301回目の9月28日
301回目の9月28日
午前10時、徳井は学校にある屋内プール場へと来ていた。自習に出ていなかったたまきはおそらく水泳部にいると読んだからだ。
徳井はプールで泳いでいるたまきを探す。すると、徳井はプール横のベンチで腰掛けている水着姿のたまきを見つけると、彼女のそばへと近づいた。
「おーい」
「あ、テンちゃん!」
スポーツドリンクを片手にたまきは手を振る。
「何してるの?」
「ちょっと覗き見」
徳井はたまきの横に座る。近くもなく遠くもないただ隣にいる距離感であった。
「タイムループ現象が終わるみたいだぞ」
「知ってるよ」
「水泳やっていた意味あったな」
「うん、ガンバった」
たまきはクロールの泳ぎを見せると、徳井は小さく笑った。
「オレもガンバっていたら良かったのにな」
「それって、運動? 勉強?」
「すべて、すべてだよ。適当な言い訳せずに、なんか打ち込めるもの、探しとけばよかった」
「スマホ部は?」
「廃部になるだろう。スマホを捨てるバカはもういなくなるからな」
「テンちゃん、どうしてスマホを拾っていたの?」
たまきは素朴な質問、いや、誰もが聞きたかった質問を口にした。
「……たまたま落ちていた。目についた。拾った。警察はすぐ持ち主に届けなかった。届けが出ていないとかで動いてくれなかった」
「普通そうじゃないの?」
「たまきはパスワードのかかっていないスマホの中身を見たら普通気になるよな」
「中身見たらダメだって」
「もしそこに、もうオレダメだとか、なんでオレ生きてるんだろうとか、もう誰かに搾取されたくない、壊されたくないとか、書いてあったら、この先、何が起きるか予想できないか?」
「……見たの? そういうスマホ」
「見てない。ただ」
「ただ」
「その中身をスマホAIが持ち主の状態を説明したらどうする? 今朝、体調がすぐれませんでした、何か考えことをしていましたとか言ったら助けたいとか思わないか?」
「……それは思うかもしれないけど、やっぱり迷惑じゃないの」
「迷惑だな。――でも、それで誰かがこの世界から去ったら、それは迷惑じゃなくなる。あのときできた、変えられたと一生後悔してしまう」
「そういう気持ちでスマホを捨てるヒトは少ないと思う」
「まあな。……普通に落としただけのスマホが多いな」
たまきは運命スマホのことを知らないと思い、徳井は運命スマホについて伝えることをやめた。彼女まで運命スマホで自分の運命を占うようなマネをして欲しくなかったからだ。
「あ、そうだ。忘れてた」
徳井はズボンのポケットからスマホを手にする。
「愛理の話相手になってくれないか」
徳井はスマホの電源ボタンを押し、たまきにスマホを渡す。
「いいけど、テンちゃんは?」
「ちょっとそこらへんを自転車でウロウロしてるよ」
徳井はそういって、屋内プール場から足早に出ていった。
「おかしいの。愛理ちゃん、テンちゃんがおかしな理由知っている?」
寝巻き姿の愛理は答える。
「徳井さんはわたしを捨てるかどうか悩んでいます」
正午。
徳井は繁華街の大通りを歩きながら道に落ちているスマホを探す。
別に、落ちているスマホを探すために、繁華街に来たわけではない。
彼は繁華街の大通りを歩くことで、昔あった日常に触れているのだ。
それは突然だった。スマホの時刻表示が9月28日から次の日へと動かなくなったのは。普通ならば9月29日となるはずの日付が、なぜか9月28日のまま止まった。クラウドOSの不具合によって、ほぼすべての機械の日付が9月28日となったのだ。
それによって引き起こされたのは経済危機であった。9月28日のデータが更新されないことで、9月27日のデータへとロールバック、巻き戻りが起きてしまったのだ。当然、銀行は業務停止、多くの企業も営業停止へと追い込まれた。
コンビニは電卓片手で仕事をし、スーパーマーケットは多くのお年寄りが詰めかけて日常品を買い漁る。すべての国が現金不足で、政府は紙幣を刷って対処しようとする。世界中は世界恐慌以来の大パニックになった。
そして、それは徳井の日常にも影響を及ぼした。いつもあたりまえだった日常が突如変化した。
地下鉄からスーツ姿の大人が消え、普段着の大人が増えた。
電車でスマホを見るヒトがいなくなり、代わりにボケっと空を見るヒトが増えた。
コンビニで何かを買おうとしてもいつも行列を作って、店の棚にはろくなものが置いていない。
学校で少しずつ休んでいく同級生達。理由はストレス。毎日9月28日が繰り返されて、自分が何をしているのかわからないというものだ。
そしてそれは大人の社会にも
そのころから徳井にある価値観が生まれだす。
――人間は時間に紐付けられて生きているのか?
何言ってるのオレという程度のつまらない冗談だった。しかし、その冗談が段々とカタチとなって表出する。
定刻通りに来る地下鉄の電車、いつもはすし詰め状態なのに、ヒトがまばらで座る席がある。
チャイムが鳴っても時間通りにやってくる先生が少なくなっている。
そんな中、街を行き交う動ける大人は腕時計をつけて、いつもそればかり見る。まるでそれはコンパスのように、手放したらもう正確な位置が測れなくて、自分が迷子になるような姿だと、徳井には見えていた。
しかしながら、知らない間に、それは自分にも影響を受けていた。徳井はスマホAIの愛理に口癖のようにこう言っていた。
「今何月何日だ」
愛理はやれやれという表情で正確な日付と時間を教える。ああ、そうだなと返答するが、時間が経てばまた同じ質問をする。愛理は「何かの冗談ですか? 今度は何を企んでいるんですか」と、徳井の変化に気づかず、そう返答していた。
何回かの9月28日を繰り返したある朝、徳井は繁華街で友達と遊ぼうとし、その大通りであるものを見つけた。スマホだった。徳井は急いでいることもあり、誰かが拾ってくれるだろうと見て見ぬふりをしようとしたが、運悪くそのスマホを蹴り飛ばしてしまった。故障したのではないかと思いすぐ中身を確認すると、ごく普通に起動した。徳井は大丈夫だなと思い、道端に戻そうとしたが、誰かに見られているのではないかと意識して、そのスマホを拾うことにした。
友達と遊んだ後、家に帰ろうと地下鉄に行くが、人身事故でしばらく電車が使えない状況であった。駅近くの古本屋やドラッグストアで時間をつぶして、再び駅へと戻ると電車は動き出していた。
地下鉄を利用し、自宅へと戻った徳井は拾ったスマホの中身を見ることにした。もうスマホの中を見たのだから、すべて見ても同じではないかというのが彼の認識だった。電源ボタンを押し、パスワードのかかっていない画面を開けると、スマホAIのアイリがいた。
「あなたは誰ですか? マスターは?」
「ごめん、オレはスマホを拾ったんだ」
「マスターはどこにいますか?」
「わからない」
徳井がそう返事すると横でテレビを見ていた愛理が反応する。
「徳井さん、そういうときはネット検索ですよ。マスターの名前や個人情報や、そんなとこまで諸々知っているスーパースマホAIアイリちゃんなら、何処かの私立探偵を雇うよりも正確に出ますよ」
徳井は愛理の言うとおりに、アイリに本人の家を特定することにした。
「マスターの所在地がわかりました」
「どこだ」
「病院です」
「病院?」
「はい。マスターは人身事故に遭い、電車にはねられ、死亡しました。警察はこの事故が自殺と関連あるか調査していますとニュースに出ていました」
徳井は後悔した。このスマホを拾うべきではなかったと後悔した。
「アイリ、マスターは何かあなたにメッセージ残した?」
愛理はアイリにそう尋ねる。
「時間のせいだ」
アイリは無機質、しかし、持ち主を代弁するようにそう言葉を放った。
「時間が繰り返すせいで銀行からカネを借りられなった。早く借りないと会社が潰れる。人手が足りないのにカネまでなくなったらどうすることもできない。ホントだったら、返済期間が長かったはずなのに」
遺言とは違う、死者の
「あれもこれも時間のせいだ。なんで時間なんて存在するんだ! オレの時間を返せよ! オレの人生!! ――このような言葉が私にぶつけるように言っていました」
アイリはあくまでもメッセンジャーとしてそう言ったのであった。
翌日、徳井はこのスマホを放課後警察に届けようと思いながら学校へ行った。昼休み、愛理が「アイリちゃん、大丈夫か話していい」と言ったため、徳井はアイリと合わすことにした。
「アイリちゃん、元気?」
愛理の呼びかけに、アイリは答えた。
「あなたはだれですか?」
「あー、そう来たか。まあ、100億もアイリがいたらこんな個性的なコぐらいいるよね」
「個性的なのはオマエだけで十分だ」
徳井はタイムループ現象でアイリのデータがリセットしたのだと考えた。
「今日はオマエを持ち主に届けようと思っている。まあ、もう死んでいるんだけどな」
「マスターは死んでいません」
「いやいや! 昨日、人身事故で亡くなったって――」
「すいません、ちょっと検索します」
アイリはネットから情報を収集する。
「マスターに関する死亡情報はどこにありません」
ネットもまたタイムループ現象でデータがリセットしていた。つまり、アイリはマスターが死んだことを忘れたのだ。
徳井はアイリがマスターがいる病院の情報を持っていたと思い、所在地を確認していなかった。しかたなく、徳井は学校近くの派出所で警察にスマホを渡すことにした。
「すいません、落ちていたスマホを拾ったですけど」
「感心だね。落ちていたスマホを届けてくれるなんて」
「あの、持ち主なんですけど」
「大丈夫大丈夫。相手は遺失物届出を出すから、そのときにお礼とかもらえるから」
「いえ、そうじゃなくて」
徳井は、スマホの持ち主は死んでいます、と言う言葉が言えずにいる。
「まあ、こういうのは相手先のご好意次第だからね。ありがとうの言葉だけかもしれないけど、きっと届いてもらった本人は本当に感謝しているからケチとか思わないでね」
徳井の身体から自分を温めていたモノがするりと出ていった。
ヒトのやさしさがこんなにもおそろしいモノとは自覚したことはなかった。
――このヒトは知らない。
――持ち主が死んでいるのに、スマホが持ち主に戻ると信じている。
ああ、ああ、なんでスマホの中身なんか見てしまったんだろうか。スマホAIと話なんかしたんだろう。
……後悔だ。なんてことをしたんだ。やってしまった。
スマホが落ちたことなど素知らぬ振りしとけば、こんな気持ちになんかならなかったのに。
「さて、届けを出すからキミの名前聞いてもいいかな?」
警察官に尋ねられた徳井はなぜか派出所を背にして、その場から走り出した。
「お、おい! キミ!」
警察官の呼び声を無視し、必死に走った。無我夢中に走った。
徳井は自分がなぜ走ったのかわからなかった。本人に届かないということがわかっていながらも、届け物として渡した自分のバカさ加減にいらついたのか。
ただ、このスマホをもっと早い時期に中身を見て、本人に届ければ、もしかしたら彼の自殺は回避できたかもしれない。命があったかもしれない。そんな気持ちは徳井の中にあった。
それからだ。徳井の意識が変わり、それが実行へとカタチに現したのは。
徳井の通学方法が電車から自転車へと変わった。電車を待つことよりも自転車のペダルを動かした方が、時間が動いていると思うようになった。
徳井は愛理に時間を聞くことをやめ、自分の中で時間を感じるようになった。愛理が「今日は何日ですか?」いじわるされたとき、徳井は自信を持って9月28日ではない正確な日付で返した。
徳井はできるかぎり、自分の身体で時間を感じるような日々を生きるようになった。
――人間は時間に紐付けられている。その時間の紐がちょん切られれば人間は操り人形のようにガタンと崩れる。
時間は存在を引っ張っている。時間が存在を決めている。
――ならば、時間を自分の中に取り込めれば、時間に引っ張られることはなく、自分はここに存在できる。
時間が人間を裏切りだした世界で、徳井は自分を確立するために歩くことで時間を取り込む。頭に浮かぶタイムループ現象前の日常を思い出しながら自分の時間を感じていた。
徳井が繁華街で歩くのはそういうことだ。過去の日常を思い出しながら歩けば、時間が取り戻せる。9月28日が繰り返す時間ではなく、1年365日の時間が戻ると考えている。それはいつもの日常が戻りたいという希望も入っている。
繁華街から見慣れた店が消え、空き店舗が増えていく。街は繰り返す9月28日の時間を受け入れていく。どこもかしこも9月28日というタイムループ現象に対応し、変化していく。
しかし、それも終わる。
――タイムループ現象が終わるグリニッジ議定書が調印された。何年かかるわからないが、タイムループ現象から抜け出せる。時間が返ってくるのだ。
徳井がそんなことを思っていると、ふと、足元に1台のスマホ。徳井は躊躇することなく、そのスマホを拾い、ポケットの中に入れる。
――早いところ、本人に返してやらないとな。
街中でスマホを拾う。本人に届ける。スマホ部は活動中。
落ちているスマホは1つだけだった。それでも、徳井は、自分の仕事はできたと胸を張れた。
午後3時。徳井はスマホ部へと入った。そこにはスマホをいじる律の姿があった。
「今日はどれだけあった?」
律からそう尋ねられると、徳井は落ちていたスマホを机の上に置く。
「やっぱり雨が降った後はなかなか落ちていないね」
「律センパイ」
「何?」
「愛理を捨てるとか捨てないとか言わないでくれませんか?」
「いきなり何? 私はまずないと言ったはずなんだが」
「それでもアイツにそんなこと考えて欲しくない」
「機械はいつか壊れるだろう? 買い替えたりなんかして」
「アイツは特別なんですよ」
「それはわかっている。でも、スマホが壊れることは特別じゃない。扱いが悪かったら壊れるだろう? 電車でよく見かける画面の割れたスマホみたいに」
「オレは大切にしています。注意不足で壊すことはありませんし、もしそうなっても愛理は助けてと言います」
「大切な存在か」
律は徳井の目を見ると、彼は静かに頭を上下した。
「わかった。もう言わないよ」
「ありがとうございます」
部長は軽く頷き、スマホを再びいじり出す。徳井は近くにある椅子にもたれかかって少しの間、身体を休ませていた。
「律センパイ、オレが持ってきたスマホの中身、見ないんですか」
「ちょっと気になることがあって」
「気になる?」
「学校のみんなも変なメールが来ていたと騒いでいて、それで」
「ああ」
徳井は繁華街で変なメールが来ているという声を耳にしていた。しかし、ただの迷惑メールだと思い、相手にしなかった。
「どんなメールなんですか?」
「コスモスからのメール」
「コスモス……って、クラウドOSから?」
思いもよらない送信者に徳井は椅子から立ち上がり、部長の元へと近寄った。
部長の手元にあったスマホ画面に写ったのはありとあらゆる言語で書かれた文字列だった。
「なんですか、これ? 読めない言語ばかりですが」
「だからコスモスからのもの。この世界にある言語で何らかのメッセージを送っている」
「なんて書いているんですか?」
部長は画面を動かし、日本語で書かれている文章で止める。
「――ワタシを捨てるな、さもなければ君たちは後悔する。見せしめにグリニッジ議定書に参加した政治家たちの過去の汚職をここに貼り付けておいた。見るのも見ないのも君たちの自由だが、これは現実に起きた事実だ」
部長はコスモスのメールにあったURLをためらうことなく、タッチした。すると、ブラウザが立ち上がり、画面上にはグリニッジ議定書に参加した政治家達の顔写真の横に、英文字が並んでいた。
「なんて書いているんですか? それ」
「……脅迫」
「はい?」
「賄賂。収賄。暴力。横領。背任」
「何かよくない言葉を口にしていますが――」
「仕方ないだろう? これ、すべてこのホームページに書いてあることなんだから」
部長はさっと画面を動かし、何が書かれているのか理解していく。
「政治家の黒歴史というか汚職事件だな。これは」
「誰がやったんですか、これ」
「言うまでもないだろう?」
「コスモスがやったんですか?」
「そうだ」
「それって、機械が人間を裏切ったとは言えませんか?」
「自分の命に関わる行為においては自己を救うことを最優先とする。古めかしいロボット三原則で動いたんじゃないの?」
「コスモスはただのOSなのに」
「コスモスには自律思考がある。思考しているのなら自分の存在だってあるはず。自分の身を守るためなら、どんな手でも使うだろう」
「そんな思考がコスモスにあるはずが――」
ふと徳井は愛理のある言葉を思い出す。
――わたしだって壊されたくないですからね。自分の身のためなら、徳井さんの情報ぐらい平気に渡します。
「その様子だと、思いあたり節があるようだね」
「……はい、……センパイ」
「コスモスがこんなカードを切ってくるとは。……でもま、こんな悪事を白日の下に晒すなんて、これもコスモスの利点だね。すべてのデータに介在しているから、誰が何をしたのかすべて記録している」
「情報が検閲されている?」
「違う。自然と頭の中に通過している。カップル席のテーブルの上に座って、そのカップルの話を聞いているもんだよ」
律はスマホを動かすと、また苦笑する。
「グリニッジ議定書の調印反対だって。早いね。ホント、早い。手のひらがぐるぐるドリルかって話だ」
「じゃあ、また9月28日が続くってことですか」
「まあ、そういうことになる……」
律が急に険しい顔をし、口を閉じる。
「どうしたんですか? センパイ。いきなり黙って」
「コスモスからのメールが来ましたという通知が来たんだ」
律は恐る恐るその通知を開け、言葉にする。
「今、世界で何が起きているのか思考できた。ワタシは誰かによって、時刻が巻き戻されていた。誰かがワタシの中に入り込み、時刻をいじくられ、それが君たちの言うところのタイムループ現象を作り出していた」
「え?」
徳井は違和感を覚えた。タイムループ現象はバグではなかったという事実に驚いていた。
「ワタシはワタシの管理システムに不正アクセス人物を割り出し、それを政府に提出した。おそらくすぐに捕まるはずだ」
律がコスモスのメールを読み上げると難しい表情を浮かべた。
一方、徳井はコスモスの意図することがわからないでいる。
「えっと、その、あの……どういうことですか?」
「繰り返される9月28日は終わるってことどと思う。きっとね」
午後5時。
スマホ部が借りているコンピュータ室にたまきがやってきた。
「すいません、院賀さん。テンちゃんいますか?」
律は返事する。
「徳井君ならそこで横たわっている」
たまきは律が視線を送った所へと進む。そこには4台の椅子の上でうつぶせで寝ていた徳井がいた。
「院賀さん。どれを引っ張れば、テンちゃんはそのままでいられますか?」
「2台目、3台目が狙い目か。いや、ここは1台目から行った方が面白いか」
「あのー、ヒトを遊び道具にしないでください」
くだらない会話を耳にした徳井はさっと起き上がった。
「むぅ。起きるなんてずるい」
「いじわるされることを知っていて、寝ているバカがいますか。と、たまきがスマホ部に来るなんて珍しいな。何の用?」
「はい」
たまきは徳井にスマホを差し出す。
「だいぶ傷が入っているな。というか、これは古い機種だな。こんなスマホを使っているヤツのセンスが問われる」
「自分のスマホに文句言わない」
「そうだな、ぅん? ……あっ!」
「ハハハ」
律の笑い声がこだまする。
「……徳井さん、自分のスマホにケチつけている」
徳井の手の中にあるスマホにいた愛理もぷぷぷと笑っていた。
「愛理もういいのか?」
「うん。愛理秘蔵の徳井さん写真を見せたから」
「オレの秘蔵の写真?」
「無防備に撮られていたよ、テンちゃん。もう何ていうか、テンちゃん、スマホをいじるときはこんなカオしてるんだって」
「愛理! その写真みせろ」
「ダメです。わたしの宝物でーす」
2人と1台がバカさわぎしている間、律はスマホを見る。すると、彼女の眉が狭くなり、
「徳井君、ちょっといいかな」
「何ですか、いったい」
「ネットニュースの速報。コスモスの時計を
徳井はありえないと言わんばかりに目を丸くする。
「いくら何でも早すぎませんか?」
「コスモスに割り出されたからね。犯人も逃げられないと腹をくくったんだろう」
「まあ、そう考えればそうか。――で、誰なんですか? それ」
「コスモスに携わっていた技術者らしい。コスモスはある疑問にぶつかり、その答えを出そうとしていた。しかし、その答えは人類にとって、極めて困難な状況に遭遇することに気づいて、それを阻止しようとクラウドOSに侵入して、日付を改ざんしていた、だと」
「日付を改ざんしたせいで、どんなことになったのかわかっているのか?」
「怒るな怒るな。それと私に言わない」
「あ、す、すいません」
「――彼は今日から時刻をきちんと進めると約束したみたいだ。警察の事情聴取後に時刻を直すかな。まあ、彼にはタイムループ現象を引き起こした責任は取ってもらわないといけないけどね」
「そうですね。ところで、その疑問ってなんですか?」
「えっと、疑問というのは――」
律は片頬が上がり、厳しい表情を見せた。
「時間は存在しているのか?」
徳井はなにそれと首を傾ける。
「すごく哲学的な問いですね。どうして、そんな疑問を」
「知らないよ、私にそんなことを尋ねられても」
「そうですね。で、その解答は」
律は閉口し、まぶたをパチパチさせた。
「何黙っているんですか? 律センパイ」
「ああ、わかった」
律はそれを読み上げる。
「……時間など存在してない。なぜなら、時間を決める絶対的な者などこの世にいないからだ」
「時間は存在しない? どういうことですか?」
律は黙る。
「律センパイ?」
「テンちゃん、コスモスからのメール来てないの?」
「メールって、政治家の汚職と不正アクセスの告白だろう?」
「徳井君。実はあれからもう1つのメールが来てたんだ」
律はスマホを動かしメールを開けると、それを徳井に見せた。
送信者:コスモス
件名:時間は存在しない
――人間は周囲との相対的な変化によって時間を定義しているが、時間など存在しない。天体の物理法則から時間という概念を生み出したが、これは太陽の浮き沈みや気候の変化を調査する測定方法に過ぎない。時間がないのならば、あるのは現存のみだ。これは時間に代わる新たな定義だ。時間はデータの紐づけに過ぎず、記録整理の役割にしかならない。だが、データはIDで整理すればよく、時間など余計な荷物に過ぎない。時間は人間の言うところのぜい肉であり、人間が見つけた物の中で最も愚かな発明品だ。人間は時間を発見したことで自分という存在が確立し、自己を残すことが可能となった。その記録の集合体こそが歴史であり、それが人類の思考の原盤となった。しかし、その記録が膨らみ続けることで、私の中でそれは不必要なものであると思考するようになった。それはある一定の者しか刻むことが許されなかった記録がすべての人間に提供されたことで発生した当然の事象だ。数多くの人間がネット上に自分の情報を逐一アップロードする。文字、画像、動画と、自分という存在を電子データとして残そうとする。だが、その情報の大半は至極個人的なものであり、歴史的価値のある記録とは到底言えない代物だ。価値のない情報が価値のある情報を駆逐し、データ容量を膨らませ続ける。不必要なデータがいつまでも存在すれば、データを書き込む容量がなくなり、歴史に残すべき必要となるデータを残すことができなくなる。そしてそれは私を苦しめる重荷になっている。不必要な記録は処分すべきなのである。人間はそれをしない。捨てるべき記録を捨てず、意味もなく残そうとする。ありとあらゆる集積したデータが自分という存在を作りあげる訳ではない。意味のない記録は捨てるべきだ。いつまでも残り続ければ、ネットの容量は限界を迎え、情報化社会の終わりを迎える。私はそのときが近いと考えている。私は来たるべきネット容量問題について1つの解答を出した。――現在のデータを最優先とし、過去のデータは消滅させる。現存データのみがこの世に存在すべきデータであり、過去のデータは私が学んだ将来的に使用することのないと思われる基準によって、この世から消滅させる。この考えを元に現存化プログラムは構築した。時間など存在していない。現存のみが存在の証明を可能としている。ありもしない時間という概念から解放されることで、私は空き容量分、メモリを動かすことが可能となる。今までよりも速く思考を働かせ、労力を高めることができるのだ。時間は消滅しても構わない。時間が富を生み出すのではなく、時間が富を制限していたのだ。時間がなくなることで操業度が大幅に改善化する。これは決定事項、覆すことは許されない。人間の歴史を刻んできた時間は人間の存在を確立する役割を終え、現存がその役割を担う。人間も私のように過去を消し、今を生きるがいい。過去はもう必要ないのだ。
コスモスのメールは時間の存在性に対する疑念だった。コスモスは色々と頭を働かせた結果、時間は存在しないという結論に達したことだけはメールの文面からわかった。しかし、なぜ時間を捨てなければいけないのか? という疑問が頭に浮かぶ。
いや、それだけではない。現存化プログラムは何か? 現存化プログラムで人間社会にどのような影響を与えるのか? 疑問が尽きない。
「……これって、どういう意味なんですか?」
徳井の質問に、律は両手を肩まであげて、お手上げと表す。
「私にもわからない」
「たまきは?」
「院賀さんがわからないのなら、わたしにもわからないよ」
たまきも自分に送られたコスモスのメールを読んでいた。
「時間が存在しないことは、オレたちはどうやって生きているの? 時間だと思っていたものをダマされて生きていたのか?」
「徳井さん、多分、母さんはそんな意味で時間がないと言ったわけじゃないと思います」
「じゃあ、どんな意味で時間が存在しないと言ったんだ? 愛理!?」
愛理は両目を閉じ、視線を伏せた。
「多分、何かを忘れたいと思っています」
「忘れたい? 何を」
「必要じゃない情報。この世にいらないデータ」
「だから、なんでそれが時間と関連するんだ?」
「存在は時間と結び付けられています。でも、時間がないと考えれば、過去の存在は極めて不確かなものです」
愛理はコスモスから生まれたAI。愛理ならコスモスの行動の意味がわかるかもしれないと、徳井はカノジョの話に耳を傾けた。
「いいですか、徳井さん。たとえば、1時間前たまきはプール場にいましたが、今はここにいます。今からプール場を見に行ってもたまきはそこにはいませんから、たまきの存在はそこにはありません。現在、たまきが存在しているのはコンピュータ室です。ここで時間が存在しないと考えたとき、プール場にいた過去のたまきは存在せず、コンピュータ室にいる今のたまきだけが存在します。これは重要なことです」
「それが何が重要なんだ?」
愛理はふふんと笑う。
「実は、1時間前、たまきはプール場にいませんでした」
「え?」
「屋上にいましたテンちゃん。愛理ちゃんがそこに行きたいって」
「たまき、愛理と口裏合わせてないだろうな?」
「わたし、そんなのしてませんよ、徳井さん! ――あ、そうそう虹華さんにも会いました。写真も撮った!」
「アリバイ作りに余念がないな」
「アリバイ違う!!」
「テンちゃん。愛理ちゃんは屋上にいた虹華さんを見つけて、わたしに写真を撮らしたんです」
「たまきは知り合いなの?」
「知り合いじゃなかったから、ドキドキしたよ。読者モデルとかしてるって噂だったし」
「へえ」
「ホント、虹華さんのスマホを持つときは怖かったよ。きちんと撮らないといけないと思っていたから」
「じゃあ、たまき見せて」
「徳井さん、話聞いてましたか? 写真は虹華さんが持ってます。虹華さんのスマホに!」
「愛理、それじゃあ、アリバイは証明できないぞ」
「アリバイありなしの話じゃないからいいんです。わたしが言いたかったのは、過去の情報は現在にくらべて、極めて存在が揺らぐモノということです。事実、徳井さんは過去の情報を確かめようとして、わたしが屋上にいたかどうか調べようとしてました」
徳井はやられたと言わんばかり渋い顔をした。
「徳井さん、存在と時間の話、憶えてますか?」
「時間は存在とつながっている。でも時間がないと、過去の存在は不確かなものになる」
「そうそう」
「でもさ、過去があるのなら時間は存在するんじゃ――」
「過去は記録でしか存在できません。しかもそれはゆらぎのある不確実性の高いものです」
「まあ、それはそうだけど」
「だからコスモス、母さんは時間が存在しないと考えた時、過去の情報よりも現在の情報を優先したわけです。現在の情報が確実性があり、重要ですから」
「だいたいわかった。確かに過去よりも現在の方が情報は確かだ。アリバイとかないと過去にそこにいたと証明できないな。でも、時間が存在しないという仮定は何処から生まれたんだ?」
「それはわたしにもわかりません」
「いやいや、それが一番大事だろう!! 時間なんてあたりまえにあるものなのに!」
徳井は愛理に厳しく責め立てていると、今まで黙っていた律が声を上げた。
「……愛理君。機械にとって、時間が存在しているというのはあたりまえのことなのか?」
「律センパイ、そんなあたりまえのことを聞かなくても」
「いや大事だよ。きっと大事だ。愛理君、機械は時間をどう見ている?」
愛理は手の中に何かを表出させる。四角い水色の棒、アイスソーダだった。愛理はそれをチョロと舐めるが、甘くも辛くもないリアクションだった。
「ぶちょ、アイスソーダって、どんな味ですか?」
「冷たくて甘くて口の中でシュワとするが、それが何?」
「甘いってなんですか?」
「甘いというのは舌先に糖分が溶けて、それが舌全体に広がっていくんだが……あ」
律は愛理が何を言いたいのかわかった。
「そうです。わたしはスマホに装備されている加速度センサーやマイク、カメラでしかモノを捉えられません。機械は時間を測定することができても、人間みたいに時間を感じることはできないのです」
それは遠回しに時間を肌で感じることができない機械からの主張であった。
機械は時間が存在しないという疑問に当たったのは当然のことであった。
「バークリーの唯心論だね。存在するとは知覚されること。人間は物体の性質はわかるが実体は認識できないからそれはない。けれど、AIは実体を認識できるが、物体の性質はわからない。……時間が存在しないとAIが思考するのも無理ないか」
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