scissor  シザー

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第一章

第一節

 夕闇が迫っていた。六月も半ばとなってだいぶ陽が長くなりはしたが、それでも午後六時を回ればもう、街灯が無ければ歩けないような暗さだ。正月一日あお月白は、赤を通り越して黒に染まっていく空を見上げ、歩調を速めた。どこかからか聞こえてくるのは、あれはカラスの鳴き声か。人気のない住宅街には、カラスの姿など見当たらない。遠くにいるはずの鳥の鳴き声まで聞こえるほど、静かな街。

 さっきまで学校の図書室で読んでいた、ホラー小説みたいなシチュエーションだ、と、月白は思わず笑みをこぼす。あの小説の舞台は外国だけど、あれをそのまま日本に移し替えてみたら面白いかもしれない。ああ、でも日本では、吸血鬼なんて登場させづらいかな……。

 学校ではつい最近夏季制服に移行したばかりで、月白が今身に着けているのは、夏用のスカートだ。薄地で通気性の良いそれは、今のように暑くなりきっていない時期には、微妙に寒い。そういう理由から早く帰りたいという意思が働いて、知らぬ間に、かなり早く歩いていたようだ。突然、前方に立ちふさがった人影に声を掛けられて、月白はそう気が付いた。

 人影は、月白より頭二つ分ほど背が高い。茶色のセーラー服を身に着けている。月白の通う萌芽学園の高等部制服だ。長い黒髪が、鞄も背負っていない背中越しに揺れている。顔はあまり見えなかったが、そのすらりとした体躯と、身に纏った独特の雰囲気から、誰なのかは簡単に察しがついた。

千夜ちよ先輩」

 慌てて立ち止まると、つんのめってしまいそうになった。それを、人影……赤羽あかば千夜が腕を差し伸べて支えてくれた。

「ありがとうございます……」

 照れながら急いで上体を起こし、月白は千夜の表情を窺おうと、目を上げた。しかし、急速に暗くなりつつある街角で、それは容易ではない。もう少し離れた方が話しやすいな、と判断し、月白は数歩、後ずさる。どうやら千夜は、かすかに笑っているらしい。

「千夜先輩、どうしたんですか。あ、もしかして私、また図書室に忘れ物でも……」

 千夜がさっきから黙っているので、月白はあたふたと言葉を継ぎ、鞄を開いて中を探る。以前、学校の図書室で本に夢中になって、携帯電話を机に忘れて学校を出てしまったことがあった。その時も、千夜が後を追いかけてきて、届けてくれたのだ。月白はその記憶からそんなことを言ったのだが、言ってしまってから、はたと気が付いて手を止めた。以前の忘れ物と同じならば、なぜ千夜は「前方から」現れたのか。学校のある「後方から」追いかけてくるのが普通ではないか。

「正月一日さん」

 現れた時と同じくらい唐突に、千夜が口を開いた。

「は、はい」

「後悔という言葉の意味を知っている?」

「後悔、ですか」

 あまりに思いがけない言葉を投げかけられて、月白は口ごもる。千夜と話せるのはうれしいが、何を求められているのか、よく分からない。

「何か、間違ったことをした後に、ああしなければ良かったのに、と思うこと……ですよね」

「正解です」

 千夜はにっこりと笑いながら、右手を顔の横に掲げた。暗くてよく見えないが、何か、よく見知った形状の物を手にしているらしい。いったい何のジェスチャーだろうと目を凝らす月白に、なおも千夜は続ける。

「私は、後悔を促すために来たの。許されることなど到底あり得ない過去の過ちを、せめて悔いるように」

「過去の過ち……?」

 月白には、千夜に詰られるような失敗など思いつかなかった。確かにそれほど機敏ではないので、所属している図書局では何度か本のカバー掛けで失敗したり、配架を間違えたりはした。しかし、それはすぐにほかの局員にフォローしてもらえる小さな失敗だったし、ほかならぬ千夜も笑って見ていたようなものだ。許すことなど到底出来ない、などと言われるほどの失敗を、自分は何かしたのだろうか。

 色々な失敗を脳裏に浮かべながら、月白は緊張した面持ちで千夜を見つめる。その右手に掲げられた物が何なのか、ようやくはっきりしてきた。

「許されるためでなく、ただ遺された人間の心を慰めるためだけに、悔いなさい」

 千夜が掲げている物は、鋏だった。なんてことはない、ただの文房具でしかないそれは、しかしなぜだか妙に不吉で、恐ろし気な光を帯びている。月白はその切っ先の鋭利さに息をのみ、また数歩、後ずさった。背中が何か壁のようなものに当たって、それ以上後には退けない。

「千夜先輩……どういう冗談ですか」

「これは冗談ではないの。これは……」

 くす、と笑って、千夜はその右手を振り下ろす。それが合図だったように、月白の視界から、光が奪われた。

「復讐なのよ」

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