第三節

 柚葉は、あまり現代文の時間が好きではない。もともと本に親しんできたわけでもなく、科学者や哲学者の考えたことに興味があるわけでもない。週に四時間ある現代文の授業は、陸上部で毎日遅くまでトレーニングに勤しむ彼女のような生徒にとっては、格好の睡眠時間でしかなかった。だが、柚葉が不真面目な生徒かというと、決してそういうわけではない。むしろ教師の間では優等生で通っているくらいだ。現代文の時間でも、自ら進んで睡眠の態勢をとるようなことはしない。教師の話を聞いて、重要だと思われることはノートの余白に書き込み、教科書本文にはしっかり目を通す。ただ、教師がつらつらと説明を述べていくだけの時間に、瞼が耐えられないだけだった。

 そういうわけで、この日の三時間目の現代文の時間も、柚葉にとっては鬼門だった。昨日は部活の自主練習を早めに切り上げたとはいえ、帰宅して夕食をとって、お風呂に入って予復習をしたら、もう日付をまたいでいた。朝は四時に起き、トレーニングを兼ねた新聞配達のアルバイトをこなしたので、睡眠時間も十分ではない。

「で、あるから古代バビロニア文化についての筆者の意見としては……」

 おじさん教師の、間延びしたような声が、さらに眠気を誘う。極限まで睡魔に抵抗するも、常の通り、陥落しそうになった、その時だった。

「では、以降の文章、最後まで音読……赤羽」

「はい」

 千夜が指名され、その場に立ち上がった。教室内の空気が一瞬で変わったのを、柚葉は肌で感じた。みんなの神経が、千夜に集中している。柚葉も、なんとなく背筋が真っ直ぐになるような気がして、静かに座りなおした。

 千夜の音読。それは柚葉にとって、眠気と戦う現代文の時間の中で、唯一、しっかりと目を開いていられるタイミングなのだった。

「以上の例から、私は、この時期に盛んに製作された美術品の中でも、この彫像をこそ、最も神秘的で美しいものの一つとして挙げたいと考えている」

 千夜の声は、決して車のようにどこまでも一瞬で通るようなものではない。しかし、聴いている者の耳に静かに沁みとおって、心地よい風の柔らかさで通り過ぎていく。尖ることも停滞することもなく、さらさらと一定のリズムで流れていく。張り上げることなく、細ることなく。千夜の声は、何かを読むという行為を、殆ど芸術の域にまで高めようというかのようだった。

「……これからの、より一層の研究が待たれる」

「はい、座ってよろしい」

 教師の説明よりも鮮明に、本文の意味が頭に残っている。

 勉強ができるだけじゃなくて、こういうことにも才能があるんだなあ、と、柚葉は再び眠気に襲われつつ思った。


 現代文の時間が終わると、柚葉は途端に息を吹き返した。周りのクラスメートたちも同じようで、それまで静まり返っていた分を取り返すかのように賑やかに喋りだす。柚葉は、これを機会にと、千夜に話しかけることにした。

「赤羽さん」

 呼びかけると、教科書をしまっていた千夜は静かに振り向いた。

「何か用かしら」

「いや、用っていうわけじゃないんだけど」

 彼女に悪気がないのは分かっているが、こういうところが、少し話しかけづらい気がする要因なのかもしれない。そう思いつつも柚葉は、相手の表情に少しも他意がないことを見てとった。自分は、この完璧に見えるクラスメートに対して気後れしているのではないか。だとすれば、話しかけづらい、なんて思うのは悪い。

「前から思っていたんだけど、赤羽さんって音読上手だよね」

「ありがとう。でも、そんなに褒められるようなものじゃないわ。文章を読むのが好きなだけだから」

 千夜は、はにかむように微笑み、首を振る。

「私はまだまだだけれども、もし四十川さんが文章の音読に興味があるのなら、図書局で定期的に開催している朗読会に来てみてはどうかしら。局員が交代で担当しているの。私も、そろそろ順番が回ってくるはずだから……」

 そういえば、千夜は図書局員だった、と柚葉は思い出した。同じクラスになってからというもの、あまり接点がなかったのは、そういう趣味の不一致もあったのかもしれない。だがしかし、こうやって言葉を交わすことが出来たのも一つの縁だ。彼女の朗読には、純粋に興味がある。柚葉はうなずき、声を弾ませた。

「うん。今度、赤羽さんの番の時には絶対聴きに行くよ。楽しみにしてる」

「ありがとう。私も四十川さんが来てくれるのを楽しみにしているわ。……そういえば、四十川さんは私と違って体育が得意なのね。二時間目の体育の時、誰よりも速く走っていたの、すごかったわ」

「え? いや、まあ陸上部に入ってるから……それくらいはね」

 突然、思ってもみなかったところで自分の話題になった。柚葉は顔の前で両手を振って見せる。柚葉は実際、陸上部に所属していれば、そのくらいは当然のことだと思っていた。常にクラスで上位にいるくらいでなければ、次の大会で勝ち上がることなど不可能に決まっている。

「私は体育はそんなに得意でないから……。足が速くて羨ましいわ」

「え、そうなの? 赤羽さん、どんな競技でも一通りこなすし、バレーとかバスケとか、団体競技でも率先して点入れてるイメージがあったけど」

「そんなこと無いわ。四十川さんが見ていた時に、たまたま調子が良かっただけよ」

「そうなの……?」

 そんな気はしなかったが、本人がそう言うのであれば、それを敢えて否定するのも悪い。柚葉は、少し首をかしげるだけに留めておくことにした。しかし、続けて千夜が発した言葉には大きく反応してしまった。

「四十川さんは運動神経が良くて……美しい脚で、羨ましいわ」

「う、美しい……?」

 そんな形容をされたことは、今まで無かった。柚葉はなんと反応すればよいのか分からず、ただ顔が熱くなるのを感じた。

「ええ、美しいわ。無駄なところの一切無い、機能美と造形美を併せ持った、美しい脚だと思うわ」

 機能美と造形美。いつもとにかく速く走ることだけ考えていたので、それが外からどう見えるのかなんて、あまり考えたことがなかった。速く走れるかどうかだけが、脚の判断基準だと思っていた。それが美しいと、千夜は言う。

 顔は熱く、心臓が激しく打っている。柚葉は自分が如何に褒められ慣れていないか、はっきり自覚した。そして同時に、そういうところを見て、評価してくれる人がいるのだということも初めて知った。

「あ、ありがとう……。でも、照れるな。そんなこと言われたこと無かったし」

 ようやくそれだけ言うと、千夜は意外そうに眼を見開いた。

「あら、そうなの? 四十川さんならよく言われるんじゃないかと思っていたわ」

「ううん。足の速さについてしか言われたこと無いよ」

「そう……。それなら、髪の色については?」

「ああ、これは……」

 柚葉が言葉を続ける前に、千夜は座ったまま腕を伸ばして、柚葉の前髪をさらりと撫でた。

「綺麗な色……」

 どきりとする。しかし身を引くのもどうかと思った結果として、柚葉は硬直した。

「これは、その……地毛なんだよね。変わった色でしょ。前にお母さんが調べてくれたところでは、千歳茶色とかいうらしいんだけど……」

 口だけ必死に動かして説明する。千夜の視線が近すぎて、自分で何を言っているのか分からなくなってくる。いつの間にか弟の髪の毛の色は普通であることまで話題を広げてしまっていたが、千夜はただじっと、目を逸らさないで話を聞いてくれていた。それに気付いて、柚葉はようやく口を閉じた。

「茶色の中に、少しだけ緑っぽい色が交っているのね。涼し気で、とても素敵だわ」

「あ、……ありがとう」

 それ以上言葉が続かず、柚葉は顔を真っ赤にしたまま踵を返し、速足で教室を出てしまった。

 まったく、褒められ慣れていないのにも程がある。確かに自分は人目を惹く容姿ではないし、親戚や親からすら、そんなに可愛いと言われたことは無い。けれども、少し見た目を褒められただけで、ここまで緊張してしまうなんて。

 嬉しいけれども、恥ずかしい。

 生徒の往来の間を縫いながら女子トイレに入り、ようやく人心地が付いた。鏡に映った自分の顔は、予想以上に上気している。女子トイレに人気がないのは幸いだった。

 冷たい水を両手で受けながら、鼓動が静まるのをじっと待つ。少し落ち着いてくると、先ほど自分をあそこまで動揺させたのは、必ずしも彼女の言葉だけではなかったことに、柚葉は気が付いた。音読がうまいという自分の言葉に見せた、はにかみの表情。自分の脚や髪が綺麗だと言った言葉の、ぽつりと呟くような、それでいて耳に残る響き。そして、髪に触れた時の、自分を見上げる眼差し。

 それら全てが、自分の鼓動を速め、何か苦しいような、それでいてどこか甘いような気分にさせたのだ。

 甘い……? でも、と柚葉は鏡に向かって首を振る。でも私には、好きな男子がいる。女子を好きになったことは無いし、多分、そういうことは自分には起こらない。好きな男子のことを思う時と似た感情ではあるけれど、でも少し、違うような気がする。でも、だとしたら……。

 この感情は何なんだろう?

 あまりに唐突に降って湧いた謎に、柚葉は一人、途方に暮れた。

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