Aパート2
屋良はちゃっかりと缶ビールとツマミを両腕に抱え込み、事務机の椅子に座った。
瓶価塔は屋良と入れ替わるように応接用のソファに座り、向かいに来訪者の少女を座らせた。
「仕事を依頼したい、とは?」
少女は勧められるがままにソファに腰をかけた。
背筋は伸び、姿勢は全く乱れていない見事な所作で堂々と佇んでいた。
その様を見て、屋良は唇を尖らせ、口笛を音を立てずに空ぶかしした。
応接用ソファに違いに座っている二人は、屋良のその動きを察知していたが、二人揃って無視した。
「企業調査、と言うべきでしょうか」
軍服の少女は声の調子を変えずに喋った。
りんと鈴の鳴るような美しい声ではあったが、抑揚がなく、どこか無機質な響きだと瓶価塔は感じていた。
「……」
瓶価塔は少し返答に躊躇った。
瓶価塔は目の前の少女の依頼について、ある程度どんなものか推測していた。
単刀直入に聞けば彼女は答えるだろうとも考えていた。
ただ、敢えてそれをこちらから切り出すことはしなかった。
そのため、二人は見合ったまま、時間が砂のように流れていった。
「詳細をお聞きしましょう」
水のような沈黙に、初めて波紋を浮かべたのは屋良だった。
事務椅子に座ったことをよいことにその場にふんぞり返って、あたかも自分が事務所の長であるかのような声色で言った。
ご丁寧にツマミの包装紙がごみごみと並べられた事務机に両肘をつき、口元で手を組んでいる。
二人は視線を向けた。
瓶価塔は余計なことを言うな、という意味を込めて目を細めて睨みつけた。
「失礼ですが、あなたは?」
「おっと、わたくしとしたことが……これは失礼。
わたくしは屋良 直斗と申します。以後、お見知りおきを」
「あいつは部外者です」
瓶価塔は心中でため息を吐いた。
通常の依頼人が訪問している状況であれば、屋良の存在は確実に邪魔だった。
道理を知らないわけでもないが、道理を知っていてなおそれを無視する振る舞いをする屋良は非常に厄介だった。
完全に役に立たない相手なら、瓶価塔は馴染みであっても容赦なく叩き出していたが、屋良は探偵業において非常に役に立った。
度が過ぎた振る舞いをした場合、そのときもまた叩き出していたが、屋良はギリギリのライン上でタップダンスを踊るが如く、いつもひらりと交わし続けていた。
本心としては瓶価塔は屋良がここにいることに意味があった。
自身の目の前に、黒い百合のような存在と二人きりで同室している間、どれほど精神が摩耗するか、それを考えると、余計な差し出口をする屋良でもいないよりかは遥かにマシに感じられた。
通常の依頼人であれば、屋良が軽薄な口を開く前に事務所から追い出していた。
今の振る舞いは、通常であれば度が過ぎている。
今回ばかりはそれは瓶価塔の感情的なラインを超えるものではなかった。
しかし、感情とはまた別のラインもある。
「邪魔でしたら、追い出します」
「いえ、結構です」
「……そうですか」
探偵業は、しばしばあまり健全とは言い難いことを行うことがある。
依頼を受けて、人が秘密にしていることを暴き、それを報告する。
もちろん、他の業務もあるが、どんな業務であっても依頼内容は依頼人本人にも瑕疵となるものが多い。
であれば、その内容を開陳するにあたって、第三者の存在は認めたくないというのが人情だろう。
瓶価塔の心の中にある、嫌な予感はますます確信に近くなっていく。
下腹辺りの奥底で、目に見えない、感触のない何かがぐるぐる渦巻くのを感じている。
「詳細をお伺いいたしましょう」
漠然とした物理的ではない不快感を抑えながら瓶価塔は尋ねた。
このまま沈黙を保っていたならば、屋良は更に一段進んだ爆弾を投げ込んできただろう。
こうやって自分が口火を切らなければ、酒臭い息とともにゲハゲハと笑いながら、背中を突いてくることが予想できた。
むしろ、それが目的だったのだろうと、瓶価塔は忌々しいほど気が利く友人を心の中で呪った。
「満福教団について、知っていることを教えていただきたい」
瓶価塔は唇を舐めた。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「教祖を誅し、教団を解散させるためです」
「……剣呑ですな」
瓶価塔は目の前の少女を見た。
入ってきたときと変わらず、表情は変えていない。
感情らしいものは何も読み取れず、従って、彼女の言葉は何一つ嘘でないことが理解できた。
「確かに、あまり世間では評判の良い教団ではありませんが、かといって法に触れる行為はしていないでしょう。
週に幾度か集会をやっているそうですが、やや風変わりな信仰方法とはいえ、非常識なことをやっているわけではありません」
一瞬だけ、瓶価塔には彼女の表情が初めて少し揺れたように見えた。
「信仰の自由は誰にでも認められるものである。
違いますか?」
「法を犯しています」
とっさの一言に、瓶価塔は目を丸くした。
ちらと屋良の方に目を向けると、屋良は大げさに『知らない』とジェスチャーで返答した。
「それは……知りませんでしたが、一体どんな犯罪を?」
「国の法を犯したのではありません。人としての法です。
かの首魁は、外法によってその教団を作り、我欲によって現世に毒を撒き散らしています」
瓶価塔は流石に閉口した。
流石に何度も何度も屋良に視線を向けると、挙動不審に思われる可能性があるため、視線は向けなかった。
仮に向けたとしても、屋良は両手を持ち上げて顔を振るか、あるいは両手を叩いて馬鹿笑いするだろう、と瓶価塔は考えた。
そして数秒の間、屋良が笑い声も手をたたく音も聞こえなかった。
「私の言っていることが、わかりませんか?」
瓶価塔はその言葉に頷かなかった。
もし、今の言葉を一ヶ月前に聞いたならば、一笑に付して終わっただろう。
一週間前ならば、それでもなお、信じず取り合わなかった。
しかし、瓶価塔自身がどうしても信じたくないと考えていても、本心で信じざるを得ないことを認めざるを得なかった。
「……」
適当な言葉が、泡のように浮かんで、乾燥しきった口の中で消える。
肌が泡立ち、手と膝が震えている。
瓶価塔の目には黒服の少女が映っていた。
いつも見慣れた事務所にいるはずが、視界と記憶が混同し、瓶価塔にはここが事務所か、暗い路地裏の中なのかの区別がつかないでいた。
「私があなたに提示できる報酬は、三つあります」
「なんだ?」
もはや依頼人相手という取り繕いもできないほど瓶価塔は取り乱していた。
全身から汗が吹き出ており、息をするだけで疲労困憊の状態になっていた。
「一つ目は、金銭としての報酬です。
こちらは世俗一般的な報酬となります」
黒い少女の提示した報酬額は、相場として比較的高い値であったがそれほど非現実的な金額ではなかった。
ただそれだけのことであるが、瓶価塔は意味を解するのにしばし時間がかかった。
「そして二つ目は、あなたの心理的な傷跡を治癒する手助けです」
「俺がPTSDを患っていると?」
「黄泉に初めて触れた人にはよくあることです」
「黄泉……」
「体調、体質、霊格等々、発症する条件は様々あります。
強く出るか、弱く出るかも人によって異なります」
少女は右手の人差し指を一本立てた。
「部屋の四隅、かすかに開いた戸、蛇口、排水口、木で出来た電信柱、川辺沿いの道祖神」
「……」
「非常口等の人が数ヶ月間使用しない戸、棚の裏、机の下に足を入れたときの足の下」
「……」
瓶価塔は冷や汗まみれになった顔を、右手で拭った。
目に汗が入り、刺激が走る。
ぼんやりと焦点がぶれた光景に、不可解なものが見えた。
「私が今立てている指の先」
少女が言った通り、彼女の右手の人差指の上に、何かがあった。
輪郭がおぼろげで揺らめく何かが、青白い光を放っている。
「……もう、たくさんだ。やめてくれ」
腹のそこのものを吐き出すように、瓶価塔は言った。
少女はおもむろに指を下げる。
先ほど見えていた「何か」はまるで何もなかったかのように消え去っていた。
「何かわからないが、さっきあなたが言ったところに何かがいた。
形は見えない、輪郭もない、視線を感じるというわけでもない。
だけど、何かがいた」
「霊か、霊以外の何かです」
「あんたは、あれを見えないように……感じないように出来るのか」
「出来ません。あなたの魂の瞳孔はもう開いてしまった」
瓶価塔は絶望的な気持ちになった。
数日前、彼女に出会ったその日から、意味もなく、『何もない空間』に恐怖を感じていた。
影も形もなく、その痕跡すら見つけられない、ただ視覚でも聴覚でも嗅覚でも感じられない、何かが、世界にはうごめいていた。
瓶価塔は世界を感じるためのすべての感覚器以外で、その『何か』を感じ取っていた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだ。
触れる触れないじゃなくて、見ることもできないものを、どうやって恐れずにいればいい」
「簡単なことです」
「……簡単なのか?」
「そうです」
瓶価塔は少女の目を見た。
少女もまた瓶価塔を見ていた。
「恐れなければいい」
「だから、それをどうやればいいんだ」
「知りません。それはあなたが見つけなければいけないことなので」
瓶価塔は思わず立ち上がり、少女に殴りかかろうとした。
感情だけが先走り、拳を握り、振り上げ、それを振り下ろした。
しかし、その拳はソファにめり込むだけだった。
「……!?」
少女はそっとソファーから立ち上がった。
ソファーに拳を埋め込んだまま動けない瓶価塔の横に立ち、その拳にそっと触れる。
びっくりするほど冷たいその指先が手首にふれると、瓶価塔の硬直した体がそっとほぐれていくように感じた。
そのまま肩を押され、今まで自分が座っていたソファーまで押し戻された。
瓶価塔は、今まで自分が座っていたソファーに誰か別の人が座っていることに驚愕した。
屋良ではなく、屋良は事務机の椅子に座って、呆然と少女を見ているのが見えた。
それならば、一体、誰が、と瓶価塔は思索したが、思考はまとまらなかった。
自身の座っていたソファーに座っている何者かの上に再び座らされた。
完全に座り込むと、今度はソファーに座っている何者かがいないことに気がついた。
「お加減はどうですか?」
「あ……え?」
今、起きたことは一体なんだったのか、瓶価塔には全く理解できなかった。
何故、自身の拳は彼女の肉の体をすり抜けてソファーにめり込んだのか。
何故、そばで見ていた屋良が自身の蛮行を止めようとする素振りも見せなかったのか。
そして何より、自身の体を動かした感覚が一切なかったのか。
「今日はお加減がよろしくないようですね」
「……」
「後日、また改めます」
黒い少女はそういうと、コツコツと靴を鳴らして出口に向かい始めた。
瓶価塔は反射的に声を上げた。
「待て!」
少女は止まった。
姿勢はそのままにして、動かない。
「三つ目はなんだ?
報酬の、三つ目は……」
ゆっくりと、少女は振り返った。
瓶価塔には、なぜかその彼女の顔が見えなかった。
顔はこちらに向いているのに、見えていない。
また、瓶価塔は心が萎える音を聞いた。
「あなたがやり残した依頼を、手伝います」
瓶価塔は、恐怖に悶える自身を心の中で叱咤した。
数日前に繁華街の裏路地であった事件から、彼の頭と心はめちゃくちゃになっていた。
実質、あの出来事から、少女が瓶価塔に告げた『存在しない何か』を感じ取れるようになったことに加え、心理的外傷も追っていた。
酷く打ちのめされ、この数日間、もがき苦しんでいた。
以前のように過ごそうと砕身しようとも、全くうまくいかなかった。
あたかも底の見えない暗闇の中で這いずっているような懊悩を続けていた。
瓶価塔をそこまで追い詰めていたのは敗北感だった。
意味不明な獣に襲われたことも、得体の知れない恐怖にとらわれていることも、一つの原因ではあったが根本的なものではなかった。
ただ、一つ、無様な敗北感が、瓶価塔を汚泥に叩き落としていた。
「では、また」
瓶価塔は反射的に応接机を蹴り上げた。
机は応接用ソファーを飛び込え、壁にぶち当たり、そのまま落ちた。
「下に、俺の車がある。五分くれ、準備をする」
瓶価塔は黒い少女の顔を見た。
今度ははっきり、くっきりと少女の顔を見ることが出来た。
心なしか、さっきまでの非人間的な無機質さが薄れ、年相応の生きた少女の顔に見えた。
「えっと……何がどーなってるのか、僕ちゃんわからないんだけど」
「お前は帰れ」
「えー、そんなー」
一人蚊帳の外に置かれ、呆然と見ていた屋良が口を尖らせて言った。
瓶価塔はそれを無視して、ごそごそと事務所の中の事務机や、金庫をあさり始めていた。
屋良は瓶価塔に対して何かを言ったとしても、もう反応はないだろうと見切りをつけると、残る一人の方に目を向けた。
その人物は瓶価塔があくせくと動く様子を伺っていたものの、すぐにそのまま事務所の戸に手をかけていた。
「お嬢さん、一つだけ」
「何か?」
「お名前を、教えていただけますか」
少女の動きが止まった。
瓶価塔はそれに気づいた素振りはなく、携帯金庫のダイアルをあわせている。
「もうご存知では?」
「いーや、全く。
それにさあ、俺も名乗ったわけだから、ね」
「……ただ、『秋津號』と呼んでくだされば、結構」
屋良は赤ら顔のまま、口を大きく歪めさせて、にんまりとした笑顔を浮かべた。
「知ってた」
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