第六節

 午後八時半。四十川家の居間には、波留香はるかが仕事帰りに買ってきたスーパーの総菜が、パックのまま並んでいた。青磁せいじ常盤ときわは甲斐甲斐しくパックを開き、家族の箸を用意している。柚葉は部活動で疲れ切って、帰宅してからというもの、テレビの前のソファから動けずにいた。そこへ、まだ仕事着のままの波留香が声をかけた。

「ほらほら、柚葉も青磁さんと常盤を手伝ってよ。お母さんだって疲れて帰ってきてるのよ」

「はーい……」

 波留香は仕事着を着替える手間を惜しんでエプロンだけ付け、総菜を手早く皿へ盛り付けた。母に倣って、柚葉も緩慢に動き始める。しかし、青磁が大柄な体躯に見合う豪快な笑い声と共に、それを止めた。

「柚葉は部活で疲れてるんだろう。良いじゃないか、休ませてあげなさい」

「お父さん……」

「青磁さん、そんなこと言って甘やかしても、この子に良くないんですから」

 父親はいつも娘に甘い、と言いたげに、しっかり描きこまれた眉根を寄せて、波留香は腕を組んだ。その腕に、小さな常盤が背伸びして抱き着いた。

「お母さん、次の大会がお姉ちゃんの最後の大会なんだよ。それまでの間だけ、休ませてあげてよ。ね、お願い」

「常盤まで……」

 波留香は最近急に大人びてきた息子の幼顔をまじまじと見つめていたが、やがてふうと息をついて柚葉を見た。仕方ないね、という言葉が目顔で伝わる。

「お母さん、ごめん……ありがとう」

「良いのよ、家族の大多数が柚葉を休ませろって煩いんだから」

 口をとがらせながら、波留香はさっさと支度を済ませてしまった。それに合わせて、全員が食卓に座る。青磁の「いただきます」に続けて全員で唱和し、四十川家の食事が始まった。

 四十川家では、食事中でもテレビが流れ続けている。しかし殆ど誰も見ておらず、食卓では波留香の仕事の愚痴に柚葉と常盤の学校の話が続く。その話も終わるころには殆ど食事は終わり、それぞれが食器を片付け、部屋へ戻ったり居間に残ったりする。この日も例にもれず、波留香の話が終わると柚葉が学校の話を始めた。

「それでね、その赤羽さん……赤羽千夜ちゃんっていうんだけど、すごく頭が良くて美人で、運動も大体できちゃうって凄い子でね……」

「赤羽千夜?」

 遮ったのは波留香だった。柚葉が見ると、何か歯に引っかかったような、変な顔をしている。

「うん。赤羽千夜」

「千代子じゃなくて?」

「え……? うん、千夜だけど……。どうかした?」

 柚葉の問いに、波留香は尚も納得しかねるような表情を崩さず、しきりに首を傾げた。

「いやね、なんだか聞き覚えのある名前だなと思って……。でもお母さんが聞き覚えがあるのは赤羽千夜じゃなくて、赤羽千代子なのよ。なんだろう……昔の女優だったかな」

「ふうん?」

 本人もあまり自分の感覚をつかめていないようなので、柚葉は曖昧に相槌を打った。波留香は考えても仕方ないと思ったらしく、席を譲るように手を動かした。

「まあ良いわ、続きをどうぞ」

「うん。それでね、赤羽さん、何でもできちゃうんだけど、今日の現代文の授業でもやっぱり音読が上手くて……。話したら図書局でも朗読会をやってるらしくて、今度来ないかって誘われちゃったんだ。今から楽しみなんだよね」

 柚葉は敢えて、自分の脚や髪を千夜が褒めてくれたということは話さずにいた。元々、家族相手にさえ自分の長所やよく出来たことについて自慢しない性格なのもあるが、それ以上に、千夜に掛けられた言葉は心に秘めておきたい気がしたのだ。それがなぜかは、柚葉本人にもよく分からなかった。だが、普段は仕舞っておいて、自分一人の時に眺めて反芻して味わいたくなるような、それはそんな記憶なのだった。

 青磁は、興味深そうに頷いて聴いていた。

「そうか。これはおれの体験からも言えることだけどな……頭が良くて人望のある人間とは、積極的に仲良くなっていくと良いぞ。朱に交われば赤くなる、という言葉はその通りで、良い人間と交流すれば、自分も良い人間に近づけるからな」

「そうね、青磁さんの言うとおりだわ。柚葉も常盤も、友達は選ぶのよ」

 夫の言葉をいつも通り無批判に全肯定して忠言を寄越す波留香に、柚葉と常盤は揃って素直に頷いた。

「そういえばお姉ちゃん。今日はタイム、縮んだ?」

 常盤は隣に座る姉を見上げて、興味津々といった様子で質問した。柚葉はちょっと答えに窮した。クラスメートとの会話の内容が気になって集中できなかった、なんてことは言えない。

「頑張ったんだけどね……」

 駄目だった、という柚葉の言葉に、常盤は自分のことのようにがっくりと肩を落とした。

「なんだあ……残念。明日は頑張ってね! 大会、あと少しだもんね!」

「うん。ありがとう常盤。頑張るよ」

 昔から外に遊びに出かけては男の子たちに混じって運動していた柚葉とは対極的に、常盤は家で本ばかり読んでいるようなおとなしい子だ。自分がする分には興味のない運動でも、柚葉がするとなると全力で応援してくれる、優しい弟でもある。そんな常盤が落胆する顔は見たくない。ならば、赤羽千夜の言葉で気を散らせている暇はないのだ。柚葉は机の下で拳を握り締めた。

「それじゃ、お母さんお皿洗うから。食べ終えた皿は持ってきてよ」

「はーい」

 波留香が席を立ち、青磁がいつものようにテレビの音量を上げる。それまで誰も見ていなかったニュースの女性アナウンサーの声が、突然明瞭に響き渡った。

「萌芽学園中等部の女子生徒が殺害された事件は、未だに捜査が難航している模様です。通り魔的犯行と断定するに足る証拠が無いため、あらゆる可能性を考慮して捜査する方針だということです……」

「あ、これお姉ちゃんの通ってる学校だよね」

「うん……」

 そうだ、こんな事件があった、と、柚葉は喉の奥に何かが詰まったような感覚に襲われた。暗くて重い塊……ちょうどこの間、現代文の授業で習った小説で、主人公が抱いていた感情のようだ。鬱々として、何かとても忌避すべきことが起きているような予感が絶えずある、そういう感覚だ。そしてその癖、その塊は自分が忘れている間は姿を消している。事件のことを思い出すたび、胸を圧迫するような。

「いやな事件だよな、これは……。柚葉、帰り道には気を付けて、できれば部活も早めに……って、無理か……。でも……」

 青磁は日焼けした顔を曇らせて、愛娘を見やった。娘が今度の大会に全力を傾けていることはよく知っていた。しかし、それは命に代えられるようなものではない。

 柚葉は顔に力を入れて笑顔を作った。

「大丈夫だよ、お父さん。脚には自信あるんだから。何かあってもぴゅーっと逃げおおせちゃうからね」

「そうか、……ははは。確かに、柚葉の脚は速いからな」

「お姉ちゃん。ぼく、毎日学校まで迎えに行こうか?」

 常盤が真剣な顔で言う。

「大丈夫。でも、何かあったらすぐ常盤のスマホに連絡するから、その時はよろしくね?」

「うん、分かった。すぐに駆け付けるから」

 本当に良い子だ、と、柚葉は顔に入れていた力を解いた。きっとこの子は、私に何かあれば、本当にすぐ駆け付けてくれるに違いない。……でも。それで間に合うかどうか……。

 そこで、柚葉はハッとした。自分は何を考えていたのだろう。何か、恐ろしいことが自分に起こりそうな予感は確かにあるが、でもそれに根拠は無い。同じ学校の生徒が殺されたということしか。

「柚葉。本当に、怖いとか危ないとか思ったら、常盤だけじゃなくておれもいるんだ。すぐに連絡しなさい。柚葉を恐ろしい目にあわすやつなんざ、おれのこの筋肉で片づけてやるからな」

 そう言って青磁はアロハシャツから突き出た二の腕の筋肉を盛り上げて見せた。

「お父さんも、ありがとう。うん、頼りにしてる」

 毎日、肉体を酷使して働く父も、優しく思いやりのある弟も、柚葉は本当に頼りにしている。しかし、それでも心の底の不安感を完全に拭い去ることは出来ないのだった。

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