口にくわえそうになった。だが、それを千夜が止めた。止められたことよりも、自分がまた爪を噛もうとしていたことに驚く至極に、千夜は優しく言った。月白のことを気に病むのはやめろ、と。その言葉を聞いた途端、至極は今すぐ体の向きを変えて、ここから立ち去ってしまいたいと思った。顔が燃えるように熱い。しかし同時に、千夜の手を取ってしっかりと握りたいとも思った。自分の感情の根源を、ここまで見通されてしまうとは思わなかった。美しい先輩に、頭の下がる思いだった。

 そうだ、月白のことは、気に病むものではない。それでは月白の生きていた時間を無駄にしてしまうようなものだ。もちろん、まだ月白の死を完全に受け入れられるわけではないが……それをストレスにしてしまうのでは、月白が可哀想だ。月白の思い出は、自分がいつまでも大切に抱いていよう。そうすることでしか、月白の生を価値あるものにすることは、もう出来ないのだ。

 先ほどまでとは打って変わって、視界が明るい。至極は二重の意味を込めて、千夜に感謝の意を述べた。

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