第5話 訊問


 私が苛立っていたのは、学校での何首烏かしゅうが気に入らなかったのもあるが、此嘉このかといる間もずっと尾行されていたからでもあった。勿論その苛立ちは、現在進行形で続いている。今も私の前を先行する不気味な男、何首烏秀司しゅうじは、私がついていっているのを確信して疑わないかのように、一度も振り返ることなく歩を進めていた。

「ここがいい。ここにしよう」

 そう言って何首烏が立ち止まったのは、彼のイメージとはおよそそぐわない、落ち着いた雰囲気の喫茶店の前だった。

 私は何首烏の魂胆を測りあぐねていた。昨日交際を承諾したものの、まさか本当に付き合うつもりなのだろうか。それとも、意図は他の所にあるのだろうか。ただただ何首烏秀司が解せず、私の苛立ちは募るばかりだった。

 店に入って疎らな客の中、私達は一番奥の席に連れて行かれた。客の年齢層は私達よりはやや高く、制服を着た男女は少し浮いた印象を周りに与えていることだろう。それぞれ飲み物を注文し、二人分のグラスがテーブルに置かれてから、漸く何首烏は口を開いた。

「僕をどうにかしたくはないのかい?」

「はぁ? それは貴方の台詞じゃないの? どうにかするんじゃなくてどうかしてるんじゃない?」

「辛辣だね。言葉のナイフ、いや、斧といったところか」

「貴方の目的が全く見えないわ。何がしたいの? 私の身体を好きにしたいの?」

 私の発言に、周りの人が眉をしかめてこちらを見るのが視界の隅で写った。ああ、今日はこの男のせいでよく見られる日だ。いつまで私はこの男の奇言奇行に振り回されなければならないのだろうか。

十津川とつかわさんの身体、ねぇ……。一概に否定はしないけど、僕は君そのものが見たい」

 益々訳が分からない。

 嫌悪と怪訝で顔を歪める私に、何首烏は補足した。

「僕はね、奔放な女性が好きなんだ。物事に縛られない、利己的と言ってもいい、そんな女性が好きなんだ」

「何を……」

「まぁ聞いてくれ。僕と君の仲だろう。……僕は自由な女性を求めていた。そんな折、僕は十津川さんを見つけた。そして自分のしたい事をする君に憧れたんだ。でもただ憧れてるだけじゃつまらない。僕は君みたいになろうと思い、こうして自分のやりたい事を実行に移せるようになった。僕が今の僕たりえているのは、他ならない君のお蔭なんだよ。君が、十津川冬華とうかが、僕をこうさせたんだよ」

 一通り語り終えて満足したのか、何首烏はグラスに手をかけた。

 一方で私は、金縛りにでも遭ったかのように眼前の男に釘付けられていた。

 何だこの男は。気持ち悪いという形容に納まる生半可な人間ではない。或いはそう、目の前に座ってアイスティーを傾けているのは既に人間ではないのか。思慮も遠慮も憂慮も棄て去った、得体の知れない何かではないのか。一挙手一投足すらも、この粘着質な悪寒に苛まれるような予感がする。例えるのなら、蠢く無数の虫が私の身体を這いずり回っているような感覚。底のない泥濘でいねいに足を取られる感覚。

 呆気に取られた? 二の句が継げなくなった? 恐らく違う。おののいているのだ、この男に、何首烏秀司に。本意ではないが、そう認めざるを得まい。

 できることなら、今すぐにでもここから逃げ出したかった。恥も醜聞もこの際はいとわない、ただただ遁走とんそうに躍起になる暴徒と化したかった。

 だが何首烏は束縛の手を緩めない。

「僕の話はいい。君の話を聞かせてくれ。僕は君が知りたいんだ」

 お断りよ、と口の中で舌が震える。しかしそれを口にした末路が目に見えているが故に、私はそれを発することはできなかった。

「何を、話せば満足してくれるのかしら」

 故に、今の私にはこの男の要求に応えることしかできなかった。

 何首烏は、我が意を得たりと口角を獰猛に吊り上げると、手の指同士を組み交わし肘を机に置いた。

「何もかもだよ。君がこの世に生を受けてから、現在に至るまでの、全てをだよ」


 話した。好きでもない男に自らの生い立ちを、物心がついた頃からの話を、吐かされた。

 その間、何首烏が私から視線を外すことは、一度としてなかった。

 私はその嫌悪感に背筋を舐め上げられながら、一度として彼奴の目を見ることなく、忙しなくその視線を彷徨わせていた。

「――特に感慨らしいものはなかったわ。どちらかといえば、心が旱害かんがいに遭ったような気分だったわ。……これが一昨日の話。あとは推して知るべしよ。満足したかしら?」

 話し終えてようやく、私は手元のレモンティーに視線を落ち着かせた。氷の上に漂うレモンはくるくると回っており、ストローでつつくと氷の下に沈んでいった。

 私が閉口しても数秒間は、こちらを舐め回すように凝視し続けていた何首烏だったが、やがて宙を仰ぐ仕草を見せた。

 周りの客は、既に私達への興味を失っており、各々の談笑に勤しんでいた。

 そんな中、私には何首烏の挙動のみがやけにクローズアップされて映った。それ程に私がこの男を警戒しているのか、はたまたこの男が私の意識を向けさせるに足る何かを備えているのか、その答えを自ずから知る余力はない。ただただ奇妙に、魚眼レンズを通しているかのように、何首烏の身体が肥大化しているように錯覚した。

 天井を仰いでまたも数秒間、何首烏はぐりんとその首をこちらに回した。爬虫類のような生気のない眼球が私を捉え、マネキンのように無機質な顔貌が柔和な笑顔の形に表情筋を蠢かせた。

「ありがとう十津川さん。感謝するよ。それじゃ用も済んだことだし、そろそろ出ようか。お代は僕が持つよ」

 言うや否や、何首烏は自らの鞄を持ち、私にも席を立つよう促した。それに従う他はない。唯々諾々とその通りに動くしかなかった。

 店を出て直後、先を行っていた何首烏はまたも奇怪な挙動でこちらを振り返る。身体は前に向け、首を横に向け、顔を上に向け、目でこちらを捉える。私がたじろぐのを余所に、何首烏はにやりと粘着質に笑んだ。

「今日は楽しかったよ。また話を聞かせておくれ。そうさな、今度の日曜にでも、どちらかの家でどうだい」

 怖気がうねる。酷薄にも酸素は肺を拒み、視界は黒白を帯びた。

 それでも私は自らに思考停止を許さなかった。どちらかの家? 冗談ではない。此奴の懐にのこのこ飛び込む馬鹿があるか。夏の虫とて、煉獄の火中に身投げはすまい。

「貴方の家だなんて、何をされるか分かったものではないわ。いらっしゃい。今度はちゃんと、貴方を招待してあげるから」

 私は首を異様に曲げる何首烏に、毅然と言い放つ。いつまでも慄き続ける私ではない。眼前の男に対する嫌悪感で胃液がせり上がるのを感じつつも、中指を立てて突きつけてやるのだ。

 何首烏は身体ごとこちらに振り返り、私に相対した。

「楽しみにしているよ」

 夕凪の中、確かに一陣の風が私達の間を吹き抜けた気がした。私としては、これが訣別の風であることをひた祈るばかりであった。

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