出張編48話 巌窟王は好きだがね



「すごい量のファイルね。これが政財界を震撼させる資料なのかしら?」


声と上品な紅茶の芳香が、背後にいるのが風美代だと教えてくれる。


「覗き見は感心しないね。」


「ごめんなさい。守秘義務は守るから大目にみてね。」


「守秘義務か、キミが官僚になるべきだったんじゃないか?」


「私に官僚は無理よ。あなただって前例踏襲と事なかれ主義が横行してるって、ご不満だったじゃない。」


ソファに腰掛けてから風美代は紅茶を口にする。この香りはダージリンかな?


「そんな不満をこぼしてた時期もあったな。私も若かった。いつの間にか霞が関の慣習に馴染んで、入省した頃の情熱を失ってしまっていたが。」


なにかと世間から批判されがちな官僚だが、入省してきた時には熱意も理念もある者がほとんどだと思う。


現実の波に揉まれるうちに徐々に角が取れ、知らず知らずに事なかれ主義者になっていく。………私もそうだった。


自分は大人になったのだと言い訳していたが………違う。情熱と理念を削がれた者の負け惜しみだ。


野に下って改革を志した連中を省に残った私達は馬鹿にしていたが、彼らには彼らの信念があったのだろう。


風美代はリビングテーブルの上に広げたファイルを見ながら、


「あら、この政治家も不正に関わってるの? 庶民派で人気のある方なのに意外だわ。」


「風美代、この女は庶民派の政治家じゃない。見識が庶民レベルの政治家なんだ。」


「庶民を馬鹿にするのは感心しないわ。」


「馬鹿にしちゃいない。庶民の政治見識はアマチュアでいいんだよ。代わりに庶民はなにがしかのプロなんだから。音楽家のキミは音楽のプロだし、パン屋ならパン造りのプロさ。ならば政治家は政治のプロであるべきだろう? だがこの国で庶民派なんてもてはやされる政治家は、総じてプロではない。」


「感情論だけで物を言う政治家が庶民派を標榜してるって言いたいのね?」


「そうだ。政治家は国民感情や世論に鈍感ではいけない。だが世論に迎合するだけでもいけないんだ。そのあたりはポピュリズムが横行する現代の政治家より、一昔前の政治家の方が骨があったように思うよ。」


「正論ね。あなた、政治評論家になったら?」


風美代の提案に私は苦笑する。


「風美代、私は………」


「はいはい、覚えてますとも。評論家はあなたが一番嫌いな人種よね。え~と、結果だけ見てあーだこーだ言うだけなら誰だって出来る。言うだけの高邁な正論なんて、なんの役にも立たない。実際にやってみてから言ってみろ、だったっけね。」


「正確には批判するだけの評論家が嫌い、なのだがね。しっかり勉強していて、拝聴に値する評論をされる方もいる。少数派なのが残念だが。評論家と言えば、そろそろ昼のワイドショーの時間だな。」


「あなたもワイドショーなんて見るのね。………雨でも降るんじゃないかしら?」


知り合いが出演してるんでね。ギャラは貰ってないだろうが。


私はテレビのリモコンのスイッチを入れた。


「――――今朝の産流新聞の記事によりますと、財務官僚の苫米地進氏には児童買春の容疑がかかっており、捜査機関が近く事情を聴取する模様です。苫米地氏は米国に出張中に少年相手に猥褻行為に及んだ疑惑が………」


ニュースを読み上げるキャスターの顔に嫌悪感を感じるのは私だけかな?


「………あなたの仕業ね?」


「権藤への手付金だよ。苫米地の泣きっ面だけは生きている間に拝んでおきたくてね。」


「あなたは生きるのよ。死が確定事項みたいに言わないで。」


私が答えようとする前にスマホが鳴った。録音機能をオンにしてから電話に出る。


「アンタの仕業だな!よくもよくも!霞が関を敵に回したらどうなるか……」


「霞が関を敵に回したのはおまえだ、苫米地。財務省の看板に泥を塗った。」


「お、おぼえていろ!ただじゃ済まさない!」


「ククク、歪んだ欲望を満たすのは結構だが、米国なら大丈夫だとでも思っていたのか? 私に文句を言ってる暇があったら、女房とその実家への言い訳でも考えた方が建設的だぞ。義理の親父がさぞご立腹だろう。」


電話を切ってから素早く着信拒否の操作をすませる。


操作終了と同時にまた電話だ。………この番号は水木か。


「お久しぶりですね、水木局長。よくこの番号がお分かりで。」


「産流の権藤が教えてくれたんだ。苫米地の件は君の仕業か?」


「はい、局長に最後に恩返しをしておこうと思いまして。」


「恩返し? 恩を仇で返すの間違いだろう!苫米地は私の部下なんだ!私もタダではすまん!」


相変わらず保身にだけは熱心な男だ。


「局長、悪性腫瘍は早めに切除する以外に方法はありません。権藤は自力で苫米地の性癖を掴み、調べ始めていました。権藤は鼻つまみ者ですが、記者としては有能です。となると苫米地の異常な性癖が露見するのは時間の問題、ならば先手を打つしかないでしょう? 責任あるポストにつけてからでは致命傷になるかもしれませんが、今ならなんとでもなるはずです。実際、苫米地のやらかした事と局長はまったく無関係なのですから。」


「………管理責任は問われる。」


「でしょうね。しかしそれだけで左遷されたりもしないでしょう。省内ではむしろ同情されるのでは?」


「かもしれんが私が欲しいのは実利で、同情ではない。」


そこのところは同意してやる。同情などなんの役にも立たんのは思い知ったからな。


「リーク先の権藤には局長への追求は控えるように約束してあります。苫米地を手早く処理すれば提灯記事も書いてくれるはず。スクープ元が同情的ならば、局長のお力なら凌ぎ切れるでしょう。」


無論でまかせだ。権藤はこの件での追及は控えるが、提灯記事など書かない。経緯はどうあれ結果は同じだ。貴様は別の件で始末するのだから。


「………そうだな。脛に傷がある苫米地は早めに処理するのが正解か。だがそういう事情なら事前に連絡して欲しかったぞ。」


フン、声から安堵感が染み出ているぞ。貴様を地獄に送るのはもう少し先だ、楽しみにしていろ。


「連絡は差し上げたのです。ですが局長は………」


今の時点で疑いを持たれるのは不都合だから、本当に連絡はしてやったのだぞ。


私からの電話は取り次ぐなと指示していたのは貴様だろう?


「………済まなかった。ここのところ多忙でな。もう同じような案件はないのだろうね?」


「ありません。私が生きている間に局長が事務次官の椅子に座る姿をお見せください。」


「ああ、そうするつもりだ。君には世話になったのにすげなくして悪かったね。とにかく多忙だったものでな。」


私を切り捨てた事を少し後悔したらしい水木は、そう言って電話を切った。


貴様のスケジュールや仕事量を誰より知っているのは私だぞ。


そんな嘘を鵜呑みにすると思っているあたり、貴様も相当おめでたいな。


今さら少しばかり後悔したところで、私は復讐を止める気などない。


「お見事、惚れ惚れするような悪党ぶりね。財務省一の切れ者と言われる訳だわ。」


「あまり嬉しい褒め言葉じゃないな。風美代、これを持っていてくれ。」


私は無線機を二つ、風美代に手渡した。


「これは?」


「見ての通りの無線機だよ。キミと娘さんの分だ。」


「アイリでいいのよ。あの子もそう呼んでって言ってるでしょう。」


「分かった。この無線機はキミとアイリの安全の為の用心さ。追い詰められた苫米地が何をしでかすか分からんからな。もし、私がいない時に苫米地がやってきたら、その無線機のボタンを押すんだ。」


「押したらどうなるの。」


「向かいの借家から空手部の大学生4人がとんでくる。私の雇ったバイトだ。私抜きで出かける時も、彼らのうち2人を同行させてくれ。」


「本当に手際がいいわね。現代のモンテ・クリスト伯を襲名したらどう?」


巌窟王モンテ・クリストか。好きな小説だが、似たような事をやる羽目になるとはな。


人生は分からんもんだ。だが不謹慎にも、私はこの状況を楽しみ始めている。


この程度の修羅場など、本当に命のやりとりをしている波平、いやカナタに比べれば可愛いものだが。


「戻ったぜ。いやいや久しぶりにいい仕事をしたもんだ。」


「権藤、インターフォンを鳴らしてから入ってきてくれ。」 「それとノックもよ。野蛮人さん。」


権藤は寝グセのついた髪をガリガリ掻きながらボヤく。


「離婚した割りには息のあった攻撃ですなぁ。天掛の依頼で各地を飛び回ってやっと東京に帰ってきたってのに、休む間もなく復讐の手伝いまでさせられた哀れな男を少しは労ってくれないか?」


「ご苦労さま、紅茶はいかが? 光平さんは珈琲よね?」


私が頷くと風美代はコーヒーメーカーの準備を始める。


「権藤、どうだった?」


「実に興味深い結果だったよ。天掛の頼みじゃなくても、この件を追いかけたくなってきたね。」


権藤に頼んだ調査は、今の私に最重要な話だ。




私の予想が当たっていてくれよ。当たっていれば彼方への道が開けるかもしれんのだ。



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