えらばれしものファーストブラッド

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えらばれしものファーストブラッド

 ある暗い雨の降る月曜日、東急当横線のレール上でぐちゃぐちゃっとなった瞬間から、男の第二の人生は始まった。




「人の子よ、そなたには成すべきことがあります」


 女神はそう言った。


「幾世代もの長きにわたり、この荒廃した世界を統べるものはいませんでした」


「かつて英雄たちが成し得た偉大な業績は、今や神話として唄われ子守のお伽話で聞かされるのみ」


「しかしその伝説は希望に満ちた預言の中に息づいています」


「遥か世界の彼方から、秩序と安寧をもたらす選ばれし者の物語」


「剣を取り、神託を果たしなさい」




 男は美しく闘争の絶えないその世界に降り立つとともに、長い旅に身を投じていった。


 北方の凍てつくフィヨルドで、南方の熱砂のオアシスで、東方の暁の出でる海で、西方の富栄えた帝国都市で、ある時は血を流し、またある時は終生の友を得た。


 男がこの世界で最初に戦う理由を答えたとき、それは冒険者ギルドの喧騒にかき消されただけだった。


 しばらくして男がまた同じ台詞を言ったとき、酒場の誰もが笑いながら、冗談半分で無謀な望みに乾杯してくれた。


 三度目に男が夢を語ったとき、そこにいた吟遊詩人が失われた英雄の伝説の一節を奏で、歌い上げた。


 四度目に男がそれを口にしたとき、大広間中が静まり返った。城を出た男がしばらくして足音に振り替えると、王国の名だたる騎士団員たちが後を追ってきた。騎士たちは男の前で立ち止まり、煌びやかなマントの上に縫い付けられた紋章を破り捨てた。騎士たちは、王のためではなく平和と秩序の名のもとに戦うことを誓った。年老いた賢者たちも書物の山をたずさえて、後から追いつくや否や、息も絶え絶えに同行を願い出た。


 五度目に男の望みがいにしえの森に響き渡ったとき、古代エンシェントエルフたちは何も答えず、ただ神殿の宝物庫を数万年ぶりに開いた。想像もつかぬ魔力を帯びた壮麗な武器や鎧が、男に手渡された。




 長い月日が流れた。転生してから524度目に月が空を回った日、男は再び女神と言葉を交わした。世界の果てに連なる、天と地を繋ぐ山の頂上で、選ばれし者は約束が果たされたことを告げた。




 千年ぶりの平和に世界中が沸き、男もしばらく静かな暮らしを楽しむことにした。


 今やこの世界は完璧でこそないがそれに近づきつつある。ヒトと亜人が殺し合うことは無くなり、死よりも恐れられたドラゴンさえ空を賑わせ、人々の目を楽しませる存在となった。田畑はあらゆる作物を豊かに実らせ、天災は精霊たちが予知するために滅亡を意味することもなくなった。魔力の込められた新貨幣は正確に資本の流れを帝都の賢者たちに知らしめ、洗練された統制経済が実現された。やがて民が貧困におびえる日は無くなるだろう。


 世界の中心にある帝都にて、男は苦楽を共にしてきた仲間たちに囲まれながら、申し分のない生活をしている。



 男は満ち足りているはずだった。しかし一方で、心のどこかに憂慮というか、しこりのような物が残っていることを、彼は認めざるを得なかった。


 それが難なのかは分からなかったが、念慮は日に日に増していく。


 殺してきた者たちへの後悔だろうか?確かに血を流してきたが、無駄な殺生はしていないはずだと、胸を張って言える。世界のどこかに邪悪な敵が潜んでいるのか?世界のすべてを知っているわけではないが、たとえ強大な敵がいようと立ち向かう勇気は失ってはいない。さらなる戦いを心の奥で求めているのか?平和が一番なことくらい百も承知だ。しかしちょっと近い気もするな。


 男はふと、あの女神が呼んでいる気がした。気が付けば、彼はまた世界の果ての山頂に足を運んでいた。


「人の子よ、そなたの心に隠された望みを叶えましょう」


 男の目の前に、光り輝く門が現れた。それが何なのかはすぐに直感した。門は閉じていたが、男の胸中にある追憶や郷愁といったものがそれを嗅ぎ当てていた。


「そなたの故郷の世界へと至る門です。くぐりなさい」


 男は一瞬だけ躊躇い、ゆっくりと静かに扉を開いた。




 男は、いずことも知れない都内のどこかの高層建築の屋上に立っていた。


 数十年ぶりの元の世界の匂いは、排気ガス混じりの無機質な匂いだった。立ち並ぶビル街を眺めながら、自分の生まれた場所が、こんなにも灰色だらけなことに、男は初めて気づいていた。耳障り極まりない騒音を立てながら、電車が揺れ走っている。


 自分があの世界で築き上げてきた世界と比べ、単純に醜さを感じた。そこかしこから、生きることへの痛みや怒りが今にも溢れてきそうな感覚を幻視した。


 意外にも、懐かしさがこみあげてくることはなかった。それ以上に、かつて数えきれないほど感じていたが今や忘れかけていた、形のない不安やひりひりとした不快感が蘇ってくるのを、男は確信していた。


 俺は、この世界に用がある。だが、帰って来るためではなかった。


 男は、踵を返し再びもう一度門をくぐった。眺めるに耐えなかったからだった。


 いつの間にか、男の目には光が宿っていた。


 それは、獣の目だった。


 賊の野営地に単身乗り込み、一人残らず地獄に送ってやった時。気に入らない汚職に手を染めた貴族の首を、両手で握りつぶした時。攻め落とし、灰燼に帰した城塞の真中で敵将の旗に火をつける中、兵士たちが男の名を叫び讃えた時。難民街の一角で、花売りの娘からもらった一凛の黒睡蓮と引き換えに、一つの国を滅ぼした時。


 血と炎の中で、胸の中に戦う理由が脈動するとき、男の目にはその光が宿るのだ。その目の光はかつてないほどに輝いている。


 男は、女神のいる方に向き合った。女神はただ静かに、彼と目を合わせている。


 選ばれし者は、はじめて己の望みを伝えた。復讐の女神は、それを聞き入れた。




 その日、外務省大臣官房と防衛相統合幕僚監部に宛てて、素晴らしく上等な紙とインクでしたためられた親書が届いた。担当役人は良く出来たイタズラだと思いながら、後で処分しようとデスクの隅にそれを投げ捨てた。


 それから二十四時間後。前日の宣戦布告の通りに、首都圏内各地に超規模転移魔法により開かれた異界との門から、天と地を埋め尽くさんばかりの魔物の群れ、この日のために鍛え抜かれたニンゲンと亜人の混成大部隊、存在そのものが一つの災害になりえる上級悪魔や竜、強大だが全能でも善良でもない下級神などが降り立った。記念すべき第一回異世界遠征の始まりであった。


 大して知能の無い魔物たちは、新天地でのびのびと繁殖するためにそこら中に散らばっていった。その辺を歩いているひ弱な現地人に恐怖を植え付けながら。


 世界を統一した偉大なる選ばれし者の招集に呼ばれた馳せ参じたヒトと亜人の軍隊はもう少し明確な目的があった。戦利品欲しさに従軍する者もいたが、大抵はあの男が説いた、数千年にわたり統一されず混乱した異世界に平和と秩序を与えるための聖戦に身を捧げるために剣を手に取っていた。転移先は大国の都と聞いてやってきたのに、どこを見渡しても小汚い灰色の景色が続き、そこらの民衆はきらびやかな宝飾品を何一つ身に着けておらず、死んだ目で手元の機械を眺めるばかり。心ある戦士たちは、彼らのような哀れな民衆のために一刻もこの世界を統一し豊かさを与えてやらねば、と決意を新たにしつつ、在日米軍や自衛隊の兵卒を切り刻んでいた。


 門の一つの近くに築かれた陣地で、男は各地から入る戦勝報告を聞いていた。異世界人の一般的な肉体は、5.56ミリのライフル弾では傷一つ付かず、魔力を帯びた剣は主力戦車の正面装甲を容易に切り裂くことができた。エルフや魔族であれば戦力差はさらに大きく、すべての戦闘がこちらの死者が出る前に完了した。街中に突然現れた異界の軍勢の前では、頼みの綱の戦略爆撃やミサイルも、民間人を傷付けず使うことは不可能だった。


「国会議事堂」なる城塞を制圧したとの連絡が入り、男は立ち上がった。祖国を滅ぼすのはちょっぴり気が引けたが、統一のための橋頭堡としては悪くなかった。


 引きずり降ろされた日章旗の代わりに、男の紋章を染め抜いた旗が掲げられていく。今頃、この世界中が混乱と恐怖の底にいるのだろう。株式市場は崩壊し、あらゆる国家が兵力をかき集めているのが容易に想像できた。


 脆く、不安定な世界。早くこの手で導いてやらなければ。やるべきことは山ほどある。男は、今なら己の戦う理由が確かに理解していた。


 男は、ついに宿敵を打ち破る日が来たのだ。

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