第五節

 グラウンドでは、陸上部とテニス部の合同柔軟運動が行われているようだ。グラウンドの周縁を全員で走っているのは野球部員か。他にもバドミントン部やサッカー部など、様々な運動系部活動に所属する生徒たちが、こまごまと動き回っているようだ。

 千夜は、それら生徒たちの活動を、美術室の窓から見下ろしていた。掛け声の中に怒号も混じり、常にどこかで砂ぼこりの立つグラウンドは、美術室とは真逆の熱を発しているようだ。

 三階北側にひっそりと開かれた美術室には、美術部員が二十名ほど、各々のキャンバスに向き合っている。運動系部活動の喧騒とは較ぶべくもないが、美術部員は美術部員なりに雑談もするし、お互いの作品について議論もする。ただ、毎回の午後四時から顧問が入室するまでの時間帯は、ひたすらそれぞれの作品と向き合う時間と定められていた。それら作品がある程度進んだ段階で、顧問からのアドバイスや意見の交換が始まるのだ。そういう訳で、ちょうど今の時間帯は、部員は誰一人言葉を発しない。日当たりのよいグラウンドは見るからに暑そうだが、美術室はしんとした雰囲気のせいもあってか、どこかひんやりとした空気が漂っている。

 千夜はグラウンドからキャンバスに視線を移した。白い画面の大部分を、赤系統の色が占めている。次に多いのは黒や灰色で、それらの色が中央で乱暴にかき回されたように混じりあい、一種グロテスクともいえる塊を形作っていた。

「相変わらず、破壊衝動……何もかも壊してしまいたいという衝動を感じるね」

 いつの間にか千夜の隣に立っていた白衣の女性、鈴得すずえ竜胆りんどうが、そう言った。美術部の顧問である彼女は、絵具や様々な汚れでくすみきった白衣の両ポケットに手を突っ込み、黒縁眼鏡越しに千夜のキャンバスを分析していた。

「そんな野蛮ではありませんわ」

 千夜の言葉に鈴得はにやりと笑ったが、何も言わず、別の生徒の方へ歩いて行った。すると入れ替わりのように、周りで描いていた後輩たちが集まってくる。千夜は鈴得の後姿を目で追っていたが、すぐに後輩たちに向き直った。女子と男子、二人の後輩が口々に話しかけてくる。

「千夜先輩、もうそろそろ完成しそうですね」

「そうよ。もう、あと一つ二つ、付け加えれば完成するはずよ」

「赤羽先輩の絵って、難しいですよねえ。鈴得先生はああおっしゃってたけど、それすら僕には読み取れなくて……。すいません、審美眼が無くて……」

「良いのよ。絵から何を読み取るかなんて、人によって違うのが普通なのだから。でも、貴方がこの絵をどう感じるのかは興味があるわ。教えてちょうだい」

 可愛い後輩たちの相手をしながら、千夜は不満を表情に出さないよう努めた。なぜ、鈴得以外の誰も、自分の絵を理解してくれないのだろう。私の絵は、何も「難し」くなどない。むしろ、私の心を、私の言葉よりも雄弁に語っているはずなのに。

 しかし、この後輩たちに不満をぶつけても仕方ない。彼らの目よりも、まずは私の腕を疑うべきだろう。別に、誰かに理解してほしくて絵を描いている訳ではないが……ここまで真意を理解してもらえないのは、ストレスだ。

「赤羽先輩の絵は、どこかに優しさがあるような気がするんです」とのたまった後輩に笑顔でうなずきながら、千夜はそう考えた。

「千夜先輩っ」

 二人の後輩が戻っていったと思うと同時に、また一人の後輩が近づいてきた。中等部の制服から伸びる手足がほっそりとした少女で、その可愛らしさは部員だけでなく全校生徒の中でも群を抜いている。赤みの混じった茶髪は蛍光灯の下でさえ輝きを放ち、大きな瞳を縁取る睫毛は普通より長い。鼻はすっと高く、小さな唇はふっくらと血色が良い。全体的にまだまだ幼さの残る顔立ちではあるが、西洋人形のような愛らしさは、会う者に成長したのちの美しさを予感させる。

 不二井朱華はねず、中等部二年生である。朱華は人懐っこい笑みを浮かべて千夜の近くへ寄って来た。

「千夜先輩、絵は進みましたか?」

「ええ、順調よ。不二井さんは進んだのかしら」

「はい、とっても順調です!」

 朱華は小鳥のさえずりのように可憐な声で一語一語を弾ませ、話しながら、空いていた千夜の隣の席に腰かけた。

「良かったら後で見てもらえませんか? 今回のは自信作なんです」

「今回のも、ね。不二井さんに自信がなかったことなんて無いでしょう」

「えへへ。でも千夜先輩に言われた通り、気付かないうちにまた描いちゃってました……」

「そう。今回のは何だったの」

 蟻でした、と朱華は舌を出して照れたように笑う。しかし朱華がやると、下品には見えず、むしろその少女らしさが前面に出る。

「蟻だったのね。そう……」

 千夜は少し考えるように、筆の軸で唇をなぞった。朱華はうっとりと、その様子を見つめている。朱華が必ず自分の作品に自分自身を表す虫を描いていることを、初めて指摘したのは千夜だった。朱華の絵にはどんな物にも必ず、ひっそりと昆虫が紛れているのだ。朱華自身すら気付かず、それまでどんな人間にも指摘されなかった「自分の表象」について、千夜は初対面の時に事細かく解き明かしてくれた。と言っても、千夜は心理学の知識をひけらかした訳ではない。いくつか朱華の作品に目を通して昆虫の存在にすぐ気が付き(その中にはキャンバスの染みにしか見えないものすらあったというのに)、その昆虫が持つ特性から、朱華の心の動きを分析して見せたに過ぎない。曰く、「蠅は疎まれたり汚れているものに惹かれる性質がある。よって、これを描いた時の貴方は汚れたもの・薄暗いものに興味を惹かれていた可能性がある」。「天道虫は上へ上へと昇っていく性質がある。よって、これを描いた時の貴方は何かを上達させたい、ものにしたいと考えていたのではないかしら」。

「蟻は真面目ね。真面目に働いて、甘い栄養のありそうなものに寄って行って、巣穴へ持って行こうとする」

 千夜は言いながら、遠い目で見つめていたキャンバスから朱華へと視線を移した。流れるようなその目線に捉えられ、朱華は耳まで赤くなる。千夜は身を乗り出し、朱華の小さな顎の下に、持っていた筆の軸を添わせた。

「甘いものに寄って行くのは良いけれど……蟻を殺すための毒かもしれないわ。気をつけなさい」

「…………はい」

 ため息のような返事をして、朱華はこくりと頷いた。千夜は満足げに微笑み、筆を仕舞う。

「不二井さんの良いところは、昆虫でもなんでも、よく観察しているところだと思うわ。何を描くにしても、対象を掴まなくてはよく描ける筈がないもの」

 それまでぼうっとしていた朱華だが、褒められたと気づいてすぐに満面の笑みになった。

「ありがとうございます! 観察には自信があるんですよ。ほら、こうしていつも虫眼鏡を持ち歩いているくらいですからね!」

 言いながら朱華は、制服の内ポケットから小さな虫眼鏡を取り出した。おとなしく座っているのが絵になる彼女だが、その実活動的で、学校が終わると専ら昆虫観察に繰り出しているのだった。千夜は心得ている、と頷き、目を細めた。

「観察というのは、本当に重要よ。不二井さんは、何かを観察するとき、どのようにする?」

「そうですねえ。私はとりあえず、その昆虫が何をやっているのか、まず見ますね。例えば食事の準備をしているのか、戦争しているのか、のんびりしているのか、見張りをしているのか……。それが分かったら、次はその昆虫がどういう考えのもとに行動しているのか観察します。昆虫によっても個性がありますからね。巣穴に入りきらないくらいのご馳走を抱えている昆虫は、果たしてそれをどうしようと思って動いているのか、なんてことには興味をそそられます。ご馳走を無理やり押し込むのか、分解するのか、はたまた巣穴を広げようと思いつくのか……。去年はその場面に一時間以上立ち会ったんですけど、結局日が暮れてしまって分からず仕舞いでした。次の日に見たら綺麗さっぱり片付いていたので、多分どうにかしたんだろうとは思うんですけど」

 愛らしい唇から昆虫観察に対する熱意が迸るのは朱華の日常ではあるが、何となく微笑ましい。周りの先輩や同級生たちも、素知らぬ顔で聞き耳を立て、くすりと笑っている。千夜は殆ど表情を変えず真剣に話を聞いていたが、朱華の言葉が切れた拍子に口を開いた。

「流石ね、不二井さん。私も観察の際には、その対象の行動と意識には気を付けるようにしているわ。何を、どういう目的で行っているのか……。でもね不二井さん。私は、それに加えて、その対象を少しこちらで弄ってみるのも好きなのよ」

「弄る……? 天道虫を乗せた指を上に向けたり下に向けたりするみたいに?」

「ええ、そう。その対象の個性をある程度掴んだらね、どうしたら私に懐くか考えるの。甘い蜜を与えようか、それともルールに反した時の罰を厳しくしようか。どんな風に接したら言うことを聞くようになるのかしら……不二井さんにとっての『ご馳走』問題と同じように、私にとってはそれが一番の興味よ。持っているものは全て使ってみるのが良いわね。甘い蜜か、苦い汁か。それとも、敢えて放っておくと、こちらに寄って来るものかしら……。色々と試してみるの。それが、私にとっての観察よ」

 朱華は感心したように聞いていたが、やがてふっと首を傾げた。

「千夜先輩の観察の対象って、昆虫ではないですよね? いつも描いてるのは抽象的でよく分からないですし……。千夜先輩の観察の対象って、何ですか?」

 千夜は、朱華の純粋な瞳を覗き込んだ。

「私の観察の対象……知りたい?」

「はいっ」

 期待を込めた元気な返事をして、朱華は千夜の暗い瞳を見つめ返す。暫く黙ってそうしていたが、やがて千夜は乗り出していた身体を引っ込めて、再びキャンバスに向かった。

「その話は、またいつかしましょう。それを言ってしまうより、この絵が何を描いているのかを感じてもらいたいから……」

 朱華は大きな目を更に大きくして瞬きしたが、すぐに「わかりました!」と立ち上がった。

「それもそうですよね。描いた絵の解釈なんて、描いた本人がするものではないですよね。わかりました、私は自力でそれを解き明かして見せます!」

「わかってくれて嬉しいわ」

 千夜は少し椅子をずらし、キャンバスに近づく朱華に場所を作ってやった。朱華は暫くの間、黙って鑑賞していたが、やがて千夜を振り向いた。

「すみません、千夜先輩……。やっぱり、私にはよく分かりません……」

 その、心底から申し訳なさそうな表情に、千夜はふふっと笑う。もとより、朱華に分かってもらえるとは思っていなかった。この、頭の先から足の爪先まで光に浸かって生きてきたような少女に、自分が描く絵の意味など理解できよう筈もない。多少の心暗さを持っている者になら理解してもらえるだろうが、朱華のような者には最初から何の期待もしていないのだった。

「良いのよ。私の腕がまだまだということね」

「そんなことは無いです、千夜先輩! 先輩はすごく上手いですよ!」

 朱華は首を勢い良く振って否定し、そのままの勢いで続けた。

「だから、私をモデルに描いてください!」

「またその話……? 不二井さんは諦めないわね」

 千夜は、何十回目になるか分からない申し出に苦笑する。しかし、それは予期していた通りの話の運びだった。周りの部員たちも、また始まった、と言うように二人を見て、楽し気にしている。

「何回でも頼みますよ、私。千夜先輩、もう今年で卒業しちゃうじゃないですか。だから、今年が最後のチャンスなんです。もう、本当に今年は粘りますからね」

 千夜に描いてほしい、というのは朱華の入部当初からの願いだった。そもそも色々なことに興味のある朱華が、興味を一つに絞って美術部に入部したのは、千夜の姿を見たのが大きなきっかけだった。その千夜に描いてもらえるなら、そんなに嬉しいことは無い、というのが口癖になったほどだ。

「そう……。確かに、それはそうね。分かったわ」

「それじゃあ」

「でも、今描いているものが終わったらよ。それで良いなら、描いてあげるわ」

「やったあ!」

 朱華の場合、目を輝かせて、という慣用句が比喩ではなくなる。大きな瞳は涙で潤んだように輝いて、千夜を見つめて離さない。千夜はそれにいつも通りの笑顔で応える。

 そんなやり取りの中、鈴得が声を上げた。そろそろ一度作品を見せろ、という合図だった。部員たちは次々と手を挙げて、待機し始める。そのざわめきに混じるように、千夜は朱華の耳元に囁いた。

「次の満月の夜、十時に、私のお家へいらっしゃい」

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