第二節
『昨晩八時ごろ、G町在住の萌芽学園中等部三年、正月一日月白さん(十五)がG町路上に倒れているところを通行人に発見され、死亡が確認された。県警によると、詳しい死因は調査中とのこと。盗まれた所持品は特になく、県警は不審者情報の提供を呼び掛けており、特に夕方以降の外出には注意してほしいと促している。』
珍しく騒がしい朝の教室で、柚葉は手の中の画面を見つめてため息をつく。何か、得体のしれない胸騒ぎがしている。同じ学校の女子生徒が殺されたこと自体が恐ろしいから、と言えばそれまでかもしれないが、それだけではないような気がする。何か、自分のあずかり知らないところで恐ろしいことが着々と起こっているような、そんな感覚だった。
「ゆーずは。朝からそんな顔して、どうしたの」
席に座っている後ろから抱き着かれて、柚葉は慌てて振り返った。自分の両肩に手を置いて、級友は悪びれずににっこりと笑う。少し幼げに見える級友の二つ結びの髪の毛が、柚葉の肩の上でゆらゆらと揺れてくすぐったい。
「スミレか……驚かさないでよ」
「柚葉が勝手に驚いたんだよ。で、何をそんな深刻そうに眺めてるの? ひょっとして、例の事件のこと?」
既に事件のことは学校中に知れ渡っており、いつもは眠たげな生徒ばかりで静かな教室が今日に限って騒がしいのも、実はそのせいだった。柚葉がうなずくと、
「あ、勝手に人の画面見て……」
「そっか、ネットではこういう感じなんだ。テレビよりもちょっと詳しいかもね」
スミレによると、テレビではローカル局でちらっと放送されただけだということだった。柚葉が家を出る時間帯のニュースでは取り上げられていなかったが、少しずれた時間帯には放送していたらしい。
「それでみんな、登校した時にはもう話題にしていたんだ」
「そうだね。さすがに同じ学校の子が、っていうのはね……」
スミレは声を潜める。やはり、明記されていなくとも少女は殺されたのだ、ということはみんな分かっているようだった。スミレの言葉に柚葉はひとつ頷いたが、少しの間の後、控え目に言った。
「でもさ、話題にするのは分かるし、警察が呼び掛けているんだからニュースになるのもわかるんだけど……でも、なんていうか、あんまり変に取り上げて欲しくないなと思うんだよね」
それは、柚葉の本心だった。自分の学校の生徒が殺された、というのは生徒たちにとって、また同じ町の住人たちにとっては一大事だ。警察の注意喚起もあるのでそういう反応は当たり前といえば当たり前だが、しかしその生徒の友人や家族にとってみたらどうだろう、と想像したのだった。
スミレは一瞬ぽかんとしたが、すぐにひとつ頷いて、柚葉の背中を軽くたたいた。
「柚葉は優しいから、そこまで気を回せるんだね。うん、柚葉らしいよ」
「別に、優しいからってわけじゃないけど……」
「いやいや、柚葉は優しいし、大人だと思うよ」
わざとらしいほどに大きく頷いて、スミレは続けた。
「大人だし、頭もいいよね。話変わるけど、廊下に貼り出されてる順位表、見た?」
柚葉は、スミレの話題の変え方に苦笑いをした。いつものことながら、この友人の切り替えの早さには驚かされる。
「見たよ。スミレは確か……」
「言わないで。心が傷つく」
スミレは背中を丸めて、顔を覆って見せる。
スミレが話題にしているのは、先週行われた定期試験の学年順位表だ。昨日の放課後から貼り出されている。柚葉の記憶では、スミレは中ほどよりも下の順位だった筈だ。
「柚葉ー、どうやったら私も柚葉みたいにコンスタントにいい成績出せるのか教えてよう」
「いや、いい成績っていってもクラス内で五位、学年だともっと下がって十二位だし」
「学年十二位って十分すごいって。この間の模試だってA判定出てたでしょ。私なんて、三年生のこの時期になってもまだC判定なのに……」
スミレはますます背中を丸めてしゃがみ込む。思い出すうちに、本気で落ち込んでしまったらしい。柚葉は笑いながらその背中をさすってやる。スミレの気分の上がり下がりは激しいが、その分なだめやすくもあることを知っていた。
「スミレはまだまだ伸びしろがあるってことだよ。そんなに落ち込まないで」
「伸びしろ……」
のろのろと立ち上がり、スミレは数度、同じ言葉を繰り返した。
「そうか、そうだよね。まだ受験まで半年あるし、落ち込んでないで勉強しないと」
そうそう、と相槌を打ちながら、柚葉は友人の立ち直りの早さに素直に感心した。自分もこのくらい素早く気持ちの切り替えを出来るようになりたいものだ。
「頭が良くてうらやましいと言えば、もう一人」
スミレが言葉を切って、柚葉の斜め右前の席に座る女子生徒に視線を向けた。
「赤羽さん……」
スミレの声には、幾分、ため息も混じっている。それは単純な羨望だけでなく、憧憬や称賛の念も込められたため息のように思われた。
「赤羽さん、クラスではいつも一位だし、今回も学年順位で三位だったよね。一年生の時から三位以下に落ちたこと無いらしいし、それならきっと志望校だって余裕で入れるんだろうなあ……。それでいて人のことを下に見たりすることもないし、いつも落ち着いて穏やかで、運動だって別に苦手じゃないみたいだし、それになんていったって、美人だし」
天はいくつのものを彼女に与えたもうたか、と、スミレは大仰に腕を広げる。そうだね、と相槌を打ちつつ、「でも」と柚葉は思った。
でも、どこか……。
「なんだか、とても楽しそうなお話をしているのね」
柚葉は級友とのやり取りの隙間に、ふいと一輪の花を挿し込まれたような気がした。軽やかな、それでいて落ち着いた声。見ると、そこには話題の人が立っていた。
「赤羽さん」
スミレは一瞬で柚葉の背中に隠れるように回り込み、「じゃ、私はこれで」と行ってしまった。あれだけ褒めたたえておいて、仲良くなろうという気持ちはなかったということなのだろうか、と柚葉は内心不思議に思う。千夜も、心もち首をかしげるようにしてスミレを見送っていた。
確かに、ちょっといないタイプの美人だ、と、柚葉はその横顔を見ながら思う。切れ長の瞳。筋の通った鼻梁。桃色の小さな唇。頬にはうっすらと赤みが差している。小さな頭を支えているのは長く細い首で、その頭の輪郭を形どる髪の毛は、一本一本が艶めいて光っている。腰まで伸びたその髪は、癖なく素直に真っ直ぐだ。そして、その肌の白いこと。
「四十川さん、何の話をしていたの?」
「ああ……。赤羽さんが、何でもできてすごいなって話をしてたんだ」
柚葉は視界の端でスミレが「恥ずかしいことを言うな」と両手をクロスさせて合図しているのに気づいていたが、あんな大声で人の話をしていた方が悪い、と、気に留めないことにした。
千夜は右手で口元を覆い、目を細めた。
「そんなことは無いわ。私にだって怖いことや苦手なものはあるもの」
どこか古風な言い回しだが、これが千夜の話し方だ。そして、それがとてもよく似合う。
「例えば?」
柚葉の問いに、千夜は「そうね」と少し考えて、「例えば、昨晩の事件とか」と答えた。途端、柚葉は現実に引き戻された気になった。スミレとの会話があちこちに飛んだせいもあるが、事件のことは誰かとの間に話題として出すことなく、記憶の中にしまっておくつもりだった。人の生き死にに関わるような問題について、軽々しく話のネタにしたりはしたくなかった。
しかし、千夜は興味本位に面白がって話題にしたわけでもなさそうだった。それは、彼女が足下に落とした視線と、寒そうに腕を組む様子からも明らかだった。
「私、怖いのよ……。平気で人を殺すような人間が、それもまだ十五歳の女の子を殺すような人間が、この町にいるかもしれない、ということが」
「赤羽さん……」
柚葉は気の毒そうに、千夜を見た。彼女の言葉は弱弱しく、心の底から、姿の見えない殺人者を恐ろしいと感じているらしいことが分かったからだ。
「赤羽さん、大丈夫だよ。これから警察だって捜査するだろうし、パトロールだって強化されるよ。日本の警察は優秀だってよく聞くし、きっと犯人もすぐに逮捕されると思うよ」
「そうかしら……。本当に、そう思う?」
千夜は口元に手を当てて、目をぎゅっと瞑った。
「今日、帰るときに襲われたらどうしたら良いと思う? とても力では勝てないような相手が犯人だったら?」
「その時は、とにかく大声をあげて相手をひるませるんだよ。大丈夫、きっと近所の人が通報したり助けたりしてくれるから」
「そう……?」
まだ不安そうではあったが、千夜は固く瞑っていた目を開いた。
「大丈夫。防犯ブザーだって同じ原理なんだから。なんなら、防犯のアプリとか教えてあげよっか」
柚葉の励ますような言葉に、ようやく千夜は表情を緩めた。
「……そう、そうね。きっと大丈夫だわ。ありがとう、四十川さん」
安堵の息を吐いて、千夜は柚葉の複雑な色の目を見つめ、ふっと笑った。
「優しいのね」
柚葉は、その笑みに心臓を撫でられた。ぞくり、と背筋が総毛だつ。
「あ……」
言葉になりきらない声が漏れたとき、教室の前方で思い切りよくドアが開いた。元気よく靴音を響かせて、入ってきたのは一人の若い女性だった。と同時に、朝のホームルームの始まりを知らせるチャイムが鳴り響く。
緩く巻いた明るい茶色の髪をふわふわと波立たせながら、柚葉たちの担任である車
「おはよう、三年C組の皆さん」
車のよく通る声が、教室の隅々にまで、悲しい事件の犠牲者について伝えた。一分間の黙とうを終え、車は三年C組の生徒に、くれぐれも登下校の際は不審者に気を付けて、なるべく人気のない道は通らないように、用事が無い場合は速やかに下校すること、という注意事項を伝達した。教室にはその間、誰一人喋りだす者はなかった。車が事件について話している間中、柚葉はそれとなく千夜の背中を見ていた。しかし、角度によっては見えそうな彼女の横顔は、長い黒髪に遮られて、どんな表情で耳を澄ませているのか、窺い知ることは出来なかった。
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